2026年4月12日 礼拝説教「手と脇腹をお見せになった」

牧師 田村 博

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手と脇腹をお見せになった

旧約 ゼカリヤ書 121014  約 ヨハネによる福音書 201923 

                          田 村  博

 先週は復活日=イースターの礼拝をおささげし、主イエスの復活を覚えて喜びを共にいたしました。当日は同時に、2026年度の最初の主日礼拝でもあり、役員任職式、教会学校教師・奏楽者任職式を行ないました。任職にあたっては、それぞれ言葉をもって誓約をいたしました。それぞれの働きのために立てられた一人ひとりのみならず、教会員全員がその働きを覚えて祈りをもって支えることの大切さを心に刻みました。聖書において「言葉」は、単なる情報伝達の手段ではありません。創世記1章3節には、「神は言われた。『光あれ。』 すると光があった。」とあります。創造主なる神は粘土をこねて万物を創造されたのではなく、「言葉」をもって創造されました。

 先週礼拝で朗読されたのはマルコによる福音書16章1~8節でしたが、世界で最初のイースターの朝、まだ暗いうちに墓に行った女性たちは、いきなり復活の主に出会ったのではなく、主イエスの復活の事実を「言葉」によって知らされました。ヨハネによる福音書は、マルコによる福音書と少し強調点が異なっており、マグダラのマリアへの主イエスの顕現がクローズアップされています(20章14節以下)。しかしながらその記述を冷静に受けとめると、やはり、まずは天使の「言葉」のみがマリアに臨んだという事実がはっきりと伝えられていることは変わりありません。

 本日の聖書箇所は、復活の主イエスが弟子たちに現れた場面を伝えていますが、その前にある「言葉のみ」という事実には大きな意味があり、そのことをスキップして本日の箇所を受け取ることはできません。しかも男性(弟子たち)の視点からその出来事をとらえ直してみると、彼らに伝えられたのは女性たちの「言葉」であり、同時に、それを信じようとしなかったという事実が浮かび上がってきます。

「しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じなかった」(マルコ16:11) と記録されている通りです。

 19節をご覧ください。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。」

 「家の戸にはみな鍵を」とあります。私たちは現在、自宅の家の戸に鍵をかけるのは当たり前にように感じて生活をしていますが、50年前の小学生時代を振り返ってみると、家に鍵をかけるのは決して当たり前ではありませんでした。友だちが遊びに来て、ドアを開けて「〇〇ちゃん、遊ぼう!」と声をかけたり、近所のおばさんが縁側から「〇〇さん、洗濯物出しっぱなしですよ!」などと声をかけ合う姿が当たり前だったように思います。私たちはあまり意識していないかもしれませんが、社会は少しずつ変化をしているのでしょう。良い方に変化をするのであればよいのですが、信頼関係が薄れるといった理由がその根底にあるとすれば、ちょっと立ち止まって考えなければならないかもしれません。

 世界で最初のイースターの日、弟子たちは、はっきりとした理由がゆえに家の戸に鍵をかけていました。それは、「ユダヤ人を恐れて」というひと言に表わされています。ここには、主イエスが復活されたという女性たちの言葉を信じて受けとめている様子は微塵もありません。主イエスのお体が、葬られていた墓から消えたという事実は信じて受け入れることができたでしょう。ヨハネによる福音書でも20章3節以下を見ると、ペトロともう一人の弟子が空の墓を確認した様子が伝えられています。その出来事に遭遇して、ペトロら弟子たちの頭に浮かんだのは、自分たちが主イエスの遺体を盗んだと言い出すに違いないとの恐れでした。マタイによる福音書は、実際にユダヤ人たちがそのような証言を捏造しようとしたいきさつが伝えられています(マタイ28:11~15)。大きな犯罪行為の犯人とみなされるのではないかと恐れたのでしょう。また、「神を冒涜した犯罪人」の仲間としての目を向けられることへの恐れもあったかもしれません。そのような弟子たちの不信のど真ん中に主イエスが現れたのです。

「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20:19b)

 ルカによる福音書は、「彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。」(24:37)と伝えています。すべての戸に鍵がかけられているにも関わらず、弟子たちの真ん中に立たれたという事実は、私たちにとってとても大切なことです。私たちも世の終わり、完成の時に復活するとはっきりと約束されています。

「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりに日に復活させることである。」(ヨハネ6:39)とある通りです。

 そして、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21)とあるように、その時には、私たちは「栄光の体」に変えられるのです。「栄光の体」とは何かについて、私たちがそのすべてを知ることは、今は許されていません。しかし、復活されたときの主イエスのお姿に、唯一の、大切な「ヒント」があります。何にもわからないではなく、私たちが現在経験して把握している物理的世界、物理的原則を超えているのだというのです。主イエスは、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。」(マルコ12:25)とおっしゃいました。何という確かな希望でしょうか。死は、決して終わりではないのです。主イエスにとっても、そして、私たちにとっても。

