2012年11月4日 礼拝説教「いつまでも存続するのは、信仰と希望と愛」

列王記上17:17~24
コリントの信徒への手紙一13:8~13

櫻井重宣

 今朝は、召天者記念礼拝として、私たちの教会の信仰の先達お一人お一人を心静かに偲びつつ礼拝をささげることができ、心から感謝しています。
 今、司会者に私たちの教会の召天者として、牧師及び牧師夫人7名、陪餐会員93名、客員8名、教会墓所に納骨してある方々17名のお名前を呼んで頂きました。また、今、ここでお名前をお呼びしませんでしたが、今朝ここで礼拝をささげておられる方の中には、御家族がその属しておられた教会の召天者記念礼拝でお名前が呼ばれていることを覚えつつ、ここで礼拝をささげておられる方も少なくないことと思います。
 この地上の生涯を終え、みもとに召された方々が今天にあって、地にある私たちと共に神さまを賛美していることを覚えつつ今朝の礼拝をと祈るものです。

 先程、お読み頂いたコリントの信徒への手紙一13章の12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる」とありました。
 この13章は愛の賛歌と言われます。パウロは、この地上の歩みにおいて、神さまがわたしたちを愛してくださっているということは、おぼろにしかわからない、しかし、この地上の生涯を終え、神さまのもとに召され、神さまと顔と顔とを合わせたとき、神さまがどれほど愛してくださったかを本当に知ることができる、というのです。
 本日は、召天者記念礼拝ですが、召天者は神さまのみもとにあって、神さまと顔と顔とをあわせ、神さまは自分の生涯において、どんなときにも愛でいました、どんなときにも真実であられた、そのことを知り、証ししている方々です。今日の礼拝で、天にある証人たちの証しに共に耳を傾けたいと願うものです。

