2026年6月14日 礼拝説教「命に入る」

牧師 田村 博

旧約 イザヤ書6612  約 マルコによる福音書94250 

                          田 村  博

「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」(42節)

 とても厳しいひと言です。

 しかも、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい。」(43節)と続くところを読むと、繰り返される「切り捨てなさい」「ゲヘナ」という言葉に委縮してしまいそうになります。

 「つまずかせる」という言葉から、目の不自由な人が歩いている時、そっと進路に石を置いて転ばせるような光景を連想します。そんな生き方をしてはいけない、そんなことをしていると地獄に落ちてしまうよという「道徳訓」のようにこの箇所を受けとめてしまいそうになるかもしれません。自分の言葉に100%自信をもって生き続け、何一つ誤りなく生きることのできる人など、一人もいません。それゆえ、自分も誰かをつまずかせているのでは…と、たちまち不安に陥ってしまいそうになる私たちです。

 しかし、この聖書箇所において、主イエスは私たちを委縮させようとしてこのように語られたのではありません。大切なのは、42節の前半の「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」という御言葉です。「私」すなわち「主イエス」を信じるところに生まれる「つながり」があります。主イエスは、その「つながり」がどんなに小さく見えても、かけがえのないものであることを、すべてに先がけてはっきりと伝えておられるのです。マタイによる福音書の並行箇所では、「ろばの挽く石臼」のことに続けて、99匹の羊を残して1匹の羊を捜すというたとえ話が納められています。主イエスを信じるところに生まれるつながりは、私たちの想像以上にかけがえのないものなのです。

 そのつながりの大切さに気づかずに、その前を通り過ぎてしまったり、そのつながりを踏みにじってしまったことに後から気づいたなら、恥ずかしくて「穴があったら入りたい」ような気持ちになることでしょう。「石臼」には、人間が手で穀物をひくために用いるサイズのものと、ろばを用いるはるかに大きなサイズのものがあります。後者を首に結んで海に沈められたら二度と浮かび上がらないでしょう。主イエスを信じるところに生まれる「つながり」の大切さに気づかなかった自分…恥ずかしくて合わせる顔がないくらいだ…というのです。それほどに、主イエスを信じるところに生まれるつながりは、大切なものだということを42節のひと言は伝えているのです。

 シュヴァイツァーは、自分の腕にとまった蚊の命さえ大切にし、潰さなかったと言われています。それほどに「命への畏敬」を持っていた彼ですが、もしかしたら、蚊という小さな命と、その小さな命を造り保ってくださっている創造主なる神との間の「つながり」を、心の目をもって見ていたのではないでしょうか。私たちには見えないものを、彼は見ていたに違いありません。

 意識しない人には、主イエスを信じるところにそのような「つながり」が生まれるということなど、見えないことでしょう。しかし、主イエスには、神さまには、その「つながり」がはっきりと見えるのです。そして、私たちをも気づくようにと招いてくださっているのです。

 続いて主イエスは、手、足、目を用いて繰り返してお語りになりました。

 私たちは、手があるから握手をすることができ、手を用いて何かを渡したり受け取ったりすることができます。「ありがとう!」と肩を抱いて感謝を伝えることもできます。しかし、その同じ手を用いて、原子爆弾を作ることも、毒薬を作り出して人々を苦しめることもできるのです。その手が、主イエスを信じるところに生まれるつながりを喜んで生きようとしている人々の命を壊すのに用いられてしまうとするならば、手が動かない状態を耐え忍ぶ方がよいでしょう。

 私たちは、足があるから移行していろいろな景色を見、また他の人々の立場や世界を理解することができます。しかし、同時に、自分の置かれている場所に満足せずに、あたりかまわず踏み荒らしてしまうといったことも起こりうるものです。日本でも各地でメガソーラーが問題になっています。大切な湿原に一度作られてしまうと、たとえ撤去されても生態系が元の状態に戻るには何十年もかかるという悲劇があちこちで生じています。また山肌が剝き出しになり土石流の危険が増しているようなところもあります。片足が動かなくなることによって、自分の歩くことの意味、歩くべき場所をしっかりとあらためて認識できるとすれば、主イエスとのつながりによって喜びを見い出した人々の貴重な人生を踏みにじるよりずっといいことでしょう。

