2023年2月9日 礼拝説教「続・聖書の中の宝」

牧師 田村 博

聖書 旧約聖書 創世記28:10~22

          新約聖書  マタイによる福音書13:44~50

説教 「続・聖書の中の宝 ②『天の国』」

 ○ ヤコブの夢の経験が意味すること

    ・人生の危機・逃避行の途上

    ・祝福の約束が与える勇気と希望

 ○ 13章1~52節に秘められている「天の国」の真理

    ・「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている。」(13:11)

    ・「種蒔き」のたとえに込められている「今」(ルカ17:21)

 ○ 3つのたとえの本当のメッセージ

    ・一人ひとりに用意されている「畑」

    ・「商人=主なる神」の御業

    ・「毒麦」のたとえとつながる“終わりの時”“完成の時”

この1月から月1回を原則として(4月はお休み)「続・聖書の中の宝」シリーズが始まりました。1月の「光」に続き、この2月は「天の国」です(3月は「塩」を予定)。

 「天の国」と聞いて、どのようなイメージを思い描くでしょうか。地上での生涯を終えた人たちが行く、やすらぎに満ちた場所…という答えが一番多いかもしれません。広辞苑には「天の国」という言葉はないのですが、ほぼ同じ意味ということで「天国」と調べてみると、次のように記されています。

「神・天使などがいて清浄なものとされる天上の理想の世界。キリスト教では信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所をいう。天堂。神の国。転じて、苦難のない楽園。」

 それでは聖書は、「天の国」という御言葉を通して、わたしたちにどのようなメッセージを届けようとしているのでしょうか。まず、旧約聖書・創世記28章10節以下を開いてみましょう。ここには、ヤコブという一人の男性が登場します。

「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。」(10節)

 ベエル・シェバは、パレスチナ地方の町です。ハランはユーフラテス川沿いの古い町です。ハランは、現在のトルコ南部・シリアとの国境近くの、まさにこの度の大地震の震源地からすぐ近くの町です。

 ハランに向かったとさらりと書かれていますが、直線距離にして数百キロ離れていました。ハランには、ヤコブの親族がいました。ヤコブは、自分の伴侶を見つけるためにハランに向かっていたのです。とはいえ、ウキウキした感情は皆無だったと推測します。なぜなら、28章に至る創世記を読むと、ヤコブは、策略をめぐらせ兄エサウから家督相続の権利を奪い、それが発覚して兄から憎まれ、命の危険に遭遇していました。命の危険を回避するための、逃避行の途上だったのです。荷物は、ハランに到着するまでの食糧など身の回りの最小限のものだったことでしょう。

 11節にはこうあります。

「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」

 「石を枕に」しなければならない、快適とは程遠い旅だったことがわかります。ところが、そこで彼は夢を見ました。

「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(12節)

 さらに、主なる神様が夢の中で語りかけられたのです。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(13~15節)

 絶体絶命、四方八方塞がれているような状況の中で、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて…」いる夢でした。そして、天からの祝福の言葉がかけられたのです。

 16節以下に、ヤコブの言葉があります。

「…これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 そして、その場所を「ベテル」=「神の家」の意味と名付けたのでした。

 厳しい状況、不安と絶望しか生じないような「時」、そこは、天とのつながり、自分に目を注いでくださっている主なる神様とのつながりを体験するべき「特別な時」に変えられうるということを、このヤコブの夢はあらわしています。

