牧師 田村 博
月報よきおとずれ 2026年月5号 №909
目 次 日本基督教団 茅ヶ崎教会
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牧 師 田 村 博
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「主があなたと共にいる」
旧約 ヨシュア記 1:1~ 新約 使徒言行録 2:1~11
田 村 博
本日は、教会暦によると「聖霊降臨日・ペンテコステ」です。教会の誕生日とも言われ、主イエスの弟子たちにとって、その後の人生を大きく変えることになる出来事と遭遇した非常に大切な日であります。使徒言行録2章1節以下は、その日、何があったのかを正確に伝えています。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」(2~4節)
これは、確かに日常とはかけ離れた、特別な出来事です。そこに居合わせた主イエスの弟子たちにとっても、それまで経験したことのない出来事だったに違いありません。そのあまりにも特異な現象に目を奪われ、また、その出来事を経験した直後の弟子たちの、それ以前とは明らかに異なる自信に満ちた態度に心を惹かれて、「聖霊の満たし」のみを求めるようなことにつながりかねません。弟子たちのような経験をすれば、一人前のクリスチャンになれるのではないかなどと考える人もおこるかもしれません。
しかし、それより大切なことが、この不思議な出来事には込められています。
まず第一に、「天から起こり」という言葉にご注目ください。「激しい風が吹いて来るような音」は、「天から」聞こえてきたのです。風の音は、地上の何かに風が吹きつけて物を震わせて生じるものです。しかし、ここでは「天から」なのです。聖霊降臨の出来事が、わたしたちの願いや思いの延長線上にあるのではないことをはっきりと示しています。すなわち神様の御心が先行しての出来事でした。
第二に、「一人一人の上に」「炎のような舌」が臨んだことが伝えられています。「炎」は、ふつう赤っぽく上に立ち上ります。「舌」は、人が口を開けて何も意識せずに舌を出すと、水平より下の方向に垂れ下がります。舌も炎も同じように赤みをおびています。つまり、炎と舌という全く異なる二つのものを用いて、人々の理解を超えた不思議なものが上から「分かれ分かれに」一人ひとりに臨んだことを伝えています。「分かれ分かれ」ではあるが、同時に一致しているというのです。
第三に、弟子たちは、「他国の言葉で」語り出しました。どの国の言葉だったのか…については、8から11節を見るとわかります。全員が異なる言葉でした。しかし、会話が成立していたのです。コミュニケーションが成り立っていました。ここが最も重要なところです。皆で同じ外国語を突然話し出したのではなく、異なる言葉で語っているにもかかわらず会話が成立していたのです。
11節を見ると、語り合っていた話しの内容をうかがい知ることができます。「神の偉大な業を語っている」とあります。
「上から」「一人一人に」与えられた聖霊により、「他国の(異なる)言葉」で「神の偉大な業を語っている」(11節)弟子たちの姿が、そしてそれを驚きをもって見守っている人々の姿がここにあります。世間話をしていたのではなく、神様が自分に何をしてくださったのか、自分のみならず、隣人に、すべての被造物に何をしてくださったのか、喜びながら語り合っている姿がここにあります。
この出来事は、一人ひとりにとって「信仰の原点」となったことでしょう。同時に、「教会という群れの原点」となったと言えます。まことの「一致」の姿がここにあるのです。
それでは、何ゆえ弟子たちは、この原点、一致点に立つことができたのでしょうか。
使徒言行録1章12節から14節を見ると、「ひたすら祈りをしていた。」様子が伝えられています。熱心に祈っていたからご褒美のように聖霊降臨・ペンテコステの出来事にあずかれたのでしょうか。確かに「祈り」は大切です。しかし「祈り」とは、何か成果を期待しての取り組みではありません。祈りの言葉は、主ご自身がくださるものです。
1章3節から8節を見ると、「聖霊によって洗礼を受ける」「聖霊が降ると…私の証人となる」とおっしゃった、復活の主イエスの「約束の言葉」があります。確かにこの「約束の言葉」は、とても重要です。それでは、その「約束の言葉」を直接語りかけられるに至らなかった弟子たちや、後の時代の人々、ひいては私たちにとって、別世界の無関係なことなのでしょうか。そうではありません。
私たちが注目すべきは、この聖霊降臨・ペンテコステの出来事に至るまでの聖書が伝える二つの大きな出来事です。その二つの大きな出来事ゆえに、私たちは、ペンテコステの出来事が「私にとってかけがえのない信仰の原点です」と告白することができるのです。
それは、主イエスとの「二つの別れ」です。ペンテコステの場面の「一致」とは反対のように見える「別れ」こそかけがえのないものです。
