2021年7月4日礼拝説教「一粒の麦」

牧師 田村 博

2021.7.4

「一粒の麦」      イザヤ63:1~9  ヨハネによる福音書12:20~26

 国内では、梅雨末期の大雨により土砂崩れなどが発生し被害が生じています。また、世界に目を向けるとき、北米西部(シアトル、バンクーバー)で50度近い異常な気温となり、死者も生じています。この背後には、地球温暖化等があることは明らかです。これらの現実を前に、どこから手を付けてよいのだろうか、自分に何ができるのだろうかと、ふと立ち止まってしまいそうになるわたしたちです。

 しかし、そんなわたしたちにとって、本日の「一粒の麦」の箇所は、非常に大切な「一歩」の存在を、はっきりと教えてくれるすばらしい聖書箇所です。

 12章24節をご覧ください。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 この部分だけ取り出してお聴きしますと、少し不思議な感じがするかもしれません。どのような場面で、どのような流れの中で、主イエスはこの御言葉を語っておられるのだろうかと思われるかもしれません。先週の直前の聖書箇所を思い返してみてください。人々は歓声をあげてエルサレムに主イエスをお迎えしようとしました。しかし歓迎した人ばかりではありません。なんとか主イエスの快進撃を阻止しようとした人々がいました。彼らは、そのことが神様から自分たちに与えられている使命だと考えました。なぜなら、彼らの目には主イエスという存在は、「律法を守らず、秩序は無視して、当時の指導者たちの立場を何一つ考えずにふるまう輩」のように映ったからです。それゆえ、なんとか捕えて妨害しようと考えました。ところが、19節にはそう考えて行動していたファリサイ派の人々のため息にも似た言葉がしるされています。

 「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

 努力も虚しかったと彼らは思いました。それほどに人々が大歓迎していたのです。

 しかし、主イエスは、ご自身が本当にしたいと思っていることを、人々の歓声の延長線上に置かれてはいませんでした。歓声をあげる人々を近くに呼び集め、「さあ、あなたはこうしなさい、あなたはこれを手伝ってくれ、神の国を実現しよう」などと指示されたのではありません。20節をご覧ください。

 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」

 「何人かのギリシア人」の到来という、まったく異なる方向に進んでゆくのです。

 12章1節にあるように「過越祭」に向かって時は流れていました。その流れは、まったく変わりません。「過越祭」の主役はもちろんイスラエルの民です。ところが突然、その主役と異なるように見える「何人かのギリシア人」が登場したのです。いろいろな人が来ていたのだから、ギリシア人がいても不思議ではないと、わたしたちは考えるかもしれません。

 彼らがどうしてユダヤ人の礼拝の中心であるエルサレムに、過越祭の時に来たのか、そのいきさつや理由は一切記されていません。聖書以外の他の資料によると1世紀末のローマ帝国内のユダヤ人居住地は、約150箇所あったことがわかっています。彼らは、会堂を建て、安息日を厳守していました。ヨハネによる福音書7章35節にも、「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人」という表現がなされている一節があります。さまざまな理由でパレスチナ地方以外の場所に住んでいるユダヤ人たちがいました。この時に、エルサレムに来て、主イエスにお目にかかりたいと申し出たギリシア人たちも、そのようなユダヤ人たちとの何らかの出会いがあったのでしょう。ギリシア人たちの宗教観は多くの神々からなるもので、「ギリシャ神話」として、世に残っています。文化的にも世界の流れに大きな影響を及ぼしたギリシア思想でした。紀元前のギリシア哲学も、現代の哲学的思索につながる深さをもっていました。ギリシア語は、当時の地中海沿岸の広範囲での公用語のようにして用いられていました。わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいる創世記からマラキ書は、ヘブライ語で記されているのですが、公にヘブライ語からの翻訳が許され実現したのがギリシア語でした。その歴史の積み重ねに基づいた「われこそは」という自信をもって生きていてもおかしくない状況がありました。しかし、その彼らが、ユダヤ人たちと出会う中で、その信じている「神様」を自分も信じたいという気持ちを起こされていったのです。ギリシャ神話の神々の世界とはまったく違った、すべてを造られた唯一のお方であり、人間の知恵、知識の中におさまることさえ到底できない存在であるお方を「神様」と呼び、礼拝をささげる姿に「何か真実なもの」を感じて、求め始めていったのでしょう。しかも、もう一つ、イスラエルの民の信仰の中に驚きをもって受けとめたことがあったに違いありません。それは、「罪」の前を素通りしないその姿勢です。「罪」をいいかげんにせず、動物のその「命」の犠牲によって、代価が支払われ、それゆえに神と自分との交わりが回復されるという厳しさの中に、真剣さを感じていったに違いありません。

 ここに登場するギリシア人たちも、自分がギリシア人であるというプライドを一切捨てて、ユダヤ人たちの礼拝するエルサレムに来たのでした。

 そこで、なぜ、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と言ったのでしょうか。そのなさったこと、教えについての噂を耳にしたのかもしれません。あるいは、エルサレム神殿で礼拝する中で、いつもと違う何かを感じとったのかもしれません。主イエスが神殿の境内から物を売り買いする人たちを追い出したということを、ヨハネによる福音書も伝えています(2:13~16)。売り買いする人たちが追い出されたのは「異邦人の庭」と呼ばれていた場所でした。それは、まさに、ユダヤ教に改宗しても「異邦人」として扱われていた彼らの礼拝の場所でした。それより神殿の奥には、ユダヤ人のご婦人たちが入れる場所があり、さらにその奥にはユダヤ人男性の入れる場所がありました。もしかしたら、そのときにギリシア人たちは何か、違うものを感じたのかもしれません。何年か前に来た時には、そこでは鳩や動物の売り買いの場所になっていたのに。その年、その異邦人の庭は、祈りの場所になっていたのです。なぜ、このように落ち着いて祈れるのだろうか? とそこにいた人々に尋ね、イエスというお方が、この場所の売り買いしていた人々を追い出されたのだといういきさつを、人づてに聞いたのかもしれません。そして、是非、主イエスにお目にかかりたい、そう願い、申し出たのかもしれません。彼らは弟子の一人フィリポに頼み、フィリポはアンデレに話し、アンデレとフィリポは、二人で主イエスにそのことを話しました。

