2023年12月24日礼拝説教「わたしたちの間に宿られた」 

牧師 田村 博

2023.12.24

説教「わたしたちの間に宿られた」

旧約聖書 イザヤ書62:10~12

新約聖書 ヨハネによる福音書1:1~14

 プロテスタントの多くの教会は、本日「クリスマス礼拝」をおささげしています。正確には12月25日がクリスマス(聖誕日)ですので、「クリスマス主日礼拝」と称した方がよいのかもしれませんが、主の復活を覚えて「主日(日曜日)」に礼拝をおささげしていることの大切さを考えると、25日ではなくとも、25日を越えない最も近い日曜日にクリスマス礼拝をおささげすることは意味あることかもしれません。

 本日は、この礼拝で洗礼式と転入会式を執行しようとしています。わたし自身、クリスマス礼拝で洗礼の恵みにあずかりました。40年以上前のことですが、何もわかっていなかった自分だったにもかかわらず、神様の一方的な恵みによって招かれました。40年以上の時を経て振り返ると、途中、足がよろめきそうになった時、崩れ落ちそうになった時、しっかりと支えてくれ、歩むべき道を示し続けてくれたのは、その洗礼によってもたらされた恵みだったのだとあらためて思います。

 さきほど交読した詩編113編には、次のように記されていました。

「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。

 今よりとこしえに/主の御名がたたえられるように。

 日の昇るところから日の沈むところまで/主の御名が賛美されるように。

 主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。

 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き

 なお、低く下って天と地を御覧になる。

 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ

 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。

 子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」

 わたしたちは、時に道に迷い、道を見失い、自分でかきわけて道を作り出さなければならないように感じる時があるかもしれません。しかし、「日の昇るところから日の沈むところまで」「主はすべての国を超えて高くいまし」の御言葉にあるように、わたしたちのすべてをご存じである主なる神様が、「こちらの方向に進めばよいのだよ」と、知恵を与え、光を与え、道を示してくださるのです。

 わたしたちが、それぞれの歩みを振り返るとき、後になってから初めてその事実に気づくものです。それゆえ、すべてがわかってから一歩を踏み出すというところにこだわり続ける必要はないのかもしれません。わからないことはたくさんあるけれども、一歩を踏み出すということが必要な時があるに違いありません。それは物事をいいかげんにすることとは異なります。「こちらの方向に進めばよいのだよ」という確かな御言葉に導かれて歩み続けることだからです。

 「クリスマス」はわたしたちにとって意味のある大切な出来事です。そして聖書の御言葉を通して、神様は、わたしたち一人一人にそのことの確信を持たせようとされています。

 ヨハネによる福音書1章14節には、次のような御言葉がありました。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 わたしたちは「言葉」をもって他者とのコミュニケーションをはかります。一度、人の口から発せられた「言葉」は、次の瞬間、音声としては消失してしまうものです。その「言葉」を筆記用具をもって書き留めれば、反復して思い出すことができるでしょう。しかし、聖書は「言は肉となって」と言っています。「肉」とは目に見えるものであり、触れることができるものです。人格と人格の関わりがあるところでは、「肉」なるもの同士であるがゆえ、会話することができます。

 ヨハネによる福音書を1章の初めから読んでみると、「言」は、イエス・キリストご自身を指しているということがわかります。そして、「言」なるイエス・キリストと「神」との関係について、1~3節には、大切なことが記されています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1~3節)

 聖書で「神」とは、「目には見えないけれども、天地万物を創造され、保ってくださっているお方」のことを指しています。「言」なるイエス・キリストは、「神と共にあった。言は神であった。」とあるように「神」と等しいお方であると、ヨハネによる福音書は、わたしたちに語りかけているのです。「神」がわたしたちを創造してくださったということと同じレベルで「言」なるイエス・キリストは、わたしたちを創造してくださったというのです。何か機械を作り上げた人が、その機械の細部を誰よりも知っているように、主イエス・キリストは、わたしたちのすべてを知っていてくださいます。

 そのお方が、14節にあるように「肉となって、わたしたちの間に宿られた。」のです。目で見ることのできないお方が「肉となって」、すなわち目に見えるお方、触れたりすることのできるお方として、「わたしたちの間に宿られた」というのです。これは、今から2000年ほど前に歴史の中で確かに起こったクリスマスの出来事です。天使がおとめマリアのところに現れて語りかけました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1:30~31)

 天使にゆだねられた「神の言葉」によってマリアは懐妊を告げられます。神の言葉による懐妊です。これは、わたしたちの想像や常識をはるかに超えたことです。その「神の言葉」は、神様のふと思いついたといったレベルで発せられた言葉ではありません。神様のご計画は、天地創造の、すべての初めの初めから変わることなく歴史の中を貫いているのです。それがクリスマスの時に成就したのです。預言者たちによって指し示され、多くの人々の待ち望む中で成就しました。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 この「わたしたち」とは誰でしょうか。

 直接的には、このヨハネによる福音書を記しているヨハネと、ヨハネのようにイエス・キリストの弟子としてイエス・キリストと相まみえた人々です。彼らは、イエス・キリストが人々に語るときそこにいました。イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、遠くから見ていました。イエス・キリストが復活されたとき、その復活の主イエス・キリストを目の当たりにしました。彼らは、その事実を証ししました。彼らは、目に見えない神様について人々に証ししたのではなく、確かに肉をとられてこの地上での歩みを共にした主イエス・キリストを証ししたのです。