第一の「別れ」は、十字架の死という「別れ」です。それは、私たち一人一人が自らの「罪」と別れるためになされました。神の御子であられるゆえに何一つ罪を犯されなかった主イエスが、私たちの「罪」をすべて背負って十字架の上にもって行ってくださいました。私たちは、その十字架を見上げて、そこに自分の罪を見い出す時に、その自らの罪の赦し、罪との決別の事実を知らされることになります。これは、世の中の片隅の一握りの人々のためではありません。すべての人の「罪」を負って主イエスは十字架にかかられました。反対する人、罵る人、無関心な人をも含めて、すべての人のためです。
そして、主イエスは復活なさいました。主イエスは、「初穂」として復活なさったとコリントの信徒への手紙(一) 15:19~2に記されています。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」
私たち自身が、やがて主イエスの再び来られる時に、復活させられるのだという大いなる約束がここにあります。
「十字架の死」という「別れ」は、わたしたちを「罪」と別れさせ、「罪の結果である死の恐怖」とも別れさせてくださるのです。
第二は、昇天という「別れ」。
5月14日は昇天日でした。日曜日でもないし、昇天日特別祈祷会という集いがあったわけでもないので、いつの間にか通り過ぎてしまったかもしれません。しかし、主イエスの十字架・復活を目の当たりにした弟子たちにとっては、とても大きな出来事だったに違いありません。復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちにご自身をあらわされました。弟子たちにとっては、驚きと戸惑いが喜びへと変えられる貴重な40日間だったでしょう。せっかく復活されて弟子たちと一緒にいてくださるというかけがえのない状態があったのに、それが失われる必要があったのでしょうか。復活のお体のままであれば、肉体的な限界があるので、天に昇られ、霊的な、目に見えない存在となってくださった、と考えるのが普通かもしれません。しかし、復活のお体のままで、人々に随時ご自身を顕わしてくださったほうが、世の人々は主イエスの復活をより信じやすかったのではないでしょうか。常に目にかかることができなかったとしても、「どこどこに行けばお目にかかれる」というような場所があれば、その方が私たちの感覚からすれば納得でき、もっと多くの人が確実に信じるようになるのではないでしょうか。
ところが、主イエスは、あえて昇天され、弟子たちと別れられたのです。その昇天によって弟子たちに何がもたらされたのでしょうか。
ルカによる福音書24章50~53節には次のように記されています。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
「昇天」という悲しいはずの「別れ」が、即座に「喜び」と同居しているという不思議なことが伝えられています。
マルコによる福音書16章19~20節には次のように記されています。
「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」
ここでも「昇天」という「別れ」が、絶望をもたらしたのではなく、力強く宣教したことと同居しています。
悲しいはずの「別れ」が、喜びとしっかりと結びついている最大の理由は、マルコによる福音書16章19節の御言葉の中の「神の右の座に着かれた。」という事実にあります。昇天とは、空のかなたに消えてしまったというのではないのです。復活の主イエスは、今も生きておられ、全能の父なる神の最も近いところで、私たちのために祈り続けてくださっているのです。私たちに目を注ぎ続けてくださっているのです。それゆえ、「別れ」が悲しみで終わっていないのです。
マタイによる福音書は「昇天」の場面を伝えていませんが、その最後は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)という御言葉で閉じられています。「十字架」「昇天」という二つの「別れ」は、「いつもあなたがたと共にいる」という喜びの事実に呑み込まれてしまったと言えます。主イエスは、いつも弟子たちに、私たちに、目を注ぎ、祈り続けてくださっているのです。
ヨシュア記の本日の聖書箇所は、ヨシュアがモーセとの「別れ」を経験した、ある意味で悲しみの真ん中で主から与えられた御言葉です。その中心にあるのが、やはり「主があなたと共にいる」という御言葉です。「ヨシュア」という名前の意味は「主は救い」ですが、ギリシア語では「イエズース=イエス」です。モーセとの死、モーセとの別れという悲しみを超えた「救い」は、「イエス」によって成就されるという約束がここにはあります。そしてそれは、「十字架」「昇天」という二つの「別れ」によって成就したのです。
(2026.5.24 聖霊降臨日礼拝・一部変更あり)