 主イエスは、手と脇腹をお見せになりました。

 「手」「脇腹」の傷跡とは、弟子たち一人ひとりにとって自分の行動を思い出させるものです。主イエスを残して逃げ去った、主イエスを「知らない」と言って否定した、「もう絶望だ」と目の前が真っ暗になった…そのような事実をなかったことにするのではなく、そのような事実にしっかりと目を向けるようにと主イエスは導かれるのです。そして、手を十字架に打ちつけた太い釘も、脇腹を刺し貫いた槍も、主イエスの御力を否定するものにはならなかったという事実がそこにあるのです。ネガティブに思えるもの一つ一つが、復活の事実を証明するためのものとして用いられるというのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20:20)

 主の復活にこそ、本当の「喜び」があります。そして、本当の「平和」がここにあります。

「あなたがたに平和があるように。=シャローム」は、イスラエルの民にとってとても大切な挨拶の言葉でした。挨拶ならば1回でよいはずですが、しかし繰り返していることには別の意味があります。単なる挨拶ではなく、主イエスの復活によってもたらされる本当の「平和」「平安(フランシスコ会訳)」の存在です。

 16章32~33節には、主イエスの次のような御言葉があります。

「見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

 父なる神が共におられることによる「平和」「平安」があるのです。主イエスの復活は、弟子たちにとって、そして私たちにとって、その「平和」「平安」を事実、現実にしたのです。

 さらに復活の主イエスは、3つの大切なメッセージを語られました。

(1)「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(19:21)

 「父」なる神様が、御子主イエス様を「お遣わしになった」のは、ご自身の愛を成就されるためです。そして、罪人の救いのためです。それと同じレベルにおいて、主イエスは私たちを遣わしてくださるというのです。今年の年間聖句は、「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。」(2テモテ4:2)です。それは、主イエスが私たちをお遣わしになるという事実によって初めて可能になると言えましょう。主日礼拝の最後には、「祝福・派遣」があります(礼拝式次第参照)。私たちは、ここから、主イエスによって派遣されてこの世に出てゆくのです。それは、「神の言葉(御言葉)」を宣べ伝えるためです。説教をしなければならないということではありません。私たちのすべての行動を通して、その根底に「神の言葉(御言葉)」があることを証しするのです。

(2)「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(19:22)

 弟子たち、そして私たちを「遣わす」にあたって、どうしても必要な、これを抜きにしてその使命をひと時たりとも継続できないほど大切なことが、「聖霊を受けなさい」というひと言の中に込められています。主イエスは、「息を吹きかけて」おっしゃいました。創世記2章7節には、次のような一節があります。

「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」

 最初の人=アダムの創造において、人は、「命の息を吹き込まれ」、そして「生きる者となった。」のです。「息」はヘブライ語で「ルアハ」で、「霊」とも訳されます。最初の人アダムがこのようにして創造され、創造者である神のみ旨を、本当の命を、「生きる者となった」ように、主イエスの弟子たち、そして私たちは、復活の主イエスのこの御言葉とこの御業によって、神のみ旨を、本当の命を生きる者として、質的にまったく新しく創造されるのです。神の霊=聖なる霊(聖霊)がご一緒であることなくしては、遣わされて生きる私たちの命は、ひとときたりとも存続しえないと言っても過言ではありません。

(3)「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20:23)

 私たちは、他人の「罪」を簡単には赦せないものです。「決して赦さない」といった感情に、人は容易にはまり込んでしまいます。そして、人と人との信頼関係は壊れ、結局は「孤独」がじわじわと広がってゆく社会の形成へとつながってしまうのです。23節にある「その罪は赦される」「赦されないまま残る」は、赦すことと残すことの主体が「私」にあるように受け取れる文章でしょう。しかし、「罪」に関してすべての権威をもっておられるのは、神様をおいて他はありません。すなわち、「その罪は神によって赦される」「神によって赦されないまま残る」のです。この大切なことを見過ごしてしまうと、人は高慢、傲慢に陥ってしまいます。自分を神様の位置に置き換えてしまうというところにはまり込んでしまいます。神様が主イエスの十字架・復活による赦しを成就してくださいました。ここに私たちが立つときに希望への道が開かれてまいります。そして、主イエスの十字架・復活ゆえに自らが赦され、生かされていることの素晴らしさを受け取れば受け取るほど「神によって」なされる赦しの世界が広がってゆくのです。

 主イエスに遣わされて生きることのすばらしさに与かり、聖霊によってまことの命に与かり、罪の赦しの豊かさに与かるとき、私たちは、まことの「平和」「平安」を経験することができるのです。主イエスが弟子たちにお見せになった「手と脇腹」は、その「平和」「平安」へとつながっています。 (2026.4.12 主日礼拝・一部変更あり)

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