2019年6月16日 礼拝説教「失望に終わらない真の希望」

ヨブ記14:13~17
ローマの信徒への手紙5:1~11

櫻井重宣

第二次大戦下、ドイツやポーランドの強制収容所でヒットラーに抵抗した人や、障がいのある人々、そして600万人ものユダヤ人が殺されました。ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の心理学者は強制収容所から奇跡的助かった人ですが、戦後、「夜と霧」など多くの書物で強制収容所の様子を紹介しています。

 こういうことがあったというのです。あるユダヤ人の音楽家がアウシュヴィッツの強制収容所に入れられました。彼はそれまでの自分の生活と強制収容所の生活のギャップが大きく、日に日に弱っていきました。そうしたなかで、彼は、5月30日に自分はこの強制収容所から解放され、家族の待つ故郷に帰れるという夢を見たのです。それ以来、彼は5月30日を唯一の生きがいとして、忍耐して生きてきたのですが、その5月30日が近づいても解放される気配がありません。5月30日の前日、彼は高い熱を出して倒れ、そして5月30日が何事もなく過ぎたとき、5月31日の明け方にこの音楽家は死んでしまいました。

 クリスマスが終わったあとも、亡くなる人が相次いだというのです。クリスマスには解放される、そのことを生きがい、生きる目標としていた人が、クリスマスに何事もなかったとき、肉体的にもう生きる力はありませんでした。

強制収容所では、生きる意味、生きる希望があるかないかで大きな違いがあるのですが、5月30日になったら、クリスマスになったら解放されるという希望は根拠がありませんので、こうした希望が失望に終わると、生きる力はもはや残っていませんでした。

わたしは、ワッツという画家が描いた「希望」という絵にいつも大きな励ましを受けています。目隠しをされた女性が、大きなボールのようなものに座っています。丸いボールですので、すべり落ちそうです。ボールはよく見ると地球です。

この女性は目隠しをされ、竪琴の弦が奏でる音楽に耳を傾けています。この女性はすべり落ちないのは、空の上に輝く小さな星からの細い糸が竪琴を支え、竪琴の弦が、そしてその竪琴から奏でられる音楽が彼女を支えているのです。ワッツは、どんなに絶望的な状態であっても、上から支えているもの、それがどんなに細い糸、弦であっても、奏でられている音楽であっても、それが希望だというのです。言い方を変えれば、希望は自分が手にできるものではなく、目に見えないのですが上から支えているもの、それが希望だ、というのです。

旧約聖書にヨブ記という書物があります。ヨブという人は、経済的にも、家庭生活においても、そして健康にも恵まれた人でした。そのヨブが8年前の東日本大震災のような大きな災害で、持っていた財産だけでなく、与えられた子どもたちもすべて無くし、自分も病気になってしまいました。失意のうちにあるヨブを慰めようとして3人の友人たちが遠くからやってきました。友人たちはヨブがどうして苦しむようになったか、その原因を探り、ヨブにそれをただすように勧告しました。けれども友人たちから、あなたの苦しみの原因はここだ、と言われても、ヨブには慰めとならず、ヨブはいらいらするばかりです。さらにヨブは神さままでがどうして自分をこんなに次々と苦しめるのか、どうして自分を敵のように追い詰めるのか、と不平を言いだしました。ついにヨブは神さまのあまりの仕打ちに耐えかねて、もう自分を陰府に隠してくださいと願いでたのです。

陰府は神さまから見放されたところです。神さまと関わりがないところです。そこなら神さまは御手を及ぼさないはずだ、だから、陰府に隠してくださいと願い出たのです。

けれどもそうしたことを願い出たヨブに示されたことは、人間の苦しみのどん底ともいうべき陰府で、神さまから見放された陰府で、神さまと人との間を取り持つ方、神さまと人の間に立って執り成す方、すなわち仲保者が、苦しんでいるヨブのために祈っていることでした。仲保者が苦しみの底の底で、ヨブのために神さまに執り成していることを知ったのです。

わたしは若い頃秋田の教会で20年余り奉仕しましたが、その教会に、関節リューマチのため4歳のときから自分の足で歩くことができなくなった方がおられました。わたしより9歳上のその方は、戦時中だったこともあり、学校に入学できず、小中高、一度も学校に行ったことがありませんでした。あるとき、お姉さんの娘さん、姪御さんがどこからか聖書をもらってきました。その方は飢え渇く思いで聖書を読みました。最も感銘を受けたのはヨブ記で、ヨブと自分が重なったというのです。ヨブもそうでしたが、その方も自分の生まれた日をのろいました。けれどもヨブ記を読み進む中で、苦しみの底の底で、神さまと自分との間に立つ仲保者であるイエスさまが自分のために祈ってくださっていることを知りました。その方は、聖書それもヨブ記があったので、自分は生きることができた、とおっしゃっていました。