 主イエスはお答えになりました。23、 24節。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 そのギリシア人たちの到来の知らせを聞いた時の主イエスの反応は、「そうか、行こう」でもなく「あとにして欲しい」でもありませんでした。一見すると、無視しているかのような、かみ合わないような対応に見えなくもありません。しかし、主イエスは、アンデレとフィリポのみならず、ギリシア人たちにとっても、真正面からお答えになっているのです。

 この23、24節にこそ、あなたがたが目を向けるべきすべてがあるのですよ、と主イエスは語っておられるのです。

 「一粒の麦」「死ぬ」という言葉をもって、主イエスは語られました。通常、わたしたちは、「一粒の麦」が「死んで」芽が出たとは言わず、「発芽した」「芽を出した」と言うでしょう。しかし、主イエスは、あえて「死」という言葉を用いて、「一粒の麦」が「一粒の麦」ではなくなるという現実を表現されたのです。それは、「一粒の麦」が「一粒の麦」ではなくなるということと、ご自身の「十字架の上の死」を重ね合わされたからです。そこには「死は終わりではない」「死は滅びではない」という、主イエスの深い深いメッセージが込められているのです。ご自身の十字架は終わりではなく、その先にある復活を通して「多くの実」が結ばれるところにつながってゆくのだというのです。その「実」は、「永遠の命」というかけがえのない「実」です。

 ここにもう一つここで大切なことが語られています。25節をご覧ください。

 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 主イエスの十字架と復活を「一粒の麦」の「死」で伝えて、それでおしまいではありません。主イエスの十字架、復活を目の当たりにする「わたし」たち一人ひとりについて、ここで大切な促しがなされているのです。

 この25節を塚本虎二訳では、「(この世の)命をかわいがる者は、(永遠の)命を失い…」(カッコ内は原文にはない) と訳されています。ここで用いられている「愛する」が「アガペー」ではなく「フィレオ」であることから、このように訳しています。わたしたちが、この世の命に固執するならば、大切な永遠の命を失うことになってしまうのだよ、と語りかけられているのです。わたしたち自身にも「死」を求められているのだということです。

 「死」とは何でしょうか。

 ヨーロッパで、主イエスの復活を「蝶」をもって象徴的に語ることがあります。

 アゲハチョウなど、海外でもとても美しい蝶が何種類もいます。とても美しい蝶ですが、幼虫のときには、葉の上を歩き回る青虫です。あまり綺麗、美しいとは言えない姿です。その青虫が、やがて蛹になって、そしてその蛹から蝶が出てくるのです。ところで、青虫は、蛹の中で、どのようにして蝶にかたちを変えるのでしょうか。青虫にも「足」があり「目」がある。それらが少しずつ少しずつかたちを変えて、ついにはあの蝶の姿に変わってゆくのではないかと思われるかもしれません。しかし、事実は異なります。幼虫が蛹になって動かなくなったそのとき、蛹の皮の中はまったくのドロドロの状態、足も目も何もまったくないドロドロの状態となるのです。青虫の体を思い出させるものは何一つないまったくのドロドロの状態を経て、時を経過して、あの蝶の羽や足や目や触覚や体が薄い蛹の皮の下につくられるのです。まことに不思議な変化が、ここにあります。

 主イエスの復活が、蝶の羽化にたとえられるというのは、青虫がだんだん成虫に近づいてくるというのではなく(昆虫でもバッタは脱皮を繰り返してだんだん成虫に近づいてゆくのですが、バッタのようにではなく)、幼虫(青虫)自身の姿はまったくなくなって(ドロドロの状態になって)、きれいな蝶に変えられるその様子を重ね合わせているのです。

 わたしたち一人ひとりの「死」とは、神様の恵みの中で、神様の取り扱いによって、神様の御手の中で、蝶の幼虫が蛹になった時のように、まったく変えられ(ここは〇〇だったところだと認識さえできないような「死」を経て)、神様ご自身が“かたちづくる”ところに身を置くことではないでしょうか。その「死」を経験したわたしたちを、神様は、美しい蝶が蛹の殻を破って羽ばたくように、復活の命、永遠の命にも与からせてくださるのです。

 さらに25節後半にはこうあります。

 「…この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 「自分の命を憎む」をフランシスコ会訳聖書「自分の命を顧みない者」と訳しています。ギリシア語では「憎む」のほうが直訳なのですが、あえて「顧みない」と訳しているのです。もしわたしたちが自分の地上での命を気にしてばかりいるならば、視線を注いでばかりいるならば、顧みてばかりいるならば、それを失うことになってしまうというのです。しかし神様に委ねてしまって、顧みない者は、それを保って永遠の命に至るのです。ここに希望があります。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 立ち止まっていては、そのままでいては、前に進めない領域があります。しかし、主イエスご自身が、「一粒の麦」として死んでくださり、その先にあるまことの希望を指し示してくださっているのです。「多くの実を結ぶ」という約束は、この地上で「何をしたらよいのだろうか」と迷いそうになるわたしたちにとって、まことの希望です。

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