2024年4月1日礼拝説教「舟の右側に網を打ちなさい」

牧師 田村 博

2024.4.14

説教「舟の右側に網を打ちなさい」

旧約聖書 イザヤ書61:1~3

新約聖書 ヨハネによる福音書21:1~14

 ヨハネによる福音書21章1~14節は、復活の主イエスが3度目にご自身をあらわされた時のことを伝えています。場所は、直前の20章と変わって「ティベリアス湖畔」(21:1)すなわち「ガリラヤ湖畔」です。そこは主イエスが弟子たちと共に多くの時を過ごされた場所でした。マタイによる福音書は、イースター・復活日の朝、天使が婦人たちに現れて次のように言ったと伝えています。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(マタイ28:7) さらに、主イエス御自身が婦人たちに現われ、恐れおののきつつ、み前にひれ伏す彼女たちに語りかけられました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(28:10) マルコによる福音書にも同様の記述があります(16:7)。その婦人たちの言葉に従って、弟たちはエルサレムからガリラヤに移動したのでしょう。実は、マタイによる福音書もマルコによる福音書も、ガリラヤで何があったのか、具体的にはほとんど伝えていません。ヨハネによる福音書の本日の御言葉、そして来週の御言葉(21:15~25)が、ガリラヤでの出来事を伝える貴重な記録なのです。

 本日は、ガリラヤで主イエスが語られた4つの御言葉に特に注目してみましょう。

  • 「子たちよ、何か食べる物があるか」

 最初の主イエスの御言葉は、「子たちよ、何か食べる物があるか」です。そこには7人の弟子たちがいました。何げなく名前が列記されているようですが、シモン・ペトロのあとに出ている名前について少し考えてみてください。「ディディモと呼ばれるトマス」は、20章(先週)に登場したあのトマスです。復活の主イエスが現われた時に何らかの事情で同席していなかったあのトマスです。復活の主イエスがいらしたと他の弟子たちから聞いても、「自分の手を主イエスの手の釘跡に入れてみなければ決して信じない」と言い放ったあのトマスです。そして、その8日後に復活の主イエスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。」と言われたあのトマスです。「見ないのに信じる人は、幸いである。」と主イエスから言われた、あのトマスです。あのトマスが、ペトロにしっかりとついて、歩みを共にしています。その次に記されているのはナタナエルです。ナタナエルは、ヨハネ福音書1章43節以下に出て以来の登場です。彼は、フィリポから「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と告げられても「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い放ちました。

 トマスとナタナエル。この二人に共通するのは、「信じられない」とはっきりと言い放った弟子であるということです。この二人がペトロに続いて記されているのです。しかも、この二人に続いて記されているのは、ゼベダイの子たちとはヤコブとヨハネです。この二人とペトロは、山の上で主イエスのお姿が変わられた時にも、ゲッセマネの園でも、特別に主イエスの近くにいることを赦されていました。特別な3人組のように扱われている3人です。しかし、その3人の真ん中に、かつては「決して信じない!」と言い放った2人がいるのです。十字架、復活を通して、まったく変えられた証人として、ここに名前を挙げられているのです。

 けれども、この時の7人の心の中は、復活の主、あるいは天使たちの言葉に従ってエルサレムからガリラヤに向かった時と少し異なっていたことでしょう。おそらく、ガリラヤに到着したばかりの時には、もう少しワクワクしていたに違いありません。復活の主イエスとお目にかかれる、と。ところが、1日たち、2日たち…。いつまでたっても主イエスとお目にかかれない、どこに行けばいいのだろうか? と次第に考え始めたことでしょう。親しく御言葉を語ってくださった場所に行ってもおられない、パンの奇跡をなさった場所に行ってもおられない。あせりといらだちさえも交錯する中で、ペトロが言った言葉が「わたしは漁に行く」だったのです。主イエスが自分に声をかけてくださった場所が湖畔だったからなど考えての言葉ではなかったでしょう。ある聖書解説者は、昔の仕事である漁師に戻ろうとしたのではないかと指摘していますが、ペトロの気持ちがそこまで後退していたかどうかは怪しいものです。いずれにしても半ば投げやりな気持ちだったことは、ほぼ間違いありません。聖書は淡々と、しかし、はっきりと記しています。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」(3節)。一晩中網を投げ、漁をしても、何もとれなかったのです。疲れ果てて、気づいたころには、夜が明けていました。話し出す元気の残っている者はいなかったはずです。そんな時に、主イエスが100メートルほど離れた岸から語りかけられました。「子たちよ、何か食べる物があるか」と。主イエスは、魚が獲れたか、獲れなかったのかを知りたくて尋ねられたのではありません。ご自分が食べたいからこう尋ねられたのでもないことも、後ほどわかります。弟子たちが獲れなくて疲れ果てていることもすべてご存じでした。この主イエスの御言葉は、原文のギリシャ語では否定形が用いられています。新改訳聖書では、それを忠実に再現し「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」と訳しています。対する弟子たちの答えは、日本語では「ありません」と丁寧な言い回しですが、ギリシャ語では、2文字で「ウ-」のひと言です。文語訳の聖書では「否」「無」の一文字で訳しています。

