2012年2月5日 礼拝説教「お一人おひとりによろしく」

イザヤ書49:16
ローマの信徒への手紙16:6~16

櫻井重宣

 インドのカルカッタで、長年にわたって、路上で誰からも看取られることなく、死んでいかざるをえない人々を「死を待つ人の家」に連れてきて、最後の看取りを続けたマザー・テレサさんは、「死を待つ人の家」にそうした人が連れてこられたとき、二つのことを尋ねたと言われます。一つは名前です。名前を訊き、その人を○○さんと名前で呼び、「あなたにはもっと生きて欲しい。あなたもこの世に生まれた大切な人だ」と語りかけ、ここにあなたの人生を大切に受けとめ、あなたの死を悲しむ人が少なくとも一人はいることを伝えつつ看護するのです。羊飼いは、羊を百匹飼っていても、名前で呼びます。また、先程お読み頂いたイザヤ書にありますように、神さまの手のひらにはどの人の名前も刻まれています。どの人も、神さまは大切な人なのです。
 もう一つ訊くことはその人の宗教です。ヒンズー教と答えた人には、あなたが万が一のときには、ヒンズー教でお葬式して頂きましょう、仏教と答えた人には仏教のお寺でお葬式をして頂きましょう、キリスト教と答えた人にはキリスト教でして頂きましょう、といいます。
 名前と宗教はその人にとって最も大切なものだというのがマザー・テレサさんの考えでした。本当にそうです。

   ただ今、ローマの信徒への手紙16章6節~16節に耳を傾けました。ここで、パウロはローマの教会のメンバー一人ひとりの名前を列挙し、一人ひとりによろしく、と繰り返しています。ここに列挙されている人がどういう人かほとんど分かりませんが、どの人もローマの教会のメンバーです。しかもこの手紙を書いているとき、パウロは一度もローマの教会に行ったことがありません。けれどもパウロとローマの教会には祈りの交わりがありました。また、一度も会ったことがないパウロ先生にローマの教会のメンバーは手紙を書き、パウロもそうしたお一人おひとりの祈りに感謝し、その人たちのことを祈りのたびに名前を挙げて祈っていたのです。
 この16章には初代教会の祈りの交流を知ることができます。

 そのためなじみの薄い名前の人が多いのですが、パウロがどういう人々と祈りの交流をしていたのかということと共に、ローマの教会がどういう人々によって構成されていたかを見るために、パウロがここで名前を挙げているお一人おひとりがどういう人なのか、少し見て参りたいと思います。
 今日の箇所に最初に名前がでるのはマリアです。6節に「あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく」、とあります。イエスさまのお母さんの名前もマリアで、福音書にはイエスさまに七つの病気を癒して頂いたマグダラのマリアのことも記されています。マリアという名前は当時の女性のありふれた名前でした。パウロはローマ教会のマリアに、わたしはマリアさんが教会のために労苦を惜しまない人であることを聞いています、よろしく、というのです。
 「よろしく」と訳されている語は「アスパゾマイ」という語です。スバゾマイが抱擁するで、アは強くという意です。この語は会う時、別れの時の挨拶、そして手紙で安否を問うときに用いますが、パウロの思いが込められたいいまわしです。
 次に名前を挙げているのは、アンドロニコとユニアスです。7節を見ますと、この二人はパウロの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことがある人です。しかもこの二人は使徒たちの中で目立っている、使徒たちのあいだで評判がよく、パウロより先にキリストを信じた人々です。さらにイエスさまを宣べ伝えたゆえにパウロと一緒に獄につながれた二人が、その後ローマの教会のメンバーとなったものと思われます。この二人にパウロはよろしくというのです。
 次にパウロが名前を挙げるのは、アンプリアトです。「主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく」と8節にあります。パウロの伝道のため日夜祈り、パウロもアンプリアトの祈りに力づけられて伝道する、そういう祈りの友です。
 次はウルバノです。「わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノによろしく」とあります。15章の最後のところで、パウロはローマの教会の皆さんに祈りにおいて共に戦ってほしいと願っていますが、まさに、ウルバノは、祈りにおいて労苦を共にする人であったのでしょう。ウルバノはラテン語系の名前です。ローマの人です。
 次はスタキスです。「わたしの愛するスタキスによろしく」と記されています。
 ギリシャ語系の名前です。すべての道はローマに通じると言われていた時代です。コリントやアテネからの人でしょうか。
 次はアペレです。「真のキリスト信者アペレによろしく」とあります。このアペレもギリシャ名です。「真の」と訳されている原語はドキメ―です。5章で、パウロはイエスさまにお会いした後、患難を前向きに受けとめるようになった、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、希望は失望に終ることがない、と語りました。忍耐はその苦しみのもとに留まるという意です。そして、練達がドキメーです。不純のものが取り除かれることです。塚本虎二先生は「キリストにあって試練を経た者」、柳生先生は「筋金入りのキリスト者」と訳しています。アペレさんは多くの試練を経て、筋金入りのキリスト者となり、よき働きをしていることがパウロの耳にも届いたのでしょう。
 つぎに「アリストブロ家の人々によろしく」です。アリストブロスの家の人々、さらにアリストブロから遣わされた教会のメンバーによろしく、というのです。
 次にヘロディオンです。11節に「わたしの同胞へロディオンによろしく」とあります。断定できませんが、ヘロデ王家に関係があるかもしれません。もしそうだとしますと、ユダヤで暴君と言われたヘロデ大王の一族がローマの教会に連なっていたことになります。
 つぎに「ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく」とあります。家族全部がキリスト者ではないのですが、家族の何人かが教会のメンバーであったのでしょう。ですからナルキソ家の中でイエスさまを信じている人々によろしく、というのです。
 次は、トリファイナとトリフォサです。二人とも女性です。姉妹でしょうか。
 ここには「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく」と記されています。この二人も教会のため、イエスさまのため労苦を惜しまない人で、パウロの心に深くその働きが刻まれていたものと思われます。
 次にペルシスです。「主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく」とあります。ペルシスは女性です。教会のため人知れず労苦した人としてパウロはその働きを感謝していたのです。
 9節のウルバノから12節のペルシスまでの何人かは奴隷と思われます。ローマの教会には、男性も女性も、ユダヤ人だけでなくローマの人もギリシャの人もいました。また、奴隷もいました。パウロが書いた「フィレモンへの手紙」は、フィレモンという奴隷を持っている人に、フィレモンの家から逃げ出した奴隷のオネシモのことでパウロが書いた手紙ですが、初代の教会には奴隷も奴隷の所有者もメンバーとなっていて、日曜日には一緒に主にある兄弟姉妹として礼拝を共にしていたことを知ることができます。  

