2023年6月4日 礼拝説教「何事にも時がある」

牧師 田村 博

2023.6.4

■「何事にも時がある」

 (新約 ヨハネによる福音書17:1~3  旧約 コヘレトの言葉3:1~8)

 本日(6月4日)は三位一体主日として覚えられている主の日ですが、茅ヶ崎教会では、特別伝道礼拝としてこの日に備えてきました。午後には、石丸昌彦先生にご講演が控えています。先ほど司会者に読んでいただいた旧約聖書箇所、コヘレトの言葉3章の1節以下は、とても特徴のある箇所で、一度聴いたら忘れないほどかもしれません。

 「生まれる時、死ぬ時

  植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時。」(2節から8節)

 どのようなこともタイミングが大切なのだ…と、いわゆる処世術のようなことを伝えているように思えるかもしれません。しかし、よく見ると、結構、物騒なことも出てきます。3節には「殺す時」、8節には「憎む時」「戦いの時」という言葉があります。これらは何を意味しているのでしょうか。人間はどうしようもない、いつの時代にもこんなことの繰り返しさと、わたしたちにあきらめを求めているのでしょうか。そのように見えてもおかしくない2節から8節の御言葉ですが、3章1節の御言葉の中には、2節~8節の本当の意味を、わたしたちが受けとる上で、とても大切なメッセージが隠されています。

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(1節)

 新共同訳の聖書だけを見ていると「時」という言葉が、ただ2回出ているように見えます。しかし実は、もう少し大切なことがここに隠されているのです。そのことを正確にあらわそうとして、一番新しい翻訳である聖書協会共同訳では、次のように訳しています。

 「天の下では、すべてに時期があり  すべての出来事に時がある」

 また文語訳聖書では、次のように訳されています。

 「天(あめ)が下の萬(よろづ)の事(こと)には期(き)あり  萬(よろづ)の事務(わざ)には時(とき)あり」

 旧約聖書はもともとヘブル語という言語で記されていてそこから日本語に翻訳しているのですが、ここには「時」をあらわすまったく別の2つの言葉が用いられているのです(「ゼマーン」と「エート」)。その違いをあらわそうとして、「時」ではなく「時期」とか「期」という言葉を用いているのですが、それでもなかなか、そこにある微妙なニュアンスを伝えきれていません。わかりやすく、少し整理して申し上げると、ここで繰り返されている「時」、すなわち1節には1回だけ出て来て2節以下に繰り返されている「時」は、「瞬間」としての「時」をあらわしているのです。一方、「定められた時」「時期」と訳されている「時」は、連続性のある、つながりをもった「時」(=「瞬間」ではない「時」)をあらわしているのです。

 そのことを踏まえて読んでいくと、2節から8節の「時」という言葉は、それぞれ人間の瞬間瞬間の「行ない」について述べていることがわかります。それぞれを、肯定しているというのではなく、人間は、それぞれ、その時その時の判断で、自分勝手な行動をとってしまうものだということをあらわしているのです。その結果、人間は、しばしば、いがみあったり、傷つけあったりしてしまうのではないでしょうか。今、ウクライナで起きている戦争もその最たるものです。

 わたしたちは、どこに希望を見い出したらよいのでしょうか。

 その秘訣が、1節にあります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

 確かに、人間は自分勝手に、先のことを考えずに、瞬間瞬間の判断で行動してしまうような存在です。しかし、わたしたちは「天」を意識することができます。「天」とは、聖書では、物理的に「空」「上」の方向を指しているのではなく「神様のまったきご支配のもとにある領域」をあらわしています。自らが「天の下」=「神様のみ旨のもと」にある存在であることに気づくならば、バラバラの瞬間瞬間の「時」の間にあるつながりに目を向けることができるようになるのです。バラバラな「行ない」や「時」に一喜一憂するのではなく、そのつながりを知り、自分が、神様の「時」の中に生かされていることを知ることができるようになるのです。その大切さをわたしたちに教えてくれるのが、この3章1節の御言葉です。

 先週、東北地方の教会で牧会をしている一人の牧師から、その教会で行なわれたコンサートを中心にその模様を短く編集した動画を紹介してもらいました。沢知恵さんという神奈川県出身のシンガーソングライターです。ご興味のある方、あとでお声がけください。無料で視聴できる方法をお知らせします。

 その動画の中に、「胸の泉に」という力強い一曲がありました。

 この歌は、「塔和子(とうかずこ)」さんという方が作詞し、それに沢知恵さんが曲をつけてものです。塔和子さんは、1929年、愛媛県で生まれで、ハンセン病のため、13歳のとき瀬戸内海のハンセン病療養所、大島青松園に入所された方です。彼女は22歳のとき薬で完治したのですが、社会の偏見はすざまじく、普通の生活に戻ることは出来ませんでした。しかし、園内のキリスト教会で福音と出会い、洗礼を受け、結婚した赤沢正美さんの指導により詩を書くようになりました。その魂の叫びを詩を通して世に公にし続けました。生涯に発表した詩は約千編! これはその中の一つです。