 コリントの信徒への手紙は、パウロがコリントという町に書き送った手紙です。コリント教会はパウロが伝道して誕生した教会です。パウロが心血を注いで形作った教会です。しかし、パウロがよその町に伝道に行った後、いろいろなトラブルが、もめごとが教会の中に起こりました。コリント教会の心ある人が教会の現状に心痛め、パウロに相談し、その相談にパウロが答えようとしたのがこの手紙です。
 先程は8節以下をお読み頂いたわけですが、それに先立ってこういうことが記されていました。コリント教会には、天使たちが語るような立派な言葉を語る人がいました。また、山を移す程の信仰を持っている人も、全財産を貧しい人に使い尽くす人もいました。けれどもパウロは、コリント教会に決定的に欠けているものがある、それは、愛だというのです。愛がないのでトラブルを起こす、愛がないのでトラブルを起こす人を抱え込めない、というのです。そして4節~7節で愛とは何かを語ります。ゆっくり読みますのでお聞きください。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 愛を主語にして15の動詞があります。愛はどういう動きがあるのか、心に留めようというのです。パウロに相談した人はいらだっていました。あまりにもひどい、パウロ先生、何とかしてください、と。そうした人々に、パウロは、愛は——しないと語りかけ、この現状を抱えこもうとします。抱え込もうとすると痛みがともないます。それでも抱え込もうというのです。最後の五つは肯定形です。「真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 ドイツにゴルヴィッツアーという牧師がいました。第二次大戦下、ナチスに抵抗したため牧師の道が閉ざされ、戦争に召集され、戦後、シベリアで捕虜の生活を強いられた牧師です。この牧師は戦後、教会がこの世でどういう歩みをすべきか真摯に祈り続けた牧師です。
 このゴルヴィッツアー牧師が戦後、コリントの信徒への手紙一の13章を5回にわたって説教しています。この説教でゴルヴィッツアー牧師は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ということは、「一人の人間をあるがままの姿において見、そして愛する」ということだ、そしてここでの愛はイエスさまの愛だ、というのです。
 パウロは自分がぼろぼろになるまで心血を注いだ教会にいろいろなトラブルが発生し、自分があれほど労苦したことは何であったのか、と思うこともあり、涙を流したのですが、そのことを通して、イエスさまはわたしたちをどんなことがあっても抱え込んでくださる、あるがままに抱え込んでくださる方であることをあらためて知ることができ、そのことをパウロはコリント教会に書き記すのです。ここの「愛」は神さまがわたしたちを愛してくださる愛、アガペーです。
 8節以下で、パウロは、この地上におけるわたしたちの愛が一部分であるし、そうした私たちに対する神さまの愛もおぼろにしか分からないが、神さまのもとに召されたとき、神さまがわたしたちをどれほど愛してくださっていたかを知ることができるというのです。この地上での歩みを終え、神さまのもとに召されたとき、神さまと顔と顔とを合わせて、自分の生涯において神さまがどれだけ愛してくださったかということをはっきり知るようになる、というのです。
 ですから、13節で、「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とありますが、言い方をかえますと、こういうことではないでしょうか。
 「信仰」は、わたしたちが神さまを信頼する、信じていることに先立って、神さまがわたしたちを信頼していること、神さまが私たちを信じていることです。「希望」は、わたしたちが神さまに望みをおくことに先立って、神さまがわたしたちに希望を持っている、神さまがわたしたちに絶望しないことです。 「愛」は、わたしたちが神さまを愛するに先立って、神さまがわたしたちを愛しておられることです。
 すなわち、どんなに破れがあり、弱さを抱えるわたしたちであっても、神さまはわたしたちを信じ、わたしたちに絶望せず、わたしたちを愛しておられる、その信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残り、その中で最も大いなるものは愛である、というのです。この地上で鏡に映して見るようにおぼろにしか見えないが、地上の生涯を終え、みもとに召されたそのときには顔と顔とを合わせて見る、はっきりと分かるというのです。
 今日はこうして召天者お一人お一人を覚えているわけですが、召天者のお一人お一人は神さまが信じ、神さまが絶望せず、愛し続けたお一人お一人だ、ということです。さらにいうなら、今、みくににあって、地上にあるときはおぼろにしかわからなかったが、神さまのみくにで、神さまと顔と顔とを合わせ、これほどの愛をもって神さまが地上にあるときも、今も、そしてこれからもわたしを愛してくださることが本当にわかった、と告白しておられるお一人お一人なのです。

 ですから、教会がなすべきことは、どんなにおぼろにしか見えなくても、神さまは、わたしたちをどんなときにも愛しておられることを証しすることです。    
 こうしたことでいつも思い起こすのはマザー・テレサさんとロシアの文豪ドストエフスキーです。

   インドのカルカッタでよき働きをされたマザー・テレサさんは、カルカッタの路上で誰からも看取られることなく死んでいく人が多いことに心を痛め、「死を待つ人の家」をつくりました。路上でだれからもみとられないで死に瀕している人を、シスターやブラザーたちが「死を待つ人の家」に連れてくると、必ず二つのことを聞きました。一つはその人の名前です。もう一つはその人の宗教です。
 名前を聞くのは、死にそうな人を、「○○さん」とその人の名前を呼んで看護するためです。その人の宗教を聞くのは、その人が死んだとき、その人の宗教で葬りの業をするためです。ヒンズー教の人はヒンズー教の寺院で、仏教の人は仏教のお寺で葬りの業をなし、キリスト教の人は教会で葬りの業をしましょう、と伝えます。その人の最も大切なことを尊重することを伝えます。
 そして「死を待つ人の家」でマザー・テレサさんやシスター、ブラザーたちは、○○さんと名前を呼びつつ、身体をさすり、手足をさすりつつ看病します。マザー・テレサさんは一番の不幸は、だれからも相手にされないことだ、と言います。ですから、○○さんと呼んで「あなたにはもっともっと生きて欲しい。あなたもこの世に生まれた大切な人だ、あなたの生を尊び、死を悲しむ人が少なくともここに一人はいる」ことを伝えながら看病します。路上で覚えることがなかった優しさに感謝し、にっこりと笑って召される人もいるというのです。