 次は、ルフォスとその母親です。13節です。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」
 ルフォスという名前で思い起こすのは、マルコ福音書の記事です。イエスさまが十字架刑を宣告され、十字架を担いでゴルゴタの丘に行く時のことですが,こう記されています。
「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
 イエスさまの十字架を担がせられたのはキレネ人シモンであったことはよく知られていますが、四つの福音書の中で最初に記されたマルコ福音書には、シモンはアレクサンドロとルフォスの父だ、と記されています。アレクサンドロとルフォスの名前が当時の教会に知られていたのでしょう。イエスさまの十字架を無理やり担がせられたのは、アレクサンドロとルフォスのお父さんだというのです。そうしますと、ここでパウロが記しているローマ教会のメンバーの一員のルフォスは十字架を担いだシモンの息子かもしれません。もし、そうであるとすると、ローマの兵士によって無理やり十字架を担がされたシモンは、自分が担がされた十字架は本来自分たちが架けられるべき十字架であった、それなのにイエスさまがわたしたちに代わって架けられたことを知り、大きな衝撃を覚え、自分も妻も息子たちもイエスさまを信じ、教会に加わったのではないでしょうか。パウロがこの手紙を書いているとき、シモンは既に召されていたのでしょうか、息子のルフォスとシモンの妻が教会のためよき働きをなし、とくにルフォスの母はパウロを親身になって励ましたものと思われます。そこで、パウロはルフォスの母は、わたしにとっても母だ、というのです。
 最後に14節と15節に何人かの人々が列挙されています。「アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、バトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。」と記されています。ここに記される人は、どういう人か分かりません。ただ、フィロロゴとユリアは夫婦と思われます。

   このように今、6節から16節にパウロよろしくと言って名前を列挙している人々について思いを巡らしたわけですが、二千年前のローマの教会のことでパウロがガラテヤやコリントの教会に宛てて書き記した言葉を思い起こします。
一つは、ガラテヤの教会に宛てた手紙の一節です。
「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
 もう一つはコリントの教会に宛てた手紙の一節です。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
 イエスさまが重荷を抱えた人、病気や苦しみを抱えた人を招かれたように、初代の教会にはいろいろな苦しみを抱えた人々が招かれていました。その一人ひとりとパウロは祈りの交わりを持ち、よろしく、よろしくと手紙に書き記すのです。私たちはあらためて初代の教会に学ばなければならないことを思わされます。
 パウロが今日の箇所の最後、16節で語ることはこうです。
「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべて教会があなたがたによろしくと言っています。」    
 教会員同士、教会同士に深い信頼、祈りの交わりがあったことをあらためて思わされます。

 私たち一人ひとりも小さな存在ですが、神さまの手のひらにはわたしたち一人ひとりの名前が刻まれ、教会の真の牧者であるイエスさまがいつもわたしたちの名前をあげて祈り続けて下さっています。そのことを感謝し、わたしたちももっと名前をあげて祈りたいと願うものです。 

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