2011年6月12日 礼拝説教「聖霊を受けなさい」

イザヤ書57:18~19
ヨハネによる福音書20:19~29

櫻井重宣

本日は聖霊降臨日です。イエスさまがよみがえられてから五十日目に、聖霊が降った弟子たちは「十字架の死を遂げたイエスさま、よみがえられたイエスさまこそ救い主」と告白し、教会が誕生しました。そこで、今日は教会の誕生日です。また、五十番目を意味するギリシャ語のペンテコステと言われます。古来、教会の暦ではペンテコステはクリスマス、イースターとともに三大節とされています。

 このペンテコステの出来事は使徒言行録に記されていますが、今日はただ今お読み頂いたヨハネによる福音書20章19節~29節を通して、ペンテコステの出来事に思いを深めて参りたいと願っています。
冒頭の19節にこう記されています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸の鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
 ここに記されているのは、ペンテコステの出来事より50日前、イエスさまがよみがえられた日の夕べ、すなわちイースターの夕べの出来事です。弟子たちはみな集まっていたのですが、ユダヤ人を恐れてその家のドアの鍵をかけていました。
 20章の最初の方を読みますと、弟子たちのうちの二人、すなわちペトロともう一人の弟子は、その日の朝早く、マグダラのマリアの知らせで、イエスさまのお墓まで走っていきました。お墓についたところ、イエスさまの頭を包んでいた覆いと体を包んだ亜麻布は見つけたのですが、イエスさまの遺体を見つけることはできませんでした。そして、9節と10節には「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った」と記されていました。
夕方になるとこの二人も含め、弟子たちは皆一つの家に集まってきました。けれどもユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸の鍵をかけていました。
イエスさまが逮捕され、十字架に架けられたとき、弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。そしてこんどは自分たちが捕まるかもしれないという恐怖がありました。それだけではありません。弟子たちはみな自らの弱さに打ちのめされ、自分の殻に閉じこもったのです。
私たちもそうです。苦しいこと、自らの弱さ、破れをどうしても受け入れられない時、自分の殻にとじこもります。誰にも会いたくありません。イエスさまに対しても鍵をかけてしまいます。
 こうした弟子たちのところにイエスさまがおいでになって、彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平安があるように」とおっしゃったのです。「あなたがたに平安がありますように」というのは、ユダヤのあいさつの言葉です。「こんばんは」と訳してもよい言葉です。鍵をかけた家の中に入ってこられたイエスさまの第一声は、どうして、わたしを見捨てたのか、どうしてわたしが捕まったとき助けなかったのか、どうしてわたしを三回も知らないといったのか、どうしてわたしがよみがえると言っておいたことを理解しないのか、と、弟子たちを責める言葉ではありません。自らの弱さ、破れに打ちのめされている弟子たち、自分たちも捕まるのではないかと恐怖を覚えている弟子たちを包み込むように、彼らの真ん中に立って、「こんばんは」とイエスさまは声をかけておられるのです。「こんばんは」は日常のあいさつの言葉です。弟子たちの弱さ、破れを特別なこととして受けとめられるのではなく、そうした弱さを、破れを持つあなたがたと一緒にこれまでも歩んできたし、これからも一緒に歩むよ、という思いが「こんばんは」というあいさつに象徴されるのです。
 先週お届けした、聖霊降臨日礼拝のご案内にも書き記しましたが、私たちは今、大地震、大津波という自然の猛威の前で、人間の無力さを思わされています。それとともに66年前広島、長崎で核兵器の恐ろしさを知ったわたしたちの国が核の平和利用ということで原子力発電所を全国各地に作ってしまい、今、福島第一原発が津波によって大きな事故に直面し、多くの人々を不安に陥れ、たくさんの方が日夜、苛酷な労働に従事しています。こうした現状を思うにつれ、広島、長崎の苦しみ、悲しみは何であったのかと、どうしようもない、むなしさ、おろかさを思わされています。
 こうした私たちに、イエスさまは「こんにちは」「こんばんは」と声をかけてくださるのです。私たちの弱さ、破れ、愚かさがどうでもいい、というのではありません。「こんばんは」「平安があるように」とおっしゃったイエスさまは、弟子たちに御自分の手とわき腹をお見せになりました。あなたがたの破れ、弱さを抱え込むためにわたしは十字架の道を歩んだのだ、見てごらんなさい、十字架に架けられたときの釘あとがついているわたしの手を、わたしのわき腹を、とおっしゃったのです。弟子たちはイエスさまにお会いでき喜びました。
 こうした弟子たちにイエスさまは重ねておっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」と。それだけでなく「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、イエスさまは弟子たちに息をフーと吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とおっしゃいました。
 イエスさまが弟子たちに息を吹きかけたということで、わたしたちがすぐ思い起こすのは、創世記に記される、神さまが人間を最初にお造りになったときの言葉です。
「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
ですから、イエスさまが弟子たちに息を吹きかけた、というのはいろいろな破れ、弱さのある弟子たちをもう一度新しい人間とされることです。どんなに弱さを、破れをもっている私たちであっても、イエスさまは私たちを見捨てず、十字架に架かってまで抱え込み、もう一度、新たな歩みへと導き出してくださるのです。
さらにイエスさまが息を吹きかけておっしゃった「聖霊を受けよ」の「聖霊」はヨハネによる福音書では14章~16章に記される十字架の死を前にして不安を覚えている弟子たちに語った説教、告別の説教では、聖霊はパラクレートスだというのです。パラクレートスはギリシャ語ですが、「パラ」は≪そば≫で、「クレートス」は≪声をかけ続ける≫ です。ですから、「パラクレートス」は≪弁護者≫≪助け主≫≪慰め主≫と訳されます。
聖霊を受けなさいと弟子たちにイエスさまがおっしゃったことは、弟子たちに弁護者となりなさい、破れ、弱さを持つ人の弁護者となりなさいという勧めです。
最近、足利事件、不川事件というように何十年と獄に繋がれていた人の再審判決で犯人とされていた人々が無罪となりました。こうした再審の裁判を見ていますと、周りがどんなに犯罪者と見なしても、その人のために弁護する人がいます。
「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけられて立ち上がった弟子たちによって教会が誕生したということは、教会の使命はパラクレートス、どんな人のそばにも寄り添い、その人のために祈り続けることにあることを思わされます。
そして、ここで、心に留めておかなければならないのは「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」ということです。私たちが赦さなければ、パラクレートスの働きをしなければ、赦されないまま罪が残ってしまうというのです。教会に委ねられた使命の、責任の重さを思わされます。 