 私たちは、目があるから隣人の気持ちを知り、また何を必要としているかを知ることができます。しかし、同時に「美しい」魅力的に見えるものに目を奪われるようなことになりうる存在です。イスラエルの民を治めたダビデ王でさえ、沐浴するバテシバの姿に心を奪われて、なんと彼女の夫ウリヤの命を策略を凝らして奪ってしまったのです(サムエル下11:1以下)。もしダビデ王の視力が悪くてバテシバの存在を認識できかったのならば…。

 主イエスを信じるところに生まれる「つながり」は、かけがえのないものです。

 その本質を知れば知るほど、大切にしたいという思いは、私たちの心の内側から湧きあがってくるに違いありません。

 主イエスは、続けて語られました。

「人は皆、火で塩気を付けられねばならない。」(49節)

 直前の48節に「ゲヘナ」と並列して「火」のことが記されているため、「火」から「裁き」を連想しがちです。確かに、旧約聖書においても天からの火が裁きの手段のように下される場面が複数あります(列王下1:9以下、他)。しかし、同時に天からの火は、神様の臨在と働きの象徴でもあります(列王上18:38他)。神様は、私たちにとって「裁き」のように感じられる時を含めて、ご自身の臨在によって、私たちに「塩気を付け」てくださいます。そして続けて語られました。

「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(50節)

「塩」は、料理で用いられる時、他の食材の本来の味を引き出す働きをします。また、食品の保存性を高める大切な働きもします。人間の生命活動にとって、欠くことのできない物質です。「敵に塩を送る」ということわざがあるように、塩の供給が断たれたら人間の命はたちまち危険にさらされます。それは、塩(塩化ナトリウム)を構成するナトリウムイオンが、脳からの神経伝達を助ける上で必要不可欠だからです。それゆえ、人は誰でも1日あたり6.5~8グラムの摂取が必要なのです。「自分自身の内に塩を持ちなさい。」とは、塩を独り占めにして蓄えなさいという意味ではありません。人は、体内で塩を作り出すことができません。汗をかいたり神経の働くたびに消費され、常に体外に出されますので、常に外部から供給される必要があるのです。「自分自身の内に塩を持ちなさい」とは、壁を作って自分を囲んでしまうことの勧めではなく、開かれた関係を外部と保ち続けることの勧めなのです。そこに「互いに平和に過ごしなさい」という御言葉が成就するのです。

 この聖書箇所で、もう一つ大切な御言葉があります。それは、繰り返されている「入る」という言葉で、43、45節では、「命に入る」、47節では「神の国に入る」とあります。実は、新共同訳では、前者は「命にあずかる」、後者は「神の国に入る」と訳されていましたが、聖書協会共同訳ではいずれも「入る」と訳されています。「命にあずかる」の方が流れからするとわかりやすいかもしれませんが、聖書協会共同訳であえてすべて「入る」と訳したのは、ギリシア語原本ではすべて、「エイセルコマイ」という同じ言葉が用いられているからでしょう。「エイセルコマイ」は、「~に向かって・~の中に」という意味の「エイス」という前置詞と「来る、行く」という意味の「エルコマイ」という動詞が合体してできた言葉です。しかもその前に重ねて「エイス」という前置詞を置いているのです。「命」「神の国」を外から眺めてあれこれと考えるのではなく、「命」「神の国」に自らの体を動かして入ることの大切さを、私たちに伝えています。

 主イエスを信じるところに生まれる「つながり」は、私たちを「命」「永遠の命」の中へと確かに向かわせてくれるのです。

   (2026.6.14 主日礼拝・一部変更あり)

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