2024年1月14日礼拝説教「最初の弟子たち」

牧師 田村 博

2024.1.14

旧約聖書 サムエル記上3:1~10

新約聖書 ヨハネによる福音書1:35~51

「最初の弟子たち」

 2024年の新しい年が始まりました。神様が御独り子イエス様をお遣わしくださるという御業が成就したことを、わたしたちはクリスマスの出来事として受けとめました。それは、旧約聖書によって約束された出来事であり、単に歴史の中の出来事であるということを超えて、わたしたちひとり一人にとって「大切な意味」を持った出来事です。先週の聖書の箇所(ヨハネ1:29~34)、すなわち主イエスが洗礼を受けられたことと、本日の聖書箇所である最初の弟子たちの招きは、その「大切な意味」に気づかせてくれる聖書の御言葉と言ってよいでしょう。

 35節の最初は、「その翌日」という御言葉で始まっています。この「その翌日」という言葉は、1章29節、43節にも繰り返して用いられています。単に「次の日」と、軽く時の経過をあらわす接続の言葉ではなく、もう少し深い意味がここに隠されているのではないかと考えた人々がいます。旧約聖書の創世記の最初、天地万物の創造の出来事と重ね合わあせてこの箇所を受けとめようとしたのです。なるほどと思わされました。確かに、ヨハネによる福音書1章1節は「初めに言があった。」という御言葉で始まっています。創世記の1章1節「初めに神は天と地を創造された。」と重なり合います。

 それでは、創世記が天地万物の形づくられるさまが伝えられているのに対して、このヨハネによる福音書では、何が形づくられるさまを伝えているのでしょうか。

 それは、わたしたちひとり一人がまことの人間として形づくられるさまを伝えているのではないでしょうか。「光あれ」で始まった天地万物の創造の御業は、何一つ無駄なく、必要なものが必要な順序で、第一日、第二日…とあげられてその完成の第七日を迎えました。それと同じように、わたしたちひとり一人が、まことの人間として、人格を形成してゆく上で必要なことが、順序だてて記されているのではないでしょうか。

 順に見てゆきたいと思います。

(1)第1日「光」(1:19~28)

 まず第一日に相当するのは19節から28節です。1節から18節までは全体に関わることが記されていますが、19節からは具体的な出来事が展開されています。ここに登場するのは、洗礼者ヨハネです。この洗礼者ヨハネについて、1章7~9節には次のように記されています。

「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 わたしたちのためにお生まれくださった主イエスは、「まことの光」として来られ、わたしたちが一歩踏み出して前進しようとするときに、その道を照らしてくださるのです。

 創世記1章の、神の第一声は「光あれ」でした。ピッタリと重なり合います。

 わたしたちの人間性が形成されてゆくとき、まず第一に必要かつ不可欠なのが「まことの光」なる主イエス・キリストご自身です。

  • 第2日「罪を取り除く」(1:29~34節)

 第二日目に相当するのは29節から34節です。「その翌日」という言葉で始まります。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」(29節)

 そして、「まことの光」なる主イエスを「神の小羊」とはっきりと証ししています。主イエスは、「世の罪」すなわち「わたしたちひとり一人の罪」と正面から向かい合ってくださる唯一のお方です。わたしたちが誰かのためになること、良いことをしようとすることは大切なことですが、そこには限界があります。しかし、主イエスは、すべての人のすべての罪に正面から向かい合ってくださったのです。罪を取り除いてくださるのです。「光」がすべてのものを照らし出すとき、わたしたちひとり一人のありのままの姿を浮かび上がらせます。その姿を見れば見るほど尻込みしてしまうわたしたちかもしれません。しかし、その時、わたしたちの傍らにいてくださり、罪を告白する勇気を与えてくださるのです。洗礼者ヨハネは、主イエスについて「わたしはこの方を知らなかった。」(1:31、33)と2回も繰り返しています。自らの「知らない」という褒められたものではない姿も正直に告白しています。わたしたちも、隠す必要なく、ありのままの姿で、そのお方の前に立つことができるのです。わたしたちが霊的に形づくられてゆく上で、2番目に大切なこととしてあげられているのです。

  • 第3日目「何を求めているのか」(1:35~39)

 第三日目に相当するのは35節から39節です。39節には「そしてその日は、イエスのもとに泊まった。」とありますので、40節以下は39節の翌日に相当するので、39節までで区切ることができます。

 洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という言葉を聞いた二人の弟子は、主イエスに従いました(37節)。その二人の弟子に対して主イエスは振り返り、「何を求めているのか」と言われました。振り返った主イエスによって発せられた突然の質問に、おそらく二人はびっくりしたでしょう。二人がとっさに口にした答えが「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」(38節)でした。どのように答えてよいかわからず苦し紛れに出た言葉だったと思います。わたしたちも多かれ少なかれ同じような経験をしたことがあると思います。「何を求めているのですか」「何があなたの一番の望みですか」と尋ねられたならば、自分の心の奥底にある希望をしっかりと整理して、的確にまとめて答えることは、決して簡単なことではないでしょう。