 主イエスは、すべてをご存じでした。その上で、「子たちよ」と親しく語りかけたのです。

 わたしたちも感情が空回りして、どうしてよいかわからないような状況に陥ることがあります。そのようなわたしたちに対しても、わたしたちのすべてをご存じの上で、復活の主イエスは、語りかけてくださるお方なのです。「子たちよ、何か食べる物があるか」と。

  • 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

 主イエスの第二の御言葉は、6節にある「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」です。疲れ果てている弟子たちに、主イエスはそう語りかけられました。湖畔にいらした主イエスからは、弟子たちが舟のどちら側に網を打っていたかははっきりと見えたはずです。弟子たちは「左側」に打っていました。それを「右側」に向かって打つようにとのお言葉です。距離にしたら、わずか舟の幅(2~3メートル)の違いです。漁の成果に大きく関わることのようには思えません。弟子たちには、その言葉を拒絶するという選択肢もありました。しかも一晩中漁をして疲れ切っていたのです。しかし、彼らは従いました。

 この「右側」にはもう一つの意味があるように思えます。人間誰しも、いつの間にか、左右の好みを持っているものです。握手をするときも無意識のうちに右手を差し出すでしょう。我が家の飼い犬はオスですが、電柱に向かって足をあげるときには、必ず右の後ろ足をあげます。左の後ろ足をあげたこと、この1年間で一度もありません。犬に聞いてみないとその理由はわかりませんが、聞いても答えてくれないでしょう(笑)。他の様々なことでも、習慣、何となくということもありえます。漁師として彼らがいつも左側に網を打っていたかどうかはわかりません。少なくとも言えることは、このとき、彼らは舟の左側に網を打っていた、そして、その反対側に網を打つようにとの御言葉をいただきました。そして、それに従った時、大漁にあずかったのです。

「舟の右側に網を打ちなさい。」

 わたしたちも、さまざまな出来事に遭遇して疲れ果てているような時に、主イエスがこの時に語りかけられたような御言葉を耳にすることがあるかもしれません。わたしたちの日常、習慣を変えることを求めるような言葉かもしれません。もし、その声を聞き逃していたり、聞いても自分の日常を変えることを拒むならば、弟子たちがこの時に経験したような大漁の恵みにはあずかることができないでしょう。

(3)「今とった魚を何匹か持って来なさい」

 主イエスの第3の御言葉は、10節の「今とった魚を何匹か持って来なさい」です。

 その直前にある9節に注意してください。ここに、主イエスがご自分の空腹を満たそうとして弟子たちに魚を獲らせたのではない証拠があります。「炭火」「魚」(=「一匹の魚」)「パン」という完全な準備がなされています。主イエスがご自分が何かを食べたいから尋ねられたのではないことは、この記述からわかります。弟子たちのために「何か食べるものがあるか」と尋ねられたのです。

 同時に、この主イエスのための十分な備えは、天における十分な備えを指し示しています。天において、備えは十分にあるのです。

 本日の礼拝で共に祈った「主の祈り」も、「天」における十分な備えの存在を心に刻み続けてくれます。「主の祈り」の冒頭部分は次の通りです。

 天にまします我らの父よ、

 ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

 み国を来たらせたまえ。

 みこころの天になるごとく

 地にもなさせたまえ。

 わたしたちが地上のさまざまな出来事について祈り始める前に、「天」「み国」「みこころの天になる」という「天」における十分な備えを心に刻んでくれる祈りなのです。

 ここでもう一点、魚の「153匹」という数にはどんな意味があるのでしょうか? アウグスティヌスは、この「153匹」について、次のような説明をしています。

 「10」は、「十戒」にあらわされているように律法を表す数字であり、「7」は恵みをあらわす数字で、その「10」と「7」を足すと「17」になります。そして、「1」から「17」までを順番にすべてを足してゆくと「153」になるというのです。すなわち、律法と恵みによってイエス・キリストのもとに至るすべての人を指していると言うのです。153匹の大きな魚ゆえに網がいつ破れてもおかしくないにも関わらず破れません。それは、救いにあずかる人々が大勢起こされてゆくという約束です。主イエスのもとに至る人々の群れとは教会そのものとも言えるでしょう。主の御業を、救いの御業をしっかりと見なさい。それが「今とった魚を持ってきなさい」という御言葉が示していることです。

(4)「さあ、来て、朝の食事をしなさい」

 第4の主イエスの御言葉は、12節の「さあ、来て、朝の食事をしなさい」です。

 復活の主イエスの招きによる朝の食事があります。今、礼拝において、わたしたちは復活の主に招かれて霊の糧の食事にあずかっています。そして、復活の主イエスは、日曜日だけでなく、毎日わたしたちを「朝の食事」に招いてくださっているのです。

 「朝の15分があなたを変える」と、たびたびお伝えしています。タイマーを片手に義務を果たしなさいと申し上げているのではありません。田村牧師が言ったからではなく、復活の主イエスご自身がおっしゃっているのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。この御言葉に素直に応答したいと思います。

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