イザヤ書28:16~18
ペトロの手紙 一 2:1~10
櫻井重宣
今朝はただ今お読み頂いたペトロの手紙一の2章1節から10節に御一緒に耳を傾けます。ペトロの手紙は、紀元60年頃ペトロが小アジアの地に点在し、迫害の嵐に直面している教会および教会に連なる人々に書き送った手紙です。
ペトロがどういう人であったかということは、わたしたちはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書を通してよく知ることができますが、ペトロが初代の教会にあってどういう働きをしたのか、どういう牧師であったかということを知ることができるのは使徒言行録の前半とこのペトロの手紙だけです。そして使徒言行録においてペトロの働きが記されているのは紀元48年頃に開催されたエルサレム教会会議までで、ペトロが殉教したのは64年頃と思われますので、ペトロがどんなことを願い、祈りつつ、牧師としての後半の人生を歩んだかを知るてがかりはこのペトロの手紙一つです。迫害の嵐が吹き荒れ始めた教会を励ますためにペトロがどんなことを書き送ったのか、思いを深めて参りたいと願っています。
冒頭の1節から3節をもう一度読んでみましょう。
《だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。》
迫害の嵐、すなわち試練の只中にある教会に、まずペトロは悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい、といいます。
ペトロはイエスさまと3年間行動を共にし、誰に対しても、どんな所でも、どんなときにも誠実、真実な方だということを本当に知ることができました。とくにペトロは十字架を前にしてイエスさまを3回も知らないと言ってしまったのですが、なおそうした自分が立ち直るようにイエスさまは祈って下さいました。イエスさまの祈りによって立ち直ったペトロは、どんな人にも、どんなところでも、どんなときにも誠実であろうと願いつつ牧師として30年近く歩んだのです。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口はイエスさまのそうしたお心とまったく正反対です。迫害というのは、キリスト者を、そして教会の存在を否定しようと挑んでくることですが、ペトロは教会を迫害する人々に対しても誠実に関わりたいと願ったことが分かります。それだけではなく、迫害の嵐が強くなればなるほど、教会員同士の交わりにおいても悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去ろうというのです。そうしたものを捨て去らなければ、迫害の嵐に耐えることができないというのです。
そして生まれたばかりの乳飲み子のように混じりけのない霊の乳を慕い求めようと勧めます。これは、「しかが、谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」といにしえの詩人が歌ったこと、また「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエスさまがおっしゃったことに通じます。パウロが語っていますように、信仰の完成はイエスさまがもう一度おいでになるときです。ペトロは迫害のため志半ばで召されるかもしれない小アジアの教会の人々に「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」、これを飲んで成長し、救われるように、信仰の完成に導かれるようにというのです。
そして、イエスさまがどんなに恵み深い方かということを味わい知った、そのことに思いを深めようというのです。この言葉は詩編34の引用です。先日伝道礼拝においで頂いた左近豊先生のお父さんの左近淑先生は詩編34のこの引用のところをこう翻訳しています。
「さあヤ―ウェの素晴らしさを 心ゆくまで味わえ。その陰に身を寄せる人は まことにうらやましい。」
本日は、この後、聖餐式を行います。分餐の前にいつも聖句に耳を傾けますが、その一つが「主の恵み深きことを味わい知れ」です。ペトロは神さまの素晴らしさを、恵み深きことを心ゆくまで味わったものとして、混じりけのない霊の乳を慕い求める、わたしたちですと聖餐式のパンとぶどう液を心ゆくまで味わう、そうしたことが迫害に耐える力となるというのです。
4節から6節をお読みします。
《この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」》
ペトロは、ここでは霊の乳を慕い求めている一人一人が教会を形作っているというのです。その教会のかなめ石は人々から見捨てられ十字架の死を遂げたイエス・キリストです。そしてイエスさまは教会の生ける石だというのです。そしてわたしもそうだが、あなたがたもイエス・キリストがかなめ石である教会の生ける石として用いられなさいというのです。あなたがたも生きた石として用いられなさいということは、わたしたちも迫害によって人々から見捨てられるかもしれない、しかし、イエスさまは見える教会だけでなく、見えざる教会のかなめ石となっている、だからどんなことがあっても失望することないというのです。
第二次大戦下、ヒットラーに抵抗したボンヘッファーは、ユダヤ人がガス室に送り込まれ、障害をもった子どもたちの生存が脅かされているこの世界で生きる意味があるかと若い牧師から問われたとき、返事につまりました。
