2020年12月20日 礼拝説教「神は我々と共におられる」

 イザヤ書7:10~147
マタイによる福音書1:18~25

田村博

クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのロウソクも4本灯りました。

本日はマタイによる福音書1章18節以下の御言葉にご一緒に耳を傾けております。その直前の1章17節までの御言葉は、アドベント第1主日・11月29日に開いた箇所でした。アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてから十四代という長い歴史を背負って、待ち望まれたメシア・救い主の到来、それがイエスさまのお誕生につながっています。18節以下の本日の箇所は、短い言葉ではありますが、メシア・救い主の到来のもっとも大切なエッセンスが凝縮されていると言っても差し支えないでしょう。

18節

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

それは、母マリアの懐妊の宣言から始まります。新しい命を授かることは、その家族にとっても喜ばしいことのはずです。しかし、19節をご覧ください。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」 ここに記されているのは、夫ヨセフの苦悩です。母マリアはヨセフと婚約していたものの、まだ一緒にはなっていなかったのです。先週のルカによる福音書1章26節以下の箇所にありましたように、マリア自身も、聖霊によって身ごもるということは、「はいそうですか」と軽々に受け入れることのできることではありませんでした。天使のみ告げを受け、聖霊に助けられて、また親族エリサベトの祈りの中にあって、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と、とまどいながらもその事実を受け入れたマリアでした。

ルカ福音書は、マリアは、天使のみ告げを受けてからすぐエリサベトのもとに行き、3か月間滞在したことを伝えています。3ヵ月を過ぎるころ、普通、悪阻(つわり)などがあらわれます。マリアは、自分の体の変化を確認することになったでしょう。そのあとのマリアの行動については、聖書には記されていませんが、聖霊によって身ごもったという事実を、婚約者ヨセフのところに出向いて伝えたに違いありません。伝えられたヨセフの行動が「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」だったのです。マリアは、心を込めて、丁寧に、自分の身におきたことをヨセフに説明したに違いありません。天使の言葉。エリサベトの証言。しかし、ヨセフには納得できなかったのです。婚約までしていて互いに信頼していたことでしょう。にもかかわらず、人間同士の言葉による説明の限界がここにあります。

塚本訳聖書は「夫ヨセフはあわれみぶかい人だったので、マリアをさらし者にすることを好まず」と訳しています。新改訳聖書も「さらし者にしたくなかったので」と訳しています。ヨセフには、「自分という婚約者がいながら…」と世間に糾弾する権利があったのです。しかし、「ひそかに縁を切る」ことによって、つまり自分が身を引き、婚約関係をなかったことにすることが、マリアにとっても、マリアのお腹の中の子にとってもよいことだと、苦悩したあげく決心したのです。

ヨセフの苦しみは、ヨセフ自身の不手際や過ちによってもたらされたものではありませんでした。降って湧いたようなものでした。

なぜ、神さまは、そのようなヨセフの苦しみを許されたのでしょうか。マリアにあらわれた天使が、時間を空けずにヨセフにもあらわれて、すみやかに信じることができるようにできなかったのだろうか? と考えてしまいます。

わたしたちも、しばしば「なぜ?」と問いかけたくなるような経験をすることがあります。

新型コロナウイルス流行によって、このクリスマス礼拝に来ようと切に願いつつも来ることができなかった人々がいます。医療関係者の中にはまさに苦悩の中にいらっしゃる方々もいます。なぜでしょうか、と叫びそうになるかもしれません。

ヨセフは苦悩の末、「自分が身を引こう」という一つの決心をしました。

しかし、そのヨセフに、主の天使が夢に現れて語りかけたのです。(20節)

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

それは、ヨセフがマリアから聞いていた通りでした。

皆さんも夢を見ることがあると思います。現実とはかけはなれている夢を見ることもあるでしょう。ユングという心理学者の夢についての研究が有名ですが、夢は人間の深層心理と深く関わっていることが広く知られています。確かにそのような一面があるでしょう。しかし、ヨセフが主の天使が語ったことを信じることができたのは、単に彼自身の深層心理を夢によって悟ったというわけではないでしょう。夢占いに従うように盲目的に夢を受けとめていたからでもありません。聖霊が、すなわち神の霊が、夢を用いて、天使の言葉を通して、ヨセフに語りかけてくださったのです。それゆえ、理屈抜きで、ヨセフは確信できたのです。さらに天使は言いました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(21節)