 わたしたちにとっても、これは真実です。

 今、困難の只中に置かれている方がいらっしゃるかもしれません。そこは、天とのつながりを体験すべき時なのです。

 それでは、過去においては厳しい状況を経験したことはあったけれど、今は大丈夫…という人にとって、この夢はどのような意味を持っているのでしょうか。人生の厳しい状況は、しばしば、わたしたちの心に傷を残します。しかも自分でも気づいていないことが多いのです。そして、自分でコントロールできない行動をわたしたちにもたらします。そのまま放置しておくと、他人を傷つけ、そして自分をも傷つけてしまうということが生じてしまいます。しかし、わたしたちには「祈る」という恵みを与えられています。主なる神様が、わたしたちに勇気を与えてくださり、過去の「厳しい状況」に立ち返り、その場面を直視させてくれます。そして「祈り」の中で、新しい発見をすることができます。自分は一人ぼっちだと思っていた。しかし、その時、友人や、知人や、見ず知らずの通りがかりの人が、自分に声をかけてくれ、立ち上がるのをじっと見守ってくれていたということに気づかされます。そのとき、その「困難」「厳しい状況」が、まったく新しい意味をもってくるのです。ヤコブが、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と恐れおののいて告白したように、わたしたちも告白するのです。実は、天とのつながり、自分に目を注いでくださっている主なる神様とのつながりが、その「厳しい状況」の中にこそあったのだと、ヤコブのごとくに、叫ぶのです。

 過去においても、現在も、そのような「厳しい状況」を経験したことがない、という人にとって、この夢はどのような意味があるのでしょうか。厳しい状況にある、わたしたちの隣人、知人、友人、家族を励ます力を、この夢は与えてくれます。自分の中に、そのような力を見い出そうとするとき、わたしたちは、しばしば失望します。ああ、なんて自分には愛がないのだろうか! と。しかし、そこで終わりではないことをこのヤコブの夢は教えてくれます。将来経験するかもしれない「困難」への備えを与えてくれるのです。 

 主なる神様は、ヤコブにおっしゃいました。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(15節)

 この御言葉は、ヤコブに力を与えました。「約束」でしかなかったにもかかわらず、立ち上がる力を与えたのです。それと同じように、わたしたちに力を与えてくれます。そして、わたしたちが手を伸ばそうとしている人にも力を与えてくれるのです。

 それが、このヤコブの夢です。天の国と自分とが決して無関係ではないことを示した、ヤコブに与えられ夢です。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている」(12節)という幻は、わたしたちにも希望を与えるのです。

 それでは、「天の国」について、新約聖書において、主イエスを通してどのように語られているのでしょうか。

 与えらえた聖書箇所は13章44節から50節の短い箇所で、「天の国は次のようにたとえられる。」と同じ御言葉が3回繰り返されています。しかし、「天の国」については、13章の最初から読んでゆくと、今日の箇所だけに限られているのではないということがわかります。13章1節以下には有名な「種を蒔く人のたとえ」が記されています。その10節以下は、主イエスがそのたとえ話について説明された箇所です。その11節には次のように記されています。

「イエスはお答えになった。『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。』」

 ここにすでに「天の国」という言葉が出ています。つまり、「種を蒔く人のたとえ」は、「天の国」にかかわるたとえ話なのです。その後も「天の国」についての話しが続いているのです。しかも「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」とあるように、わたしたちに秘密事項として隠されているのではないのです。主イエスの言葉を生きた言葉として受けとろうとしているわたしたち一人ひとりには、覆いをかけられたままではないのです。その秘密を悟ることが許されているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。24節からは「毒麦のたとえ」が記されています。そこにも「天の国は次のようにたとえられる。」(24節)とあります。31節には「天の国はからし種に似ている。」、33節にも「天の国はパン種に似ている。」と続いています。そして36節以下には、「毒麦のたとえ」の説明がなされ、本日の聖書箇所へと続いているのです。 

 主イエスが神の御言葉をお語りくださっています。一人ひとりの心に種を蒔くように。からし種のように小さなもののように思えるかもしれません。パン種のように目にみえないほどのものかもしれません。しかし、一人ひとりの心の内にあって、それは確実に大きな意味のあるものとしてとどまり、現実にわたしたち一人ひとりに深く作用してくるのです。主イエスのお姿、お声に直接接することはできませんが、聖書を開いて読み、聖霊なるお方がそれを生きた言葉としてわたしたちの心に携え入れてくださるときに、わたしたちにとって死んだ過去の言葉ではなく生きている言葉として、主イエスが目の前で語ってくださっている言葉として御言葉の種を受けとることができるのです。この関係こそ、「天の国」に目を向けようとするわたしたちにとってかけがえのないものであることを示しています。

