2022年9月4日礼拝説教「御子が現れるとき」

2022.9.4

聖霊降臨節第14主日礼拝

説教 「御子が現れるとき」           

聖書 イザヤ書 61:10~11  ヨハネの手紙一 2:28~3:3

 9月第1主日は、教団の行事暦に組み込まれているわけではありませんが、かつて「振起日」と言われる日でした。日曜学校運動がさかんに展開される中で覚えられてきた日で、長い夏休みの後にもう一度心を振るい起こそうというわけです。わたしたちも、夏の厳しい気候ゆえに、ややうなだれそうになってしまっているかもしれませんが、この9月第1主日、もう一度、信仰を振るい起こす日にしたいと思います。

 さて、本日与えられた御言葉の最初、2章28節の前半をもう一度読んでみたいと思います。

「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」

 前回の最後の御言葉にありました「御子の内にとどまりなさい。」(2:27)が、繰り返されています。

 しかも「いつも」と強調されています。

 これほど、はっきりと繰り返される背景には、その逆の方向へと人々を誘おうとする動きがあったのでしょう。直前の2章26節には、「あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。」とはっきり記されています。

 「御子(=すなわちキリスト)の内にとどまっていても何も変わらないじゃないか。もっと魅力的なものや生き方が、この世には溢れているよ。」…といった誘いです。

 外からの誘いに加えて、内側からのさまざまな声、裏切りや離反があったことを前回の聖書箇所は伝えていました。キリストという名前を用いているものの、最も大切なところは、そっとすり替えてしまうような活動が活発になされました。そして実際に、教会の中に分裂が生じ、多くの人々が出て行ってしまうというようなことが起きたのです。しかも、出て行った人々の方が、ますます活発になっているような状況でした。

 自分はこのままでいいのだろうか? 何のためにキリストの教会にとどまっているのだろうか? そんな考えが頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消える…そのような人々も複数いたでありましょう。

 そのような状況のど真ん中でヨハネは書き記しているのです。

「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」(2:28a)

 このような信仰の危機は、実は、わたしたち一人ひとりにとっても無関係ではありません。

 聖書は、そのような危機をただ迂回して、避けて歩むことを勧めているのではありません。そのような危機こそ、わたしたちにとって、本当に大切なもの、本当に頼りになるものと、そうでないものの違いが明らかになるときなのです。

 2章24節には、すでに次のように記されていました。

「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」

 「初めから聞いていたこと」とは何を指しているのでしょうか。主イエスが、聖霊によってみごもった乙女マリアからお生まれになったこと、さんざんののしられたにもかかわらず、十字架にとどまられたこと、そして墓に葬られ、3日目に復活されたこと。それは、「使徒信条」として、わたしたちが今日も告白したその告白に凝縮されています。「我は天地の造り主」で始まり「永遠の生命を信ず」で終わる「使徒信条」です。歴史的には「古ローマ信条」という1世紀、2世紀までさかのぼれることのできるとても古い信条があるのですが、その大切な要素はほとんど変わっていません。「初めから聞いていたこと」とは、この「使徒信条」に凝縮されていると言ってもいいでしょう。これらの「信条」=「告白」が、このかたちに定められてゆく過程には、ヨハネの手紙の著者ヨハネが直面していたような信仰の闘いがあったのです。

 わたしたち一人ひとりにも、危機、困難の中でこそ見えてくるものがあります。危機、困難に対して、目を閉じてしまうのではなく、目を開き、そこを見つめるようにヨハネは勧めているのです。

 ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』を読まれた方も多いと思います。『夜と霧』は、精神科医フランクル自身がユダヤ人の強制収容所に入れられ、まさに困難の真っ只中で経験した出来事を、冷静に記録したものです。過酷な環境の中で囚人たちが何に絶望したのか、何に希望を見出したのか、という問いに正面から向かい合っています。非常に重いテーマですが、日本でもこの本が出版されるとまもなくベストセラーになりました。

 フランクルは、収容所の中ではさまざまな「選抜」が行われたということを伝えています。ガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まりました。ある時、収容所でクリスマスに解放されるとのうわさが広まりました。しかしそれが裏切られると、急に力つきてしまう人が多かったそうです。自暴自棄になり、食料と交換できる貴重な煙草を吸いつくしてしまう者もいました。過酷な環境の中で、フランクルは考えました。心の支え、つまり生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道であると。フランクルは、収容所での出来事を通して「生きる意味」を学び取ろうと決め、人間の心理について冷静な分析を行いました。そしてついに解放され、奇跡的な生還を果たしたのです。

 私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っているかもしれません。しかし災害や病気などに見舞われた時、その希望がフッと消えてしまうという経験をします。フランクルが置かれた収容所はその最悪のケースでした。しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えたのです。人間は欲望だけではなく、家族愛や仕事への献身など、さまざまな使命感を持って生きているものです。どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、人の役に立つこと、そこに生きがいを見いだすことこそが大事なのではないかとフランクルは考えたのです。そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語りました。

