2024年2月11日礼拝説教「生みの苦しみ」

牧師 田村 博

2024.2.11

説教「生みの苦しみ」

旧約聖書 雅歌6:8~10

新約聖書 ヨハネの黙示録12:1~6

 教会の暦によると、今週の水曜日(2/14)は「灰の水曜日」です。聖書において「灰」というのは、象徴的な重要な意味をもっています。人間は、地上での生涯を終えると最期には誰もが「灰」になります。ヨブ記2章8節には、深い絶望の只中で、「ヨブは灰の中に座り…」と記されています。そこにおける「灰」は、深い懺悔や悲しみの象徴としての「灰」であり、時に「悔い改め」「罪の告白」と重なります。教会の暦は、この「灰の水曜日」から「受難節」に入ります。この「受難節」は、主イエスが十字架に向かって歩まれたその歩みをあらためて心に刻み、わたしたち自身が、これからの歩みをどのように歩んでゆくべきかを考える大切な時です。

 それゆえ、今日(2/11)を含めて3回の主日は、ヨハネの黙示録の講解説教ですが、3月3日からは受難節にちなんだ聖書箇所を取り上げて主日礼拝を共におささげし、3月31日の復活日(イースター)を迎えたいと思います。

 

 先週11章の最後の箇所では、主イエス・キリストが再びいらっしゃる時(再臨の時)、世の終わりの完成の時にささげられる天上の賛美の様子が記されていました。先週やや詳しくお話ししたように、このヨハネの黙示録は、時系列でこれから起きようとしている出来事を一直線に並べたものではなく、繰り返し、主イエスの再臨の時、世の完成の時の天上での礼拝の様子を描いています。それは、わたしたちがどんな困難な中にあっても立ち返るべき場所がそこにあるからです。そして、その天上の礼拝に至るまでの過程にあるさまざまな困難、混乱を、時に超自然的な表現で描いて、同じような困難、混乱を経験して心くじけそうになってうなだれているわたしたちに、もう一度、顔をあげる力を与えようとしているのです。

 12章1節をご覧ください。

「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」

「大きな」と強調されているのは、この黙示的な表現をもって描かれている「しるし」が、多くの人々にとってかかわりのある、大切な「しるし」であるゆえです。

 「一人の女」が登場しますが、その特徴について、まず3つのことが示されています。

 第一は、「身に太陽をまとい」です。「太陽」とは、ヨハネの黙示録ですでに何度も出てきた言葉で、主イエス・キリストご自身をあらわしています(1:16,10:1)。旧約聖書のマラキ書3章19~20節にも「見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。」と記されています。救い主イエスが、「義の太陽」とたとえられています。「一人の女」は、その身に「太陽」すなわち「主イエス・キリスト」をまとっているのです。これは、キリストの体として一つにされた「教会」を指しています。

 この「一人の女」(=教会)は、「月を足の下にし」とあります。太陽と比較したときの「月」というのはどのような存在でしょうか。空に浮かんで輝く太陽と月は、いずれも同じように丸く、同じぐらいの大きさですが、決定的に違うことがあります。太陽はそれ自身燃えて光を放っているのですが、月は自ら光を放っているのではありません。最近、日本のNASAが打ち上げた月面探査機の着陸が成功し、その映像が地上にいるわたしたちのところにも届けられました。映し出された景色は、ごつごつした岩だらけの、「命」とは真逆のようなものでした。地球から分離されたという月の起源を考えると、あるいは水や地球にある物質の痕跡は見つかるかもしれません。十五夜の晩には美しく夜空に輝く「月」ですが、ここでは、見かけ上は輝いているが実は近づくと美しいことは何もない、自分では光を放つこともできないこの地上の闇の領域を象徴しているのです。罪、悪、混乱、死といった闇です。「一人の女」(=教会)は、その「月」の見せかけの輝きに惑わされず、その足の下にしっかりと踏みつけるというのです。そして、3つめの特徴として「頭には十二の星の冠をかぶっていた」とあります。聖書において「十二」という数は、「十二部族」「十二使徒」などのように神の選びの象徴としての意味を持っています。教会に招かれているすべての人一人一人が、神によって選ばれ、招かれ、そしてキリストの体として一つにされているのです。「女」と表現されていることにも意味があります。教会には「キリストの花嫁」としての大切な使命があります。

 コリントの信徒への手紙二 11章2~4節には、使徒パウロが、キリストの花嫁としての教会を言い表した箇所があります。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」

 使徒パウロは、コリントの教会をキリストにささげられた花嫁と表現し、パウロが留守にしている間にこれでもかとしつこく誘惑しようとした異なる福音をもたらそうとした働きを、最初の女・エバを誘惑した蛇の欺きと重ね合わせて記しているのです。

 ヨハネの黙示録のこの箇所では、この「一人の女」の「生みの苦しみ」が大きなインパクトをもって迫ってきます。2節。

「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。」

 新しい命を生み出すことは、教会の使命です。それは、教会が教会のために教会員を増やすということとはまったく違うレベルの出来事です。教会に洗礼を受ける者が起こされるということは、一人の女性が身ごもり、出産することと等しいというのです。出産のために、食べてはいけないものは食べることをやめ、激しい運動をしてはいけないとなればやめるでしょう。胎児にとって必要な栄養のバランスを考え、節制することでしょう。そればかりか、出産には必ず陣痛があり、苦しみがあります。そのように、キリスト者としての新しい命、永遠の命が誕生するために、痛みが伴うのです。出産は痛いからしないという人はいないでしょう。誕生の喜びがあるからです。