ようやく口を開いたボンヘッファーはこう言いました。「この世界は神さまがイエスさまを贈って下さった世界だ。イエスさまは最も小さく、貧しくこの世界にお生まれになり、最後は人々から捨てられるようにして十字架の死を遂げた、そういう世界だ、そのイエスさまを神さまはよみがえらせた世界だ。だから意味がある」と。
ペトロも、人々から見捨てられたイエスさまがこの世界、教会のかなめ石だ、わたしたちも見捨てられることがあっても、生ける石としてくださるというのです。
7節と8節でこう語ります。
《従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じないものにとっては、「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。》
ここでペトロが言わんとすることは、この世界、そして教会の隅の親石であるイエスさまという石はわたしたちにはかけがえのないものだが、人によってはつまずきの石、妨げの石だというのです。
イエスさまは わたしたちにとって掛けがえのない方です。けれども、どうしてわたしたちがイエスさまを信じようになったかということはわたしたちに分かりません。神さまの憐れみとしかいうことができません。ここで、御言葉を信じないでつまずく人がそうなるように以前から定められているというのは、そうなる運命だ、というのではなく、自分が信じるようになったことも神さまの憐れみとしかいいようがないと同じように、信じない人もどうしてなのか分からない、人間の思いを超えているということではないでしょうか。
最後の9節と10節にこう記されています。
《しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。》
ペトロは、あなたがたは暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れられたものだ、神さまの憐れみによって神さまの民とされたものだ、それゆえ、神さまのこうした力ある業を広く伝えて欲しい、伝道して欲しい、教会の枝として奉仕して欲しいというのです。
このように今日の箇所で、ペトロは迫害に苦しむ教会に、イエスさまは人々から見捨てられ十字架に架けられた方だ、けれどもそうしたイエスさまがこの世界の、教会のかなめ石、隅の親石となっている、あなたがたも生きた石として用いられて欲しいということは、脚光をあびるような存在にならないかもしれない、志半ばで殉教するかもしれない、けれどもそうした歩みに神さまが根本的には光をあてておられることを信じて欲しいというのです。
『近代の茅ケ崎の群像』という冊子があります。茅ケ崎市史のブックレットの一冊です。そこに紹介されていますが、1923年(大正12年)1月、茅ケ崎の西浜に、留岡幸助によって家庭学校の茅ヶ崎分校が開設されました。留岡幸助は牧師であり社会事業家です。家庭学校というのは問題少年、非行少年たちが再出発するための学校、施設です。留岡幸助はキリスト教信仰を根底におき、家族的な愛情のうちの職業訓練することを目的としているので、感化院といわずに家庭学校と言ったのです。1899年東京の巣鴨に家庭学校が開設され、1914年に北海道に家庭学校、茅ヶ崎には1923年に分校が開設されました。実は最近になるまでわたしも知らなかったのですが、この家庭学校の茅ヶ崎分校の分校長として赴任したのが、留岡幸助のように牧師であった小塩高恒(たかひさ)先生でした。井草教会の牧師であった小塩力牧師の父親で、今、ドイツ文学者として活躍している小塩節先生のお祖父さんです。
茅ヶ崎に家庭学校の分校が出来た年の9月関東大震災で、西浜にあった家庭学校は全壊し、再建するために小塩高恒先生はヨブのような苦しみを経験されました。小塩先生は茅ケ崎の家庭学校は「形式の貧弱なること日本一、経費一人当たり日本一少ない、職員の数も日本一少ない、逃亡するもの一人も出さなかったのも日本一」とおっしゃっていたそうです。この頃から大学生がこの家庭学校を支えるため東京と茅ケ崎を行き来し、その一人が長谷川八重子さんです。小塩家に4年間同居しその働きを手伝った長谷川八重子さんは、後に長谷川保さんと結婚しました。
この茅ケ崎の家庭学校分校は1933年昭和8年に閉校しました。
小塩高恒先生は、救世軍の山室軍平先生が茅ケ崎の家庭学校の見学に来訪したとき、山室軍平先生に牧師としての悩みを聞いて頂きたいということで、一対一のときこう語ったというのです。
「伝道者として歩み始めて40年を超えるが、牧師にもならず、監督にしてくれるものもない。ずいぶんおしゃべりしたつもりである。ところがそれが空を撃った豆鉄砲の如きもので一向ききめがない。僕の言動によって感動したとか感激したとか言って救われたものは一人もいない。気にならざるをえない」、と。
当時、山室先生が一回説教すると数十人悔い改めたというのですが、山室先生はそのとき、「そんなに失望することないよ。いつか実を結ぶ」と励ましたというのです。
小塩高恒牧師は、その後、下井草に小塩塾という家庭学校を始め、それがご子息の小塩力牧師によって井草教会となりました。社会福祉の面では、長谷川保さん、八重子さんご夫妻によって聖隷事業団として浜松で広く展開されました。
小アジアの教会やペトロは小塩高恒牧師のような徒労を覚えたことでしょうが、二千年後福音がこの地にも伝えられています。
茅ケ崎教会が誕生する前、そして誕生してまもない時期に、茅ケ崎の町でこうした労苦があったことを私たちも心に留めたいと思います。