2011年2月6日 礼拝説教「実を結ぶものとなるために」

エレミヤ書17:5~8
ローマの信徒への手紙7:1~6

櫻井重宣

  ローマの信徒への手紙を少しずつ学んでいますが、いつも思わされることは、パウロと言う人は、本当に自分を深く見つめている人だということです。もう少していねいに言うなら、イエスさまにお会いすることによって自分自身を深く見つめるようになった人です。けれども、自分の内面を深く見つめるがゆえに、悩みの人でした。心の葛藤を生涯続けた人でした。今日と来週学ぶローマの信徒への手紙7章にはそうしたパウロの葛藤が記されています。
 15節の「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」や24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」というパウロの叫び、うめきに共感を覚えます。
 けれども、パウロは、最後的には、自分に絶望するのではなく、神さまからの肯定、大丈夫という言葉に励まされて歩み続けた人です。
 今朝も、内面的な葛藤を続けるパウロの信仰に思いを深めたいと願っています。

 先程、7章の1節~6節を読んで頂きましたが、もう一度1節~3節をお読みします。
 「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」
 わたしたちは、パウロの論理の進め方にしばしばとまどいを覚えます。ここも、そうです。ユダヤの人々が拠り所としていた律法は、人が生きている間だけ支配するのだ、と言うことを、結婚のことでパウロは説明するのです。
 すなわち、結婚している女の人は、夫が生きている間は律法によって夫に結ばれていて、他の男の人と一緒になれば、姦通の女と言われる。そして石打ちの刑に処せられる。しかし、夫が死ねば、この律法から解放される、自由になるので、他の男の人と一緒になっても姦通の女にはならない、というのです。
 ここで、結婚のことを持ち出すのは、結婚の意義を考えるというより、律法は人を生きている間だけ支配するのだ、ということを語ろうとしたからです。
 1月から入門講座でハイデルベルク信仰問答を学んでいます。今から450年前に作られたものです。この信仰問答の特色の一つは、一年間に52回の日曜日があるわけですが、その52回にわけて、一年かけて信仰の道筋を学べるようにという願いで作られた信仰問答です。この信仰問答の最初の問いは、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」です。そして、その答えは「わたしがわたし自身ものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」です。
 信仰の道筋を学ぼうとするとき、この信仰問答は、生きているときだけでなく、死ぬるときにもあなたのただ一つの慰めは何か、という問いから始めるのです。
 おそらく、この信仰問答を作った人の思いにある一つの聖書の箇所は、今日のこの箇所です。律法はその人の生きている間だけ支配する、律法はいつまでもその人を支配するものではない、しかし、大切なのは、生きている時だけでなく死ぬる時も、わたしのものだとおっしゃってくださるイエスさまがおられる、ということなのです。
 4節でパウロはこう語ります。
 「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対して死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためです。」
 パウロは6章で、「キリスト・イエスに結ばれるためのバプテスマ」ということを語りました。そして、この7章では、キリスト・イエスに結ばれるということは、律法に対して死んで、イエスさまのものとなる、死者の中から復活させられたイエスさまのものとなることだ、というのです。そして、イエスさまのものとなるということは、神に対して実を結ぶようになるためだ、というのです。
 これは、本当に大きな慰めです。イエスさまは、わたしたちを生きている時も、死ぬるときも、あなたはわたしのものだ、と言ってくださり、実を結ぶものとしてくださる、というのです。
 先週、発行された「月報」そして「よきおとずれ」に昨年の11月に行われた西湘南地区の信徒研修会でわたしがお話しさせて頂いたことを掲載しました。テーマは、「葬り」ということでしたが、わたしは、一人の人の生と死をどのようにとらえるか、ということを中心に話しました。
 今のことでいうなら、一人の人の地上の生涯は、死でもって完結するのではなく、終わりのとき、キリスト・イエスの日に完成する、ということが聖書の語ることです。ですから、終わりのときまで、一人の人を、実を結ぶ人として神さまは見ておられるということです。生きているときだけではありません。どんなに若くして、幼くして召された人も今も実を結び続けているのです。