初代の教会で大きな働きをしたパウロという人がいます。パウロという人はユダヤ社会のエリート中のエリートでした。家柄、学歴など何一つとっても申し分のない人でした。それだけに最も悪いことをした人が架けられる十字架の死を遂げたイエス・キリストを救い主と告白するキリスト者の存在を認めることはできず、キリスト者を見つけ次第男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行し、投獄しました。そのパウロがダマスコという町に行く途中、突然天からの光が彼の周りを照らし、地に倒れると「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえました。パウロがまだサウルと呼ばれていたからです。サウルが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えがありました。

パウロは、イエスさまを迫害したのではなく、イエスさまを信じる人々を迫害してきたのですが、パウロは「なぜわたしを迫害するのか」という天から声で、イエスさまという方がどういう方かを知りました。イエスさまはだれかが苦しんでいると、ご自分も苦しむ、だれかが痛むとご自分も痛む、だれかが涙すると、ご自分も涙する、そういう方であることを知ったのです。そしてパウロは、イエスさまを信じる人を迫害する歩みから180度方向転換し、イエスさまのことを宣べ伝える伝道者になりました。

イエスさまにお会いする前のパウロは、苦しみ、病、悲しみはあってはならないものでした。すなわち苦しみや病気、悲しみをマイナス面でしか受けとめることができませんでした。けれども、イエスさまにお会いした後、苦しみや悲しみ、病の受けとめが180度変化しました。

先ほど耳を傾けたローマの教会へパウロが書き記した手紙で、パウロは「苦難をも誇りとします」と語っています。誇りとする、というのは,自慢する、前向きに受けとめることです。どうして苦難を前向きに受けとめることができるかというと、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むからだ、というのです。忍耐は我慢するということではなく、その下に留まるということです。パウロが苦難の下に留まることができるのは、イエスさまがわたしたちと一緒に苦しんでおられるからです。そしてそこにとどまり続けるなかで、練達が生じます。練達は不純なものが取り除かれ、人の痛みに、悲しみに共感することです。イエスさまの心を心とするものとなります。そして練達は希望を生み、希望はわたしたちを欺かない、失望に至らないというのです。そしてパウロは、わたしたちが罪人であったとき、それだけでなく神さまに敵対していたとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった、わたしは神さまがわたしたちをどんなときにも愛してくださっていることを知ったというのです。

この説教のあと御一緒に讃美歌398番をうたいますが、この讃美歌の歌詞は葛葉国子さんという方がお作りになりました。葛葉さんは幼稚園の先生を志した方ですが、学校を卒業してまもなく大きな病気になってしまいました。葛葉さんは、自分が持っていたのぞみはついえてしまったのですが、ひたすらにイエスさま助けてくださいと願い出ています。葛葉さんは自分のこうした祈りにイエスさまは応えてくださる方だということを信頼しています。それがどんなにか細い声で助けてくださいと願っても神さまはちゃんと聞いて下さるということを信頼しています。本当にそうです。イエスさまという方はそういう方です。

ワッツが「希望」という絵で描く弦は、ヨブの言葉でいうなら、陰府の世界で、神さまから見放されたような苦難の底の底で仲保者が祈っていてくださることです。パウロの言葉言えば、だれかが苦しむとき、共に苦しみ、だれかが悲しむとき、共に涙する、そういうイエスさまがおられることです。そういう方がおられるので、希望があるのです。

このたびの伝道礼拝の案内のチラシに記しましたが、中東のある国で、子どもたちに何が欲しいかと尋ねたとき、ひとりの子どもはお菓子をください、ひとりの子どもはお金をください、と答えたのですが、ひとりの子は希望を下さいと答えたというのです。このことを紹介したのは、エルサレム生まれで、15歳のときからアメリカで生活した人ですが、いつもパレスティナ、アラブ社会の側に立って発言し続けたサイードさんという思想家です。先年、白血病のため亡くなりました。サイードさんはパレスティナやアラブで、こうした願いを発する子どもがいるということは、本当に深刻だと言うのです。

サイードさんは、大江健三郎さんと親しい交わりがあった方ですが、こういう時代であるけれども、「他者の考えに耳を傾ける人がいる限り、未来に希望がある」と語っています。希望が欲しいという子どもがいたり、親の虐待で、また、学校の友人たちのいじめで死んで行く子どもたちがいる時代ですが、他者の考えに耳を傾ける人がいる限り未来に希望があるという、サイードさんの言葉は重みがあります。

原爆が投下されて50年ということを記念して、今から24年前の1995年11月、広島で「希望の未来」という主題で国際会議が行われました。わたしはその年広島教会に赴任して半年後でしたので、その時の感動を今でも思い起こします。その会の講師の一人が作家の大江健三郎さんでした。その講演で大江さんは「ヒロシマに50年前にあったのは、大きな絶望だった。・・・自ら被爆しながら、同じ被爆者の救助のために道のないところに道をつくる歩みを始めた原爆病院の医師たちをはじめとする、すでに今は亡くなった多くの人の面影を・・・・。わたしにとって、亡くなってしまった友人、知人、彼らのみが希望の未来のしるしです」と、幾度も絶句しながら声をふりしぼって語りました。

