2011年8月7日 礼拝説教「わたしどもは罪を犯しました」

アモス書2:6~16
マタイによる福音書5:13~15

櫻井重宣

 本日は平和聖日です。全国の教会の皆さんと「地に平和を」と祈りつつ、礼拝を捧げたいと願っています。
 さて、8月の礼拝では、毎年、平和への思いを深めるために、聖書の中の一つの書を取り上げ、その書に耳を傾けています。今年は旧約の預言者アモスの言葉に耳を傾けます。
 先程は2章6節以下をお読み頂きましたが、アモス書の冒頭、1章1節にこう記されています。
 「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」
 アモスはテコアの人です。テコアはエルサレムの南30キロ位のところにあります。そのテコアでアモスは羊を飼う仕事をしていました。もう少し読み進みますと、アモスは、自分のことを「わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と言っています。羊を飼い、いちじく桑を栽培していたアモスが預言者として立てられたのです。いつごろかと言いますと、「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代」です。このころイスラエルは南と北に分かれていたので、こういう書き方になっています。イエスさまのお生まれになる750年位前です。何よりもこの1章1節で心に留めたいことは、「あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである」と記されていることです。私たちは3月11日東日本大地震を経験しました。いままでの常識や考え方が根こそぎ覆された大きな出来事でした。アモスの時代も大きな地震に直面したものと思われます。地震のあと、アモスの弟子でしょうか、二年前には多くの人があまり関心を示さなかった、けれども二年前にアモスがこういうことを語っていた、あらためて耳を傾けよう、そういう思いでこの書が記されているのです。
 わたしたちも、大地震がおこってから、大津波が起こってから、原発事故が起こってから、もっとこういうことを考えておくべきだった、ということが多々あります。これまでに聞くべきことに耳を傾けていたのか、語るべきことを語っていたのか、と問われています。

 さて、このあと1章3節から2章にかけて、アモスは近隣諸国そして自分の国に対する審判の言葉を述べます。今日のように情報化時代ではないのですが、羊飼いのアモスは近隣諸国の情報を的確に把握しています。
 ダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブそしてユダについて三つの罪、四つのゆえにわたしは決して赦さない、とそれぞれの国が陥っている罪を列挙します。アモスは自分の国のことだけでなく、近隣の国々のためにも祈っていたので、旅人から聞いたことに心を痛め、その国のため祈っていたのです。
 アモスがとくに思いを深めていたのは、イスラエルのことです。先程も申し上げましたが、アモスの時代、北のイスラエルと南のユダ、南北に分かれていました。アモスはテコアの人ですので、南王国のユダです。そのテコアが一番関心を示したのは、北イスラエルです。
  2章6節にこう記されています。「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で 貧しい者を靴一足の値段で売ったからだ」。
  「正しい者を金で売った」というのは、賄賂をもらった裁判官が、正しい者を正しいとせず、その正しい人が売られてしまったことをさします。「靴一足」というのは、価値が少しもない、という意味です。わらじと言ってもいいのかもしれません。貧しい者がわずかなお金で売られている現実です。
  7節は、「彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ 悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い わたしの聖なる名を汚している」です。
  弱い者が人格を無視されるようなかたちで踏みつけられる、悩む者、これは苦しむ者、重荷を負う者という意味ですが、そうした苦しむ者がまっすぐに歩むことが妨げられている、というのです。そして何よりも衝撃的なことは「父も子も同じ女のもとに通っている」ことです。
  一人の人間が尊厳な形で位置づけられていません。この背景には戦争があります。戦争は一人の尊厳を無視します。アモスは、まわりの国々への審判を語る時も同じ視点です。たとえば、1章11節、エドムに対して、「彼らが剣で兄弟を追い 憐みの情を捨て いつまでも怒りを燃やし 長く憤りを抱き続けたから」、あるいはアンモンに対して「ギレアドの妊婦を引き裂いた」とあります。
  戦争により一人の人格の尊厳がないがしろにされる、力関係でものごとが決められる、とりわけ、女性に対しての蔑みはアモスの心痛めることでした。私たちの国でも、赤紙一枚、はがき一枚で戦争に駆り出されました。

   昨日は、広島に原爆が投下されて66年目の記念の日でした。広島や長崎ではだいぶ前から核兵器の廃絶を願って、どこかの国が核実験をすると、座り込みが行われています。広島の座り込みの象徴的な人として森瀧市郎という哲学者、倫理学者がいました。森瀧先生は1994年に92歳で亡くなりました。実は、広島では、自分たちにむごい仕打ちをした原子力が平和のために用いられる、それは素晴らしいことだ、と受けとめ、原発に反対する人は少数でした。
  森瀧市郎先生も最初はそうでした。森瀧先生は、今から36年前、1975年に南太平洋のフィジーで開かれた「非核太平洋会議」に出席し、そのときオーストラリアの先住民の女性の訴えを聞いたとき、原子力の平和利用ということはありえないことを知らされました。その先住民の女性は「ウラン鉱山のある地域は私たちの聖地なのに取り上げられた上、私たち先住民は低賃金でウラン鉱山の放射能汚染のある最も危険な場所で働かされている、平和利用だろうが、ウラン採掘時から普通の人々が被害を受けていることを忘れて欲しくない」と訴えたのです。
  森瀧先生は、その訴えに心を動かされ、核の開発利用は構造的に差別・抑圧の上に成り立っている、核はたとえ平和利用であれ、人類と共存できない、と確信し、その年の原水爆禁止世界大会で、人類は生きなければならない、そのためには、核絶対否定の道しか残されていないと訴えたのです。
  森瀧市郎先生が亡くなったあと、娘さんの森瀧春子さんがその働きを受け継いでおられますが、春子さんは、福島の事故が起こったとき、父の訴えをどこまで分かっていたのだろうか、と自問したとおっしゃっています。
 核実験は自分たちの国より遠い所で行われます。安全とされる原子力発電所は東京ではなく、福島に建設されています。こうした事実に「核」の問題があったことをあらためて思わされます。