 この「宿られた」と訳されている言葉は、直訳では「天幕を張られた」という意味です。「天幕」とい言葉は、キャンプ場のテントや最近流行し始めたグランピングを連想するかもしれませんが、イスラエルの人々にとっては、自分たちの住まいとしての「天幕」以上に大切なものを連想させたことでしょう。エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を救い出すために、神様は指導者モーセを立てました。そのモーセがシナイ山で与えられた「十戒」の刻まれた石版を収めたのが「天幕」でした。その「天幕」は、40年間荒れ野をさまよい歩いたイスラエルの民を支え続けた礼拝の場でもありました。60万人とも言われるイスラエルの人々の天幕が並ぶ真っ只中、中心に、その「天幕」はあり続けたのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 かつては、神様より与えられた律法・十戒を彼らの交わりの真ん中においていたイスラエルの民でしたが、それは、イエス・キリストの誕生を指し示していたのです。彼らの交わりの、彼らの生活の真っ只中に本当に必要だったのは、神様の御子イエス・キリストだったのです。

 そして、「わたしたち」は、イスラエルの民やイエス・キリストの弟子たちにとどまらず、今日、礼拝に招かれているすべての人々に対して開かれている御言葉なのです。わたしたち一人一人の、それぞれの人生の真っ只中に、天幕を張るようにして、ドンとその存在をお示しくださいました。自分の人生のどの部分にイエス・キリストは関わってくれているというのだろうか、と思われるかもしれません。今日初めて礼拝に出席された方々も含めて、すべての人々の人生の真っ只中に主イエスは臨んでくださるのです。

 クリスマスの時期になると、教会や教会学校でしばしば取り上げられるお話に「靴屋のマルチン」というお話があります。靴屋のマルチンはひとり暮らしでさびしく働いていましたが、仕事を終えると毎日聖書を読んでいました。ある日マルチンは、「マルチン、明日会いに行くよ」というイエスさまの言葉聞いたような気がしました。次の日、イエス様が会いに来るのを期待して窓の外を見ていると、ひとりのおじいさんが雪かきに疲れて立っているのが目に入りました。マルチンはおじいさんを部屋の中に入れて温かいお茶をごちそうしました。おじいさんが喜んで帰った後、マルチンが外を見ると、今度は北風の吹く中を一人の女の人が赤ちゃんをあやしていました。着ている服は夏の服でとても寒そうなので、マルチンは部屋の中に入れて女の人に温かいスープとパンをごちそうし、自分の上着をあげました。女の人は泣いて喜び帰っていきました。女の人が帰ったあと、今度は外でさわぐ声が聞こえました。外に出てみると、男の子がおばあさんのりんごを盗ったので、おばあさんが男の子を捕まえて怒っていました。マルチンは間に入っておばあさんに許してやるように、男の子にはもう二度としないように諭して謝るように言いました。二人はマルチンの言葉を受け入れて仲直りして帰っていきました。

 夜になって、マルチンは、「イエスさまは来なかったなぁ」と思いながら聖書を読み始めました。すると、部屋の中に誰かがいるような気がしました。その時、部屋に声が響きました。その声とは、「マルチン、あれはみんなわたしだよ」というものでした。そして今日出会った人たちが幻のように次々にあらわれては見えなくなりました。

 そのときマルチンは「イエスさまが本当に来てくれたんだ」ということがわかりました。

 この靴屋のマルチンの話は、イエス・キリストがわたしたちの生活の真っ只中においでくださるお方なのだ、わたしたちの間に宿ってくださるお方なのだ、天幕を張るようにしてしっかりとご自身の存在をあらわそうとしてくださるお方なのだということを教えています。

 わたしたちが心を開いて、受け入れようとするならば、わたしたちの心の真ん中に、そしてわたしたちの生活の真ん中に臨んでくださるお方なのです。マルチンは、来る日も来る日も聖書を読んでいました。その聖書の御言葉が、マルチンの耳に響く主イエス・キリストの言葉を気づくことができるようにと整えてくださったのです。

 わたしたちは、いろいろな出来事の前を猛スピードで通り過ぎるような生活を送っているかもしれません。自分が見えているのはほんの一部であるにもかかわらず、すべてわかったかのように勘違いして、「わかった、わかった」と出来事の前を通り過ぎてしまうような生活をしているかもしれません。しかし、本当は、そこにこそ立ち止まってしっかりと目を向けて見なければならないのに、その前を走り去ってしまうような一人一人かもしれません。けれども、わたしたちが聖書を開くとき、高速道路を全速力で通ってゆくような歩みから、地に足のついた、恵みを恵みとして受け止めていくような歩みへと導かれてゆくのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)

 父なる神の「独り子としての栄光」とあります。讃美歌でも「神の御子は今宵しも…」とあります。なぜイエス・キリストは、父なる神の「独り子」でなければならなかったのでしょうか。「わたしこそ神様である」と人々の前でご自身をあらわせば事足りたのではと思うかもしれません。しかし、あえて「独り子」としてご自身をあらわしてくださいました。それはイエス・キリストがどのような場所でお生まれになったかと見るとすぐにわかります。広い立派な宮殿でお生まれになったのではなく、粗末な家畜小屋でお生まれになりました。それはすべての人々の苦労、苦しみを理解してくださるお方としてお生まれになったのです。単に頭の中で認識するというレベルではなく、ご自身がその場所まで降りてきてくださり、そこを通り過ぎて、そこにも希望があるのだ、そこにいるからといって絶望ではないのだということをわかるようにしてくださったのです。それが世界で最初のクリスマスに、マリアとヨセフに抱かれた主イエスの生涯のスタートです。わたしたちが課題に押しつぶされそうになるような時にも、そこにもイエス・キリストは降りてきてくださるお方なのです。そこにこそ、「恵みと真理とに満ち」た本当の「栄光」があるのです。  (田村 博)

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