「その子をイエスと名付けなさい。」は、マリアにも語られた言葉でした。(ルカ1:31) 「イエス」は、ヘブライ語では「イェシュア(新共同訳では“ヨシュア”)」です。その意味は、「神は救いである」「神はお救いになる」です。イエスさまは、「自分の民」すなわち神さまが御自身と引き合わせてくださるすべての民(わたしたちを含んでいます!)を、「罪」から救い出してくださるお方です。

ヨセフは、聖霊の働きゆえに、いくら考えても考えても信じることができなかったマリアの話を信じることができました。

わたしたちも、いくら考えても、理屈ではわからないことがあります。理不尽としかいいようもない出来事とぶつかります。苦悩しかもたらさないように感じる出来事と向かい合って前に進めなくなります。そのようなときに、その先へと進ませてくれるのが「聖霊(神の霊)」なのです。

マリアの夫ヨセフは「夢」で天使によって語られました。それでは、神様はわたしたちにどのような方法で語られるのでしょうか。その答えは22、23節にあります。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

これは、ヨセフが夢の中で語られた言葉ではありません。にもかかわらず、まるで夢の中であるかのようなこの場所にこの二節はあります。マタイによる福音書を著したマタイが、彼もまた聖霊によって導かれて、この部分に、どうしても必要な言葉として入れた二節なのです。

『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 これは、本日の旧約聖書箇所イザヤ書7章14節の御言葉です。マタイがこの22、23節を入れたのには2つの意味があります。一つは、おとめマリアが身ごもって男の子を産むというこの出来事は、まさにイエスさまによって成就したのだ、そして、イエスさまは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」なるお方なのだと、はっきりと伝えたかったのです。もう一つは、ここに聖書の御言葉があるということそのものに意味があります。すなわちヨセフに対して聖霊は夢を用いて語られたのですが、わたしたちには聖書を用いてお語りくださるのだということです。もちろん夢を用いて語られることもあるでしょう。しかし、なんとすばらしいことでしょう。わたしたちも、もう限界だ、これ以上自らの力ではどうすることもできない、というような経験をする時があります。そのような時、主なる神さまは、聖書を用いてわたしたちに語りかけてくださるのです。

打算的に、聖書に向かい合うべきではありません。ヨセフも「夢」を、見ようとおもって見たのではありませんでした。ヨセフが夢を通して語りかけられたのと同じように、主なる神さまは、わたしたちに聖書を通して語りかけてくださるのです。そのような“宝物”(=聖書)をわたしたちは、与えられているのです。マタイは、そのことを読者に伝えようと“夢”と“聖書の御言葉”を重ねあわせてこのヨセフの夢の場面に納めているのです。

マタイによる福音書2章には「夢」が繰り返し出てきます。2章12節「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」、13節「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」、19節「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』」、22、23節「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、…」

これは偶然ではありません。いずれも“命”にかかわる非常に重要なことと関連しています。“夢”は、本日の聖書箇所の場面だけの一時的なものではありませんでした。同じように、わたしたちにとって“聖書”も常に必要な、神様がそれを通して語りかけようとされている最高の道具、最高のプレゼントなのです。

ヨセフについて、本日、もう一つのことを心に留めたいと思います。

25節の最後には「イエスと名付けた」とあります。「名付ける」の原語をみると、第一の意味は「呼ぶ」「呼びかける」です。主なる神は、わたしたちを「イエスさま」と“呼ぶ”幸いへと導いておられます。「罪」という暗闇の中に迷い込んで、どちらに向かって助けを求めてよいかわからないわたしたちに、神さまは、わたしたちが呼びかけるべき方向を示してくださいました。わたしたちの目の前にイエスさまをお送りくださったのです。わたしたちが「イエスさま」と呼びかけるときに、イエスさまはこうお語りくださいます。「わたしは命がけであなたを愛しているのだよ」

その言葉を受けとる者との間に築いてくださる新しい交わりがあります。それが“インマヌエル=神は我々と共におられる”という驚くべき交わりです。

クリスマスから、教会の暦・教会暦では、「降誕節」が始まります。神さまが授けてくださった御一人子イエスさまが、どのようにして“インマヌエル=神は我々と共におられる”を成就してくださったのかをしっかりと心に刻むべき時の始まりです。降誕節は受難節へとつながり、イースターへとつながっています。「イエス」「インマヌエル」この二つの名を呼び続けたいと思います。

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