 アモスは、こうした一人の人への尊厳を軽んじるという行為が集約された戦争、あるいは戦争のとき、一人の人への尊厳を無くしてしまうことを指摘するのですが、その責任を宗教者に求めます。6節では「祭壇のあるところではどこでも その傍らに質にとった衣を広げ 科料として取り立てたぶどう酒を 神殿の中で飲んでいる」と祭司たちの罪を指摘します。そして11節と12節において「わたしがお前たちの中から預言者を、若者の中からナジル人を起こした。イスラエルの人々よ、そうではないかと 主は言われる。しかし、お前たちはナジル人に酒を飲ませ、預言者に、預言するなと命じた」、と語ります
 預言者に預言者としての働きをさせない、預言者が預言者としての使命を果たさなかったというのです。  

 本日、週報に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が挿まれています。戦争責任告白、戦責告白と言われます。毎年、この平和聖日に週報に挿んで、説教で触れていましたが、今年の2月の教会総会でこの告白を平和聖日礼拝で告白することを決めました。この戦争責任告白は1967年3月26日、当時の教団議長、鈴木正久牧師の名前で発表されました。 

 実は、私たちの国にプロテスタントの伝道が開始されたのは1859年安政6年です。沖縄にはもう少し早く伝道されていました。最初に日本に伝道した宣教師たちは未だキリシタン禁制の時代であったため、教派を持ち込まないようにし、一人でも多くの人に神さまのことを伝えようとしました。最初の教会は、1972年明治5年、横浜に誕生しました。日本基督公会という超教派の教会でした。けれども次第に各教派の伝道が展開され、多くの教派の教会が誕生しました。昭和10年を過ぎる頃から、アメリカとの関係が険悪になり戦争が避けられない状況の中で、30余派の教会が合同し、1941年6月24日、日本基督教団が成立しました。教団の誕生には国家の要請もあったのですが、当時の教会は、伝道開始以来はじめて国家に公認されたと喜びました。1941年12月8日戦争が始まりました。12月14日の秋田の教会の週報には教団からの通達がていねいに記されています。「祈祷のあるところに勝利あり。祖国のため結束して祈祷に努むべし」、と。私たちの茅ケ崎教会の1942年12月6日の週報に、「12月8日午前6時 大詔奉戴日早天祈祷会。記念すべきこの朝、昨年のこの日の感激を新たに大東亜戦争二年目への決意をあらたに致しましょう」と記されていました。
 鈴木正久牧師は、この告白を表明した2年後の1969年7月14日に召されました。亡くなる2週間前の6月30日、日本基督教団に連なる人々に戦責告白の思いを語りました。その最後に「戦争中、年下の弟分のような牧師や信徒が戦死した。戦争が終わったとき、彼らが死んで、自分が取り残されたことがわかったとき、呆然自失のような状態であった。しかし、気を取り直して彼らがやろうと思ってできなかったことをしていかなければ、と戦死した後輩の何人かの牧師の写真を講壇の聖書の脇に置いて説教を続けた」、「戦後20年繰り返すなかで、戦死した後輩たちが公にいえなかったこと、すなわち、日本の国は間違った、教会も間違った、神と隣人に赦しを請う、そしてすべてが新しくなるように、新しい教会となって新しい社会を作るようにということを公に言ったあげく、死んでいく、そのことで自分の使命が果たせたのではないか」、とおっしゃったのです。
 アモスは祭司、預言者がその務めを果たさなかったことが、一人の尊厳が守られなかったと語るわけですが、鈴木正久先生も教会がその使命を果たせなかったことを告白しています。
 鈴木正久先生は、この戦争責任を文章化するとき、戦時中の教団議長であった冨田満牧師を自分の父のように思えた時、「わたしどもは」という文体で書くことができたとおっしゃっています。この告白は戦時中の牧師を、教会を弾劾するためではありません。この告白には戦後に生きる私たち一人ひとりへの招きがあります。私たち一人ひとりも「わたしどもは罪を犯しました」と告白したいと願うものです。

 私の父は、鈴木正久先生と同年代の牧師ですが、この告白が表明されたとき、自分の思いが集約されていると、とても感謝していました。父は自分も含め、戦時中の教会や牧師は国家に妥協し、国家の一員として戦争のため祈った、そのことを正直に告白しなければならない、そのためにこの戦争責任を真摯に告白することで、神さまの御心にかなった教会を目指す歩みを踏みだすことが出来るに違いないと語っていました。

 戦時下の教会の罪を負い続け、戦後22年目のイースターに発表された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」をご一緒に告白しましょう。

目次