  「胸の泉に」

 かかわらなければ

 この愛しさを 知るすべがなかった

 この親しさは 湧かなかった

 この大らかな依存の安らいは 得られなかった

 この甘い思いや

 さびしい思いも 知らなかった

 人はかかわることから さまざまな思いを知る

 子は親とかかわり

 親は子とかかわることによって

 恋も友情も

 かかわることから始まって

 かかわったが故に起こる

 幸や不幸を積み重ねて大きくなり

 繰り返すことで磨かれ

 そして人は

 人の間で思いを削り 思いをふくらませ

 生を綴る

 ああ

 何億の人がいようとも

 かかわらなければ路傍の人

 私の胸の泉に

 枯れ葉いちまいも

 落としてはくれない

 その動画の中で、沢知恵さんは、この詩にブルース調の曲をつけ、その曲を自ら歌っていました。沢知恵さんの歌うこの曲には、大地からわき出るような力強さを感じました。

 人と人がかかわるとき、そこには良いことばかりではありません。「かかわったが故に起こる 幸や不幸を」というところにあるように、本当にいろいろなことが起こります。しかし、

「かかわったが故に起こる

 幸や不幸を積み重ねて大きくなり

 繰り返すことで磨かれ

 そして人は

 人の間で思いを削り 思いをふくらませ

 生を綴る」

の通り、人間というのはそのような存在です。

 この詩の最初の「かかわらなければ」という一節と、中ほどのこの部分に出会ったとき、「かかわる」という具体的な行動に向けて、一歩踏み出す勇気を与えられたような気がしました。

 わたしたちは、それぞれ与えられた「時」をバラバラのままに放置しておくこともできます。そちらのほうが楽だよ…、心配事は増えない……という小さな心の声も聞こえことがあるかもしれません。しかし、実は、そこには、もう一つの「時」=「つながりをもった時」が確かにあるのです。そして、神様は、わたしたちに、そのつながりをもった「時」にしっかりと気づくようにと、そこに込められている大きな神様のご計画に気づくようにと促しておられるのではないでしょうか。

 聖書にある主イエスが語られた有名な「たとえ話」に「よきサマリア人のたとえ」というものがあります(ルカによる福音書10:30~37)。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 このたとえ話を聞いてわたしたちは、倒れていた人を前にして、自分は、助けるだろうか…と考え始めるかもしれません。話しの最後に「行って、あなたも同じようにしなさい。」と確かに記されているので、そう考えてもおかしくありません。しかし、その前に、このたとえ話は、大切なメッセージをわたしたちに届けていることを受けとるべきです。実は、わたしたち一人ひとりは、強盗に襲われた人なのです。傷つき、そのままでは、どうすることもできない。わたしたちも日常生活の中で、そのような経験をするかもしれません。自分の力で、自らの足に力を入れて立ち上がろうとしても立ち上がることのできないような状態に陥るかもしれません。しかし、聖書が伝えているイエス・キリストなるお方は、そのところを通り過ぎることなく、立ち止まり、抱きかかえ、手当をしてくださり、徹底的にかかわってくださるお方なのです。このたとえ話は、わたしたちにこのことをまず教えているのです。主イエスというお方は、このたとえ話のサマリア人のところに身を置き続けたお方なのです。そのようにして、わたしたち一人ひとりと出会ってくださるお方なのです。

 世界のベストセラーである「聖書」は、このイエス・キリストというお方がどういうお方なのかということをわたしたちに伝えるために、わたしたちの手元に届けられています。

 聖書がはっきりと伝え続ける主イエスというお方は、わたしたちの「時」をバラバラのままにされたままにしておくことを見過ごしになさいません。「かかわって」くださり、「つながり」の中に、もう一度引き戻してくださるのです。わたしたちの「時」をつなぎあわせてくださるのです。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

 わたしたちは、バラバラの瞬間瞬間の「時」をそのままにしたままで生きるべきでしょうか。それとも、それらをつなぎあわせてくれる主イエスの御業の中で、もう一つの「時」=つながりのある「時」=「定められた時」の中に、自らの命を、自らの人生を見い出すべきでしょうか。わたしたちには、選ぶ自由が与えられています。

 ヨハネによる福音書17章1節以下にも「時」という御言葉があります。

 「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 主イエスは、「天を仰いで」おっしゃいました。「父よ、時が来ました。」と。特別な「時」を指し示す主イエスの祈りがここにあります。主イエスは、すべての人のかたわらを通り過ぎることなく、すべての人の痛みに寄り添って御業をなさる「権能」を、主なる神様から与えられたのです。わたしたちは、聖書を通して、この永遠の命を知ることができるように導かれています。イエス・キリストを知るということを通して、永遠につながる命に与からせようとされているのです。与えられている選ぶ自由を、今こそしっかりと用いて、バラバラの「時」ではなく「定められた時」を受けとめたいと思います。

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