2022年5月22日 礼拝説教「証を書くということ」

牧師 田村 博

2022.5.22

 説教 「証を書くということ」    

 聖書 ハバクク書2:2~3  ヨハネによる福音書21:20~25

 

 本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の一番最後の部分です。福音書著者ヨハネにとって、最も伝えたいことが凝縮されていると言ってもいいでしょう。それゆえ、この地上でさまざまな困難に直面し、さまざまな課題と取り組もうとしているわたしたちにとって、いくつもの大切なことを気づかせてくれる箇所です。それは、

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」(21:20)

というひと言で始まっています。

 その直前には、主イエスの弟子ペトロが、主イエスによって「わたしに従いなさい」(21:19)と招かれた出来事が記されていました。この「わたしに従いなさい」は、「わたしについて来なさい」とも訳されるところでした。主イエスは、わたしたちの歩みの先に歩んでくださり、わたしたちはその主イエスを見つめながら歩くのです。その恵みへの招きが、この「わたしに従いなさい」という御言葉に込められています。

 先ほど賛美した讃美歌21-528番の2節の歌詞には、

「どんな時にも 道を備え、

 あなたのわざを 神は祝す。

 いつもあなたの 先に進み

 光を照らし 導かれる。」

とありました。これはまさに、「わたしに従いなさい」という主イエスの御言葉とピッタリと重なるところです。そのようにして招かれたペトロでした。「わたしを愛するか」と三度尋ねられ、三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたペトロです。この体験を通して、彼は、主イエスを三度も「知らない」と言ってしまった自分と向かい合いました。大きな赦しをもって包み込んでくださる主イエスの御言葉によって癒されたペトロでした。自分の力で従うのではなく、自分に絶えず力を与え続けてくださるお方によって生きることの幸いをしみじみと感じていたであろうペトロでした。

 しかし、20節には、そのペトロが「振り向いた」ことが記されています。主イエスの深い愛によって、整えられたペトロであるにもかかわらず、彼は「振り向いた」のです。彼の後ろには一人の弟子がいました。その弟子は「イエスの愛しておられた弟子」と記されています。その弟子のことが気になり始め、「あの人はどうなのでしょうか?」と主イエスに尋ねたのでした。他人のことが気になってしまう…それは決してペトロに限ったのことではありません。わたしたち一人ひとりについても同様のことが言えることでしょう。日本人の国民性として、まじめであるということと同時に同調圧力に従いやすい、とよく言われます。言葉で説得されたり圧力をかけられたりしてるわけではないのに、時には無自覚のうちに、周囲を配慮して、ある種の行動をとってしまう傾向が強いというのです。それゆえ、他人のことが気になってしまうというこのペトロの行動は、わたしたち一人ひとりに無関係ではありません。その現実を、ヨハネによる福音書の最後の箇所は取り上げ、あのペトロでさえも後ろを「振り向い」たのだと伝えているのです。

 その「イエスの愛しておられた弟子」とは、ヨハネによる福音書を記したヨハネ自身のことであろうと言われています。ほぼ間違いないことでしょう。

 彼は、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」と表現して聖書に登場させています。自分は、他の弟子より秀でているとか、他の弟子が分からないことを知っているというのではなく、主イエスに愛されている一人であって、主イエスに愛されているからこそこのように行動できるのだ、このように祈ることができるのだ、とヨハネは受けとめていたのです。それゆえに「イエスの愛しておられた弟子」と自己紹介しているのです。ヨハネによる福音書には、ここ以外に4回、この「イエスの愛しておられた弟子」に類似した表現が用いられています。

①13章23~25節…最後の食事の場面

「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか」と言うと、…』」

②19章25~27節…十字架の場面

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」

③20章1~2節…復活の日の朝

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」

④21章6~7節…3度目に弟子たちにあらわれた場面

「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」

 

 本日の聖書箇所で「イエスの愛しておられた弟子」(21:20)と記した際に、著者ヨハネは、最後の食事の場面(①)を想起しつつ記しています。ヨハネによる福音書には、共観福音書と異なり、最後の食事の場面で、主イエスが弟子たちにパンと杯を手渡す様子についての言及がありません。しかし、著者ヨハネは、最後の食事を軽んじているのではないのです。最後の結びの場面で、あの最後の食事の場面を、もう一度読む人々の心によみがえらせたのです。