   ドストエフスキーは、終わりの日には、誰もが神さまから招かれることを語ります。『罪と罰』という小説の中で、マルメラードフという男が登場します。妻を亡くし、ソーニャという娘と暮らしていたのですが、夫を亡くし幼い子どもをかかえていたカチェリーナという婦人を後妻にもらいました。しかし、カチェリーナも病気になり、しかもヒステリーを起し、子どもたちがおびえ、とうとうソーニャが夜の仕事をして家族を養おうとしたのです。マルメラードフはそのことが辛くて酒場で酒を飲み続けます。そうした中でマルメラードフはこういうことを語ります。終わりの日、審きの日が来たとき、真っ先に神さまがお呼びになるのはソーニャだ、というのです。そして最後に、我々を召し出して、そちたちもこいと招かれる、そうすると知者や賢者はなぜ彼らをお迎えになるのかという。そのとき、神さまは「彼らの中のだれ一人として自らそれに価すると思うものがないからだ」、と。こう言ってわれわれに手を差し伸べる、というのです。神さまの御国が到来する時、すべての人を招かれるのだ、と言って、マルメラードフは「主よ、あなたの御国の来たらんことを」と祈るのです。
 ドストエフスキーが語るように、神さまの愛と真実はだれに対しても注がれているのです。しかし、そのことがこの地上にあっておぼろにしかわかりません。しかし、神さまのもとに召されたとき、顔と顔とを合わせてそのことは本当であったと知ることができるのです。どんなに地上の歩みが神さまの御心に沿わない歩みをした人をも、その人が召された後もイエスさまは執り成しの祈りを続け、終わりのときに招かれるのです。

   最初にお読み頂いた列王記にこういうことが記されていました。数年に及ぶ飢饉が続いたとき、一人のやもめが預言者エリヤを家に迎え入れました。彼女も息子もエリヤも食べ物に事欠きませんでした。その後、この婦人の息子が病気にかかり、病状が重くついに息を引き取ってしまいました。彼女はエリヤに食ってかかりました。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのですか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるためここに来られたのですか」、と。エリヤは、息子を抱きあげ、自分のいる階上の部屋に行き、寝台に寝かせて祈りました。「神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」、と。そして彼は、彼女の息子の上に三度身を重ねてから「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈りました。神さまはエリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになりました。子どもは生き返り、エリヤは階上の部屋から降りて来て、母親のところに連れて来ますと、彼女は「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
 このやもめの告白は、彼女が神さまと顔と顔とを合わせたときの告白ということができるかもしれません。愛する人の死に直面し、取り乱した婦人が「神の言葉は真実です」「神さまは真実です」「神さまは愛でいます」という告白に導かれたのです。

   聖書にヨブという人のことが記されています。この世的に恵まれていたヨブが財産を失い、子どもを失い、自分自身も病気になってしまいます。最近も私たちの身近なところで、思いがけない苦しみに直面し、途方に暮れるような思いをしている方々がおられます。牧師として慰める言葉を持ち合わせません。70人、80人という群れでヨブのような苦しみに直面する方が相次ぎ、苦しい日々です。
 アメリカの旧約学者のゴルディスは、ヨブ記の究極的なメッセージを我々は決して知ることはないだろう、けれども暗黒が支配しているかに見える世界で、わずかに輝く光を指し示しているのがヨブ記だというのです。苦しみのどん底の底で神さまが支えておられるということは、かすかな光かもしれない、けれども、かすかな光、かすかな模様があるか、ないかということは大きな違いだ、というのです。   
 ヨブも最後に神さまを目で拝見しています。顔と顔とを合わせて「神は愛なりと告白しています。

   わたしたちも、神さまと顔と顔とをあわせて「神は愛なり」と告白する日を望み見て、信仰と希望と愛をたずさえて歩み続けましょう。  

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