 主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」(39節)とお答えになりました。

 わたしたちが人間性を確立してゆく上で、三番目に大切なこととしてあげられているのが「自分が何を求めているのかを知る」ことです。わたしたちは日々の生活の中で、「あれが欲しい」「これが欲しいい」「こういう生き方をしたい」などと、いろいろと思いめぐらしつついろいろなことと相対します。しかし、その中で本当に求めるべきものは何なのでしょうか。この一年の始まりにあたり、わたしたちが人間として整えられていく上で、神様は、わたしたちに立ち止まって「何を求めているのか」をしっかりと考えるようにと迫っておられるのです。

  • 第4日目「アンデレのように」(1:40~42)

 第四日目に相当するのは40節から42節です。

「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。」(1:40~42)

 わたしたちが人間性を整えられ、まことの人間として神様によって創造されてゆく過程において、わたしたちは「恵みを独り占めにするという誘惑から解き放たれる」必要があります。アンデレは、その兄弟シモンを主イエスのところに連れて行きました。主イエスとの出会いを、自分だけの恵みとして留めておくことができずに、そのような行動をとったのです。アンデレの名前は、ヨハネによる福音書に記されている5千人の人々が食べて満腹したという出来事の際に、再び登場しています。

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネ6:5~11)

 五千人を前にして、一人の少年が持っていた「パン5つと魚2匹」は、焼け石に水のようなものでした。しかし、だから何もしないというのではなく、アンデレはその少年を主イエスのところに連れて行ったのです。わたしたちも日々の生活の中で「自分なんて小さなもので、何も持っていないもので」と、尻ごみしてしまいそうになることがあるかもしれません。しかし、神様がわたしたちに求めていらっしゃるのは、そこで後ろ向きになってしまうことではなく、アンデレのしたように、主イエスの前に持ってゆくことです。主イエスのところに連れていく、主イエスの前に差し出すことこそ、アンデレの行動がわたしたちに教えていることです。役に立つから、能力や実力があるからというのではなく、取るに足らないものであっても、とにかく主イエスの前に持ってゆく(連れてゆく)ことです。それが、わたしたちひとり一人が整えられてゆくことにおいて必要なのです。

  • 第5日目「旧約聖書の御言葉」(1:43~46)

 第五日目に相当するのは43節から46節です。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」(ヨハネ1:43~46)

 主イエスに出会ったフィリポの言葉「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。」は、主イエスを旧約聖書が指し示しているお方であると、はっきりと証言しています。本日の礼拝でも旧約聖書箇所が朗読されました。それは、主イエスの救いの出来事は、旧約聖書と深く関わっているという告白に他なりません。わたしたちひとり一人を人間として整えてゆく上でも、旧約聖書の御言葉が大切なのです。

  • 第6日目「主が先に」(1:47~51)

 第六日目に相当するのは47節から51節です。

「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」(ヨハネ1:47~51)

  ここに時間的なズレがあります。ナタナエルが気づくより前に、主イエスご自身が知っておられたという事実です。そのことを知ったナタナエルは、主イエスというお方は、自分が気づくより前に、自分を知っていてくださるお方であると、深い霊的なレベルで受けとめたのです。本日の旧約聖書箇所に出てくるサムエルもそのような経験をした一人です。当時の霊的な状態について、サムエル記は次のように伝えています。

「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」(サムエル上3:1)

  少年サムエルも聖書の御言葉に触れる機会がない状態でした。神様というお方がどのようなお方かということを知らなかったサムエルに対して、神様は、「サムエルよ、サムエルよ」と一方的に語りかけてくださったのです。その声を聞いたとき、サムエルは、別室にいた師エリが自分を呼んだものだと勘違いをしてエリのところに行きました。そして、その出来事を前にして、師エリの方が、語りかけてくださる神様の臨在に触れることになるのです。エリはサムエルに言いました。

「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」(サムエル上3:9)

  わたしたちが知る前に、わたしたちを知っていてくださるお方が、わたしたちの人間性を整えてくださるのです。

  • 第7日目「神様との深い交わり=まことの安息」(2:1~11)

 第七日目に相当するのは2章1節から11節です。

 創世記の天地万物の創造においては、すべてが完成されて神様が休まれた日でありますが、単に休息の日というのではなく、「聖なる日」「聖別された日」「神様との深い交わりにあずかる日」です。ヨハネによる福音書2章1節以下に記されているのは、カナの婚礼です。ヨハネだけがここに記している出来事です。わたしたちの人間性が完成されるところには、神様との深い交わりがあるのです。

 2024年という新しい年の初めにあたり、この聖書の箇所を通して、わたしたち自身が整えられてゆく上で大切にしなければならない7つのポイントを心に刻みたいと思います。

 

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