 24節以下、トマスのことが記されます。トマスは十二弟子の一人で、ディディモと呼ばれます。ディディモは双子という意です。トマスは双子であったのでしょう。あの日、イエスさまがよみがえられた日の夕べ、トマスは居合わせませんでした。ほかの弟子たちがトマスに、わたしたちは主にお会いしたと言いますと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。
26節にこうあります。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
イエスさまがよみがえられたのは週の初めの日、日曜日です。その日から八日目、次の日曜日です。今日も私たちは日曜日に礼拝をささげていますが、イエスさまがよみがえられてから、日曜日に礼拝するようになったのはこうした記事からも分かります。弟子たちは一週間前、イエスさまにお会いし、平安があるようにと慰められそれぞれの場で歩みました。けれども一週間後、弟子たちが集まりますと、また、戸に鍵をかけ締め切っていました。一週間の歩みで弱さ、疲れを覚えています。この日はトマスもいました。イエスさまは、このときも、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。
わたしたちもそうです。礼拝において、よみがえられたイエスさまにお会いし、先程お読み頂いたイザヤの預言にあるようにいやしを、休みを、慰めを与えられてそれぞれの場に行くのですが、一週間たって、また、礼拝に集ったときの私たちの姿はここの弟子たちと同じです。
一週間前、そこに居合わせなかったトマスに、イエスさまは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とおっしゃいました。トマスを底の底までご存じのイエスさまは、トマスを招いておられます、指をここに当てていい、手をわき腹に入れていい。そのイエスさまの優しさ、招きに促され、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をするのです。

 第二次大戦下、ナチスによってその作品の数多くが破壊されたバルラハという芸術家がいます。彼の有名な彫刻の一つに「再会」があります。イエスさまとトマスの再会です。イエスさまはすっきりと立っています。そのイエスさまに腰を折ったトマスがすがりつき、両手をイエスさまの肩にかけ、下からイエスさまの顔を見上げています。イエスさまもトマスのひじの下を通した腕をトマスの脇の下に当てています。イエスさまの指に釘跡があります。トマスの方が年をとっています。そのトマスがイエスさまにしっかり抱かれて「わが主よ、わが神よ」と告白しています。トマスの姿は、バルラハ自らの姿とも言われます。この作品は破壊されたり、焼かれないで残りました。  

 福音書記者ヨハネが記す聖霊降臨の出来事は、パラクレートスであるイエスさまに、パラクレートスそのものである聖霊を与えられて誕生した教会の姿、使命を語っています。

 最近、ヨッヘン・クレッパーの宗教詩集『キリエ』が出版されました。「キリエ」は「主よ」という意味です。「讃美歌21」にクレッパー作詞の讃美歌が三つ採用されています。
クレッパーはユダヤ系未亡人と結婚しました。彼女には娘たちがいました。第二次大戦下、妻と娘の一人が強制収容所に送り込まれることになった直前、彼は妻や娘たちとともに死を選びました。
『キリエ』に≪聖霊降臨祭の歌≫があります。この詩を通して聖霊降臨の恵みの豊かさを心深く覚えたいと願い、紹介させて頂きます。

「来てください、聖なる鳩よ。
オリーブの葉を携えて来る鳩よ。
告げてください、信仰は、いかなる隔たりをも越えていくことを。
今や遥かな隔たりも あなたの飛翔が克服した。
この地と星とは この日一つに結ばれた。

輝いてください、聖なる炎よ、かつて弟子たちの頭の上に輝いたように。
わたしたちを小羊のものにしてください。
わたしたちを死から取り戻した小羊に。
あなたは来られた、朝の光に満ち溢れる輝きよ。
わたしたちは解き放たれた、闇と裁きから。
轟いてください、聖なる響きよ、永遠に満たさ 
れた風よ。
あなたに耳を傾けさせてください、世の争いの只中で。
地上に知られた すべての言葉で あなたにほめ歌が捧げられますように。
見てください、心も燃えるそのさまを。

 聖霊よ、来てとどまってください。
慰め主なる聖霊よ、救ってください、癒してください、 
さもなければ、わたしたちはみなしごなのだ  から。
主のしるしとしてわたしたちのもとにとどまってください、
主がいつも近くにおられるしるしとして。
それが未だ誰も見たことのなかった 国々においても。

 主の御名によって あなたはわたしたちに遣わされた、
神がわたしたちに御顔を向けておられることに、然り、アーメン、と肯く証しとして。
神が罪人たちに 遥か昔から手を差し伸べ、
わたしたちを子らとして慈悲深く
御子の内に赦してくださった証しとして。

 来てください、聖なる鳩よ、天から舞い降りる鳩よ、
わたしたちを塵から 雲の高みに引き上げてくださる鳩よ。
翼を広げてください、わたしたちの上に。
鷲の翼さながらにあなたはわたしたちを連れ戻してくださる 父なる神の国に。」

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