 さらに5節、6節を見てください。パウロはこう記します。
 「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
 パウロが、人生の半ばにイエスさまに出会ったということは本当に大きな意味をもっていたことが、ここでも分かります。イエスさまにお会いして、イエスさまに結ばれ、死に至る実を結ぶ生き方から、神に対して実を結ぶものとなったというのです。もう少していねいにいうとすると、イエスさまという方は私たち一人一人、実を結ばない人として見るのではなく、だれをも実を結ぶものとして見てくださる方だというのです。
 律法というのは、その人が生きている間、拘束します、しかも、それを守らない人は、罪ある者とされます、駄目な人だと言われます、けれども、イエスさまはダメなわたしたちを抱え込むために十字架の死を遂げ、わたしたちに命を与えてくださり、どんなときにも、どんなところでも実を結ぶものとしてくださるというのです。イエスさまによって、律法から解放され、死に至る実ではなく、神に対して実を結ぶものとしてくださったのだというのです。

 「実を結ぶ」ということで、いつ感銘深く思い起こすのは、第二次大戦後、ロシアに捕虜として連れて行かれた一人の牧師が記した文です。ナチスに抵抗して捕らえられ、ベルリンを追放され、国防軍に徴兵され、看護兵となったその牧師は敗戦後、5年間シベリアに抑留されました。抑留されてまもなく、ロシア兵からあなた方はもう故国に帰ることはできない、一生の間、ロシアのために働かされるのだと言われました。祖国に帰る希望を奪われ、十分な食べ物もなく餓死するのではないかという不安な日々をすごすのですが、ヘルンフート派兄弟団が発行した聖書日課に一日一日励まされるのです。とくに、祖国に帰る希望がないと言われた日の聖句は、詩編1編でした。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人 その人は流れのほとりに植えられた木、ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることはない」でした。その牧師は、「実を結ぶ」という言葉に励まされたというのです。そして、「実り」について記される聖句を一つ一つ思い起こしていきました。先程、お読み頂いたエレミヤ書17章もそうです。
 「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない」
 さらにヨハネ福音書15章5節。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
 こうした聖句を次々と思い起こし、その牧師はこう言うのです。「イエスさまは、実を結ぶ、と断言している。たとえシベリアであっても、この生命が実を結ばず、意味のないものとなることはない。シベリアにも人間がいる。人間とともに任務がある。任務があれば実を結び、実を結べば意味がある」というのです。
 イエスさまに人生の半ばでお会いしたパウロも、いろいろな弱さのある私たちをイエスさまが愛してくださる、「実を結ぶ」ものとしてくださる、ということを語るのです。
 そして、私たちが心深く思わなければならないことは、私たちを「実を結ぶもの」としてくださる、ということの背後に、根底に、イエスさまの十字架の死と復活があるということです。

 ユリウス・シュニ―ヴィントという牧師・新約学者がいました。シュニ―ヴィント先生は第二次大戦下、ナチスににらまれ、減俸や講義停止処分を受けました。戦後の東ドイツ、すなわち共産主義の政権下で、大学の教授だけでなく教区長として教区内の諸教会のために力を尽くしました。そのため、シュニーヴィント先生は戦時中より多くの苦労を強いられました。共産主義政権下での教会は本当に大変で、戦後3年もたつか経たないかの1948年に尿毒症のため苦しみ、亡くなったのですが、病床で、シュニーヴィント牧師が語った言葉が残されています。
 「わたしは最早祈ることができない。苦痛があまりに烈しい。しかしわたしはいつもわたしのために祈りたもう方にしがみつく。」
 新約学者としてのシュニーヴィント先生には、私も含め数多くのキリスト者が今日もなお励まされています。その先生が、御自分の病があまりにも苦しいからといって、もはや祈ることができない、とおっしゃったことはショックです。けれども、祈れないわたしのためにどんなときにも、どんな所でもイエスさまは祈っていてくださる、その方にしがみつく、というのです。シュニーヴィント先生は、イエスさまは、私たち一人一人に仕えて、おのが身をすり減らしておられる方だ、ということをおっしゃっていました。苦しくて祈れない、そのときに、身をすりへらしてまで、わたしたちに仕え、祈ってくださるイエスさまがおられるのは慰めだ、その方にしがみつく、イエスさまはわたしたちを振り落とすどころか、抱え込んでくださる、というのがシュニーヴィント先生の信仰告白です。
 そういうイエスさまがおられるので、私たちはどんなときにも、どんなところでも、実を結び続けることができるのです。イエスさまに励まされて歩み続けましょう。

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