 今、わたしたちの住んでいる世界には、ヒロシマ、ナガサキに落された原子爆弾が14、500発があります。世界中の多くの国が核兵器の廃絶を願っても、核保有国は核兵器を放棄しようとしません。また、子どもへの虐待、いじめの問題があり将来に希望を見いだすことが困難です。大江さんは、もし「希望の未来」を探るとすれば、自分自身も被爆しながら、人類史上初めて投下された原子爆弾による被爆者の治療を手探りで行った医師たちの存在が、希望の未来のしるしだというのです。

自らも被爆しながら被爆者の治療にあたった原爆病院の医者ということで、大江さんの念頭にあった医者の一人は重藤文夫という医者です。このときは副院長でしたが、その後長く原爆病院の院長をされました。

重藤先生もそうですが、1945年8月6日、人類の歴史で初めて用いられた原子爆弾が投下されたあの日から、医師たちは自らも被爆しているのですが、懸命に治療に励みました。原爆が投下されて2ヶ月後、一人の若い医者が自死するという出来事がありました。連日の治療に疲れ果て、しかも夜を徹して治療しても朝になると亡くなってしまうそういう現実の重みに耐えかねての死でした。その若い医者は亡くなる直前まで、重藤先生に、人間はこれでよいのか、人生とは何か、という問いをぶつけていたそうです。重藤先生は若い医者の問いに十分に応えることができず、若い医者を死なせてしまったという苦しみを、申し訳なさを抱えつつ、被爆された方々の治療に従事されました。

実は大江健三郎さんが、初めてヒロシマを訪れたのは1963年8月6日でした。その年の6月13日、ヒロシマを訪ねる50日前に、大江健三郎さんと妻のゆかりさんご夫妻に第一子、光さんが与えられました。お生まれになった光さんの頭に見るだけで目をそむけたくなるような異常がありました。大江さんはこう書いておられます。「その子がこのまま衰弱して死ぬのだったら、と思うか、むしろそうさせたいと思うというか、積極的に手術する気持が起こらない。町医者も遠回しにそういうことを言う」、と。

こうした暗い気持でヒロシマを訪ね、重藤文夫先生にお会いしたのです。重藤先生に光さんのことを相談したわけではないのですが、若い医者を死なせてしまったという悲しみを携えつつ、被爆された方々の治療に励み続ける重藤先生の姿が心深く印象づけられ、東京に戻ったのです。

そして東京に戻った大江さんは脳医学の専門家である森安信雄先生と出会いました。あの子は死んでくれた方が妻にも自分にもありがたいと思ったこともあった大江さんにとって森安先生との出会いは、人間としての生き方を問われる厳しいものでした。どんなにつらくても現実を直視するように、しかしこの光さんに神さまの愛が注がれていることを語ってくださったのです。

大江さんご夫妻は重藤先生の姿に励まされ、森安先生に手術をして頂く決心をしました。森安先生そして奥さまの恵子さんは光さんを、大江さんご夫妻を励まし続けましたので、光さんにとって森安先生ご夫妻は本当に大切な存在となりました。

大江さんご夫妻は光さんが成長する中で、鳥の声に反応を示すことが分かり、森に光さんを連れて行き、鳥の声を聞かせたり、レコードで鳥の声を聞かせていました。光さんが初めて声を発したのは、森の中でクイナの鳴き声を聞いたとき、「これはクイナです、これはクイナです」という言葉でした。レコードで繰り返し耳にしたアナウンサーの言い回しでした。

大江光さんが初めて作曲したのは、森安信雄先生が亡くなったときです。「Mのレクイエム」です。それだけでなく、御主人を亡くし悲しみのうちにある恵子夫人のため、「けい子夫人のための子守歌」でした。森安恵子さんはわたしが在任していた秋田の教会の出身の方で、故郷に戻られたとき何度かお会いしていますし、恵子夫人のお兄さんご一家には秋田在任中お世話になりましたので、光さんと森安先生ご夫妻との交わりを感銘深く思い起します。

大江さんが、「希望の未来のしるし」ということで、涙しつつおっしゃった原爆病院の医師たちの一人は重藤文夫先生ですが、原爆が投下され、あまりの被害の大きさ、重さにたじろいで、人間はこれでよいのかと問いつつも答えがないまま自ら死んでしまった若い医者の死も一粒の麦として死んだお一人ではないかと思うものです。

最近若い牧師が「希望する力」という本を出版しました。その本にアメリカの合同教会のキャッチフレーズ、「神さまがコンマをおいておられるところにピリオドを打たないで」が紹介されていました。わたしたちはつらいこと、病気、試練のとき、愛する人の死に直面したときピリオドを打ちたくなります。けれども神さまはカンマで、そのあとも何か新しいことをされようとしているのです。

神さまによって与えられる希望に日々力を与えられ、一歩一歩歩んでいきましょう。

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