 さらに、それだけではなく、もう一つのことが描かれています。3、4節をご覧ください。

「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」

 「火のように赤い大きな竜」とあります。ここにも「大きな」という言葉が使われています。それまでもずっと存在していたにもかかわらず鳴りを潜めていた大きな勢力があるのです。その勢力が、新しい命の誕生という場面で、表立って向かい合って敵対してくるのです。真剣になって阻止したいほどのことなのでしょう。「火のように赤い」「十本の角」は、破壊と血潮をあらわしています。「七つの頭」「七つの冠」は、見かけ上、まるで全能者の力を持っているかのように見えることをあらわしています。しかし、そこには「七つの頭」「十本の角」というアンバランスがあり、「角」という闘いの道具、相手を傷つけるための道具が、突出していることがわかります。人類は、歴史の中で、常に血を流し続けています。日本も第二次世界大戦を通して多くの血を流すという経験をしました。自国民、他国民の多くの血です。その血の量があまりにも多かったので、二度と戦争はすまい、と決心をし、それを国の憲法にまで記して守ろうとしてきました。ところが、その枷を外して、再来年からは軍事費を大幅に増やすことを政府は決めてしまいました。その財源は、もちろん増税です。人を助けるためであったり、人を育てるという教育のためより、はるかに多くのお金を軍事費に注ごうとしています。この現実に喜ぶのは、この「火のように赤い大きな竜」です。そして、この大きな竜は、まことのキリスト者、永遠の命を授かる者が生まれることがどんなに、自分にとって危険なことなのかをわかっているのです。だから、生まれるやいなや食べてしまおうと待ち構えているのです。

「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。」は、何を意味しているのでしょうか? 人工衛星がわたしたちの頭上を飛び回っていることを皆さんもご存じのことと思います。北朝鮮も、もっともっと増やすと宣言しています。今から12年前2011年でさえ、一年間に打ち上げられた人工衛星はすでに129機もあったのです。それでは2021年一年間では世界でどのくらい打ち上げられたと思いますか? 実に1809機でした。2022年は一年間で2368機でした。寿命となり宇宙のゴミとなってしまったものを除いても現在、12000機を超える登録がなされているのです。地上での力の拡大では飽き足らず宇宙にまで飛び出している現代のわたしたちなのです。「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。」は、その愚かさと危険を痛い思いをして味わわなければならない時が来ることを指し示しているのかもしれません。

 先月、横浜指路教会を会場に「ファラデーセミナー」という会合を持ちました。少しだけお手伝いをさせていただきましたが、詳しいことは先月の「牧師室の窓から」に書かせていただきましたので、ご覧ください。3人の英国の第一線で働く科学者をお招きしての講演会でした。皆、熱心なクリスチャンで、科学者として生きる上で、信仰者としてしっかりと生きることが今ほど大切なときはないと感じて、そのことを日本でも分かち合おうと、はるばる海を渡って来日したのです。気づかないうちに「赤い大きな竜」を喜ばすことに手を貸してしまう危険が、多くの科学者にある時代なのです。

 5、6節をご覧ください。

「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。」

 たとえ、「赤い大きな竜」が待ち構えていたとしても、「生みの苦しみ」が激しかったとしても、主なる神は、その誕生、すなわち永遠の命に与かる者の誕生を成就してくださいます。「鉄の杖ですべての国民を治める」というのは、一人一人、その人にでなければできない使命があるということです。一人でこの世を治めるというのではなく、キリストの体なる一人一人が結びあわされるときに、「鉄の杖」のような堅固な働きが前進するのです。その働きをまっとうしたときに、わたしたちは神のもとへ、その王座へと引き上げられます。なんとすばらしいことでしょうか。どんなに厳しい「竜」のもたらす嵐が吹き荒れようとも、わたしたちには、逃げ込む場所があります。旧約聖書のエリヤが迫害の真っただ中で逃げ込む場所を備え続けられたようにです。また、ここに記されている1260日という数字は、すでに11章3節に出てきました。「二人の証人」が預言し続けた日数としてです。実は、この数字は、その直前の節に出てきているのです。

「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」(11:2~3)

 1か月を30日で計算すると、30×42=1260になります。あえて、日数と月数で変えているのは、神様がわたしたちの一日一日をいかに大切に思ってくださっているかをあらわしています。主の視線がわたしたちから離れることは、一秒たりともないのです。そのことを示すために1260日と、主はあえてヨハネに示されました。さらに24時間をかけて30,240時間とおっしゃることもできました。1,814,400分とおっしゃることもできました。108,864,000秒とおっしゃることもできました。42か月ではなく1260日という数字が用いられていることには、そのような意味を込められているのです。「生みの苦しみ」は、永遠に続くわけではありません。限られた時間であり、そのひと時ひと時に主なる神の目が注がれている時間なのです。それゆえ、わたしたちも希望を抱きつつ、苦難を乗り越えてゆきたいと思います。

 (田村 博)

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