 ヨハネは、ペトロのすぐ後、近くを歩いていました。

 ペトロが、主イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と尋ねた時、主イエスは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(21:22)とお答えになりました。この主イエスの御言葉は、ペトロに対してであると同時に、ヨハネに対しても大きな意味のある御言葉でした。それまではしばしば、ペトロの後についてゆくような生き方をしてきたヨハネでした。しかし、ペトロはペトロ、ヨハネはヨハネ。まったく別の道を歩むことになるという、新しいチャレンジでした。ペトロについてゆく人生ではなく、主イエスご自身についてゆく人生が、ここから始まったのです。

 

 しかし、ここに一つ問題が起こりました。

 23節をご覧ください。

 「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである。」

 22節の主イエスのお答えを聞いていた他の弟子たちは、主イエスの御言葉を「ヨハネは死なない」という意味に受けとめたというのです。聖書に記された言葉というかたちで、わたしたちは冷静に読んでいますので、そのような誤解はどうしてうまれたのだろうか、と思うかもしれません。しかし、耳で聴くというとき、自分の思いが微妙に関係してゆくものです。「伝言ゲーム」などで、まったく違う言葉になってしまうということが起こりえます。個人的な期待などが絡んでくるとなおさらです。

 ヨハネは、主イエスの御言葉を丁寧に繰り返して記しています。主イエスの弟子でさえ、このように、自分の感情に左右されて、大きく意味を取り違えるというようなことが起こるのだと、ありのままを正直に記しているのです。それゆえに自分は、この福音書を書き記すように導かれているのだというのです。

 本日の旧約聖書箇所であるハバクク書2章には、次のように記されていました。

 「主はわたしに答えて、言われた。

  『幻を書き記せ。

走りながらでも読めるように

板の上にはっきりと記せ。

定められた時のために

もうひとつの幻があるからだ。

それは終わりの時に向かって急ぐ。

人を欺くことはない。

たとえ、遅くなっても、待っておれ。

それは必ず来る、遅れることはない。」

 この箇所に続く4節には、ロマ書などに引用されている「神に従う人(義人)は信仰によって生きる。」という有名な御言葉があります。その直前に記されているのが本日の御言葉です。

「走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。」とは、誰が見ても間違えないように、神の言葉を正しく伝えるようにとの勧めです。「定められた時」すなわち「終わりの時」「世の完成の時」があるのです。明日は、今日と同じように無条件でやってくるのではないかと誤解してしまうわたしたちです。もちろん必要以上に心配することはよくないことです。しかし、「時」は、わたしたちが望むと望まざるとにかかわらず、「完成の時」に向かっているのです。それは、「幻」=主なる神の大切なみ旨がはっきりと示される、特別な「時」に他なりません。

 ヨハネは、主なる神に書き記すように導かれました。

 24節には、「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」とあります。突然、複数形にて書かれています。さまざまな解釈が加えられるところです。しかし、ここにはヨハネが自分を特別な存在として強調するのではなく、御言葉を聴く一人にすぎないのだという姿勢があらわれているのではないでしょうか。

 25節には次のように記されています。

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 主イエスとの出会いの中にある出来事の大きさゆえに「収めきれない」と言えるでしょう。と同時に、復活の主イエスが生きておられ、天に帰られてからも聖霊なるお方をお送りくださり、新たな出会いが与えられ続けいるゆえに「収めきれない」ほどの証が生まれ続けているのだということができます。

 聖霊によって導かれた教会会議によって「正典としての聖書」が定められました。聖書に付け加えることは何一つありません。しかし、神の御業は続いています。わたしたち一人ひとりも、神の御業を証ししてゆくように導かれています。

「幻を書き記せ。

 走りながらでも読めるように

 板の上にはっきりと記せ。

 定められた時のために。」

の御言葉は、わたしたちに、今、かけられているのです。

コリントの信徒への手紙二 3章3節には、

「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」

とあります。

 主なる神ご自身が、わたしたちの生涯を用いて、神の御業の「証」を書き続けてくださっているのです。わたしたちも勇気をもって証しを書いてみましょう。

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