 ルカによる福音書17章20~21節には、次のような御言葉があります。

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 わたしたちが召されたその後にあるとか、あるいは、空を見上げてはるか向こうにあるとか、言えるものではないのです。「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」すなわち、主イエスがわたしたちに親しく語ってくださり、それを受けとるということが現実におきているそのところにあるのだというのです(ルカ17:21は2~3月の茅ヶ崎教会月聖句でもある)。

 「天の国」は、漠然とした、理想的なところ(領域)ではなく、現実にわたしたちの間に、今、あるものとして聖書は語っています。そのような中で、44節から50節の与えられている御言葉があり、3つのメッセージがあります。

  • 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

  このたとえ話は、金鉱が埋蔵している土地を発見した者に対して、独り占めすることを勧めているのではありません。「天の国」は、一人ひとりに用意されている「畑」にたとえられています。その「畑」は高価すぎて手の届かないようなものではないのです。すでに、それを手に入れるために必要なものは「持ち物」として与えてくださっているのです。時に自分の価値基準でいろいろなものを手に入れ、「持ち物」として携えているわたしたちです。しかし、そのどれよりも価値のあるものを、神様は、わたしたち一人ひとりに用意してくださっているのです。後から気づいて間に合わないというようなこともないのです。「持ち物をすっかり売り払」うならば、わたしたちは十分その恵みにあずかることができるというのです。「天の国」は、そのようなものなのだというのです。

  • 「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 第一のたとえ話と似ているので混乱しやすいのですが、代々の教会は、そこにある大きな違いに注目してきました。畑のたとえ話では、「すっかり売り払い、…買う」というところに用いられている動詞は現在形です。しかし、この真珠のたとえ話では、新共同訳ではまったく同じように訳されていますが、完了形の動詞が用いられているのです。つまり、真珠のたとえ話の「商人」は神様ご自身を指しており、神様は、わたしたち一人ひとりを貴い高価な真珠を探すように目を向けて下さっているというのです。そして、ご自身のものとして得ようとしてくださっているのです。一人ひとりの命、貴い価値ある命のために「持ち物をすっかり売り払い」とあります。神様は、独り子主イエスの命を犠牲にしてくださって(まさに「すっかり売り払い」)、わたしたち一人ひとりをご自身のものとするためにその御業を成し遂げてくださっているのです。

 〈参考〉フランシスコ会訳

  ①「天の国は畑に隠されている宝に似ている。それを見つけた人はそのまま隠しておき、喜びのあまり、持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う。」現在形

  ②「また、天の国はよい真珠を捜し求める商人に似ている。かれは高価な真珠を一つ見いだすと、持ち物をことごとく売りに行き、そしてそれを買った。」完了形

  • 「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 三番目のこのたとえ話は、「毒麦」のたとえ(13:24~33、36~43)とつながっています。神様は御言葉を「種」を蒔くようにしてかけ続けてくださっています。関係を持ち続けてくださっています。その現実が今展開され、「神の国はあなたがたの間にある」と言ってくださっているにもかかわらず、その前を素通りしてゆくならば、その結果はどんなに残念なことになるでしょうか。「世の終わり」=「世の完成」の時があります。その時の様子が、このたとえ話にあらわされています。わたしたちが、今、御言葉にあずかっているのは、この「世の終わり」=「世の完成」に向かう時の中であずかっているのです。神様は、わたしたちの命を貴い高価な真珠にたとえ、「天の国」の中に、見い出し、ご自身のものとしてくださろうとしています。やがて迎えようとしている“終わりの時”“完成の時”には、「天の国」のすばらしさに、よりはっきりとあずかることができるのです。

 本日の旧約聖書箇所に出てくるヤコブを思い返してみてください。彼に与えられたのは「約束」でした。その約束がヤコブを力づけ、勇気を与え、必ずここに帰ってくることができるという確信を与えました。ヤコブがその約束を信じたからです。わたしたちにも「天の国」の約束が与えられています。自分に与えられた約束としてわたしたちが信じるとき、ヤコブと同じように歩むことができるのです。そのために必要なことは、本日の2番目のたとえ話にあったように、主イエスによって完了されているのです。そのことを受けとめてゆくとき、あらゆる不安は取り去られてゆくのです。

        降誕節第8主日礼拝2023.2.12

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