 収容所では、極限状態でも人間性を失わなかった人々がいたことをフランクルは記しています。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われました。フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるようになりました。しかし過酷な運命に打ちのめされていては、こうした喜びを感じとることはできなくなってしまう。運命に対して毅然とした態度をとり、どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること、それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考えました。幸福を感じ取る力を持てるかどうかは、運命と呼ばれるものへの向き合い方で決まるのだと彼は主張しています。

 フランクルは、“人生はどんな状況でも意味がある”ということをはっきりと伝え続けました。たとえ収容所の中であったとしても意味があるというのです。

 決してなくなることのない“希望”にしっかりと目をむけるように、と神様はフランクルを招いてくださったのです。

 「御子の内にいつもとどまりなさい。」 その神様は、今、わたしたちに語りかけてくださっています。

 「そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(2:28)

 ヨハネは、「御子の現れるとき」「御子が来られるとき」と繰り返しています。主イエス・キリストが、再び来られる時が来るのだと、そしてその「時」に向かってわたしたちは歩んでいるのだと、はっきりと記しているのです。それは“遠い将来”あるいは“わけのわからない、いつだかわからない”時として述べられているのではありません。そして、その「時」を待つ者に対して、待つにあたっての三つの大切なポイントを示しています。

  • 「神から生まれている」

 29節には「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」と記されています。第一には、「神から生まれた」ものとして、主イエスが再び来られる「時」を待つべきだと勧められています。「神から生まれたもの」とは、どのようなことをあらわしているのでしょうか。おぎゃあと生まれたばかりの赤ちゃんの体形や顔は、大人のそれと大きく異なります。その赤ちゃんの体形や顔(目のバランスなど)は、大人から見て不思議と「大切にしよう」という気持ちを起こさせるようなものです。わたしたちが「神から生まれ」るために、主イエス・キリストは、十字架の上でご自身の命を差し出してくださったのです。十字架の上で死なれましたが三日目に復活されました。そして、このことを信じる一人ひとりを、自らの罪に死に、新しい命を持つものとして「おぎゃあ」と生まれさせてくださったのです。そして、そこに不思議な「大切にしよう」という思いをもたらすのです。この十字架の出来事は弟子たちにとって、周囲にいた婦人たちにとって最悪ともいえる出来事でした。しかし、ここにおいて、“新しい命”=“永遠の命”がわたしたちに提供されているのです。主イエス・キリストは、わたしたちのためにその命を差し出してくださるほどにわたしたちを愛してくださいました。そして、今、わたしたちをも“ただ信じる”だけで、「神から生まれたもの」としてくださるのです。

 主イエス・キリストを信じて、永遠の命にあずかるのは、一人ひとり、すなわち「わたし」という個人です。しかし、同時に28節以下の呼びかけは、すべて複数形でなされています(28節「子たちよ」、29節「あなたがた」、3章1、2節「わたしたち」)。神様によってキリストの体として招かれている教会そのものが、「神の子」と言われているのです。わたしたち一人ひとりが招かれて、集められて、「神の子」と呼ばれる恵みにあずかっているのです。

  • 「愛されている」

 3章1節には「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」とあります。わたしたち一人ひとりが、命を与えられ、必要なものを与えられて、生きているという現実は、それがたとえ困難な状況下であったとしても「神様に愛されている」という事実ゆえなのだというのです。神様から愛されている存在なのだということを心に刻みながら、主イエス・キリストが再び来られるその時を待ち望むのです。

  • 「御子に似たものとなる」

 3章2節には「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」とあります。主イエスと似たものとなる! 畏れ多いと思ってしまうかもしれません。わたしたちは、親しいもの同士がひとつ屋根の下で共に暮らしていると、いつの間にか、似てくると言われます。同じ時に笑い、同じ時に泣き、同じ時に声を出し、ということを繰り返しているうちに何となく表情が似てくるものです。家庭や、さまざまなグループで起こりうることでしょう。

 しかし、主イエスが再びいらっしゃるその時、わたしたちは「御子をありのままに見る」というのです。それゆえ、主イエスが考えているように考え、主イエスが祈られるように祈り、主イエスが喜ばれるように喜ぶ。そのようなものと、主イエスが再びいらっしゃるその時にはしていただけるのです。そのようなところを目指してわたしたちは歩んでいるのです。

 3章3節には、「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」とあります。主イエスが来られたときに初めて清くなるのではなく、この希望を持って歩んでいる一人ひとりが、御子の清さにあずかることができるのです。

 

 主イエスが再びいらっしゃるその時(=御子が現れるとき)に向かって、「神から生まれている」ものとして、「愛されている」ものとして、「御子に似たものとなる」ものとして、この振起日に「御子の内にいつもとどまりなさい」という呼びかけに応答したいと思います。

 

目次