牧師 田村 博
2022.7.10
「あらゆる罪から清められる」 ヨハネの手紙一 1:5~10 出エジプト記34:29~31
先週よりヨハネの手紙一の聖書講解に入りました。短い手紙ではありますが、ヨハネによる福音書と深く結びついているという点において、わたしたちにいろいろな深いことを教えてくれる手紙です。
この手紙の最初の部分・書き出し部分には、こう記されています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」
通常わたしたちが目にする手紙よりも、格調のある書き出しであり、繰り返し耳を傾けるならば、「初め」そして「言(ことば)」といった言葉を中心にして、ヨハネによる福音書の書き出し部分、あるいは創世記の最初の部分を思い起こさせる書き出しです。イエス・キリストは、神と等しいお方でいらっしゃいました。「初めから」いらしたお方です。永遠の「時」を創造され、支配しておられるお方です。にもかかわらず、「見て、手で触れる」ことができるようなお姿で、すなわち弟子たちとまったく同じように肉体をとられ、共に生活をされました。そのようなイエス・キリストを、著者ヨハネはここではっきりと伝えています。その伝え方は、単に「知識として伝える」ということではありませんでした。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:3)
ここに記されているように、この手紙の差出人・著者ヨハネがこの御言葉を聞く一人ひとりと「交わり」を持つようになるために伝えるというのです。その「交わり」とは、社交的な、当たり障りのない、適当な距離を持った「交わり」というのでもありません。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」と言うぐらい、ピッタリとした「交わり」です。ヨハネは、神ご自身と御子イエスのすばらしい「交わり」を、ギリシャ語で「コイノニア」という言葉を用いており、その「交わり」を、ヨハネ自身と手紙の読み手との間に適用しようとしているのです。主日礼拝の最後には、コリントの信徒への手紙二 13章13節によって祝祷をいたします。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
ここに用いられているのも「コイノニア」=「交わり」です。
このようなすばらしい「交わり」を、この手紙を受け取った一人ひとりが、手紙を記したヨハネとの間に得ることができるのだというのです。そのために、ここで自分はこの手紙をしたためているのだ、聖霊によって導かれて、というのです。
さらに4節にはこうあります。
「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
本当の喜びに、わたしたち一人ひとりがあずかるためにようになるために、この手紙は記されているのです。
ここで、わたしたちが間違えてはいけないのは、「クリスチャン同士の交わりはこうあらねばならない」といった意味で記されているのではないということです。わたしたち一人ひとりの行動を規定するために、この手紙が記されているのではないということです。あるいは理想、目標を単に掲げて、「さあ、これに向かって歩みなさい」と𠮟咤激励するために書かれているのでもありません。実際に、喜びが満ちあふれるようになるということが、一人ひとりにとって現実のものとなることを神様はわたしたちに望んでおられるのです。
「コイノニア」なる「交わり」の存在を全く知らないで、この生涯を終えてしまうというようなことがもしあるならば、それは残念なことだという切なる思いから発せられている聖書の御言葉なのです。
著者ヨハネは、「光」という御言葉を用いて、わかりやすく説明を始めています。
5節には次のように記されています。
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」
本日のもう一箇所の聖書箇所・出エジプト記34章29~31節には、イスラエルの民の指導者モーセが、シナイ山で神様との交わりを与えられた場面です。モーセがシナイ山から人々のところに降りてきたとき、すなわちイスラエルの民と対面したとき、モーセの顔は光り輝いていたことが記されています。モーセは、なぜ神様とのこのような特別な交わりを与えられたのでしょうか。
第一には、この箇所に至るところに繰り返ししるされている「モーセは主の命じられたとおりにした。」という言葉です。モーセは、主の命じられたことを吟味して半分ぐらい受け取っておこう、と行動したのではありません。主なる神様への完全な従順です。「主が語られるならば従います。」と、モーセは応答したのです。わたしたちが、神様に対して従順であろうとするとき、しばしばわたしたちのその決断をくじくのは、わたしたちが経験していない難問ではなく、むしろわたしたちが経験してきたことから生じるさまざまな思いです。モーセは、最初から神様に対して、まっすぐに従順に歩んできたというわけではありませんでした。出エジプト記を最初から読むと、モーセが犯した失敗について正直に記されています。王の子として育てられたモーセでしたが、自分の生い立ちを何らかのいきさつで知らされ、イスラエルの民の血筋を引くものであることを知りました。イスラエルの民の同胞たちは非常に困難な状態にありました。エジプト人が同胞を痛めつけている場面に遭遇した彼は、そのエジプト人の命を奪いました。仲間のために正義感からとった行動であり、少なくとも同胞たちには理解され、受け入れられるだろうと思っていたモーセでした。モーセは、自らの正義感と振る舞いについて、神様が喜んでくださるのではないかと考えていました。しかし結果はそうではありませんでした。彼は、命の危険を感じて、荒れ野に逃亡しました。長い時間が、その荒れ野で費やされました。神様への従順は、彼にとっての失敗から生まれたといっても過言ではありません。その失敗をどのようにして受けとめるかが大切です。
わたしたちも、それぞれの人生において一度も失敗したことがないという人は一人もいないでしょう。しかし、その失敗をどのようにして受けとめるのでしょうか。覆い隠してなかったかのようにして受けとめるのでしょうか。そうではなく、そこで自分自身をしっかりと見つめ、自分自身の弱さ、また社会の矛盾も正確に受けとめる機会とすることこそ大切なのです。モーセは荒れ野でその勉強をしました。その結果として、「モーセは主の命じられたとおりにした。」という神様への従順を身に着けていったのです。そして、モーセは神様からたくさんの「命令」をいただいたのです。
第二には、モーセが登ったシナイ山は、雲で覆われていました。
わたしたちがハイキングで山に登ろうとする時、目標とする山がすっきりと見えているならば安心すると思います。反対に山が真っ黒な雲で覆われているならば、不安と共に歩幅は少しずつ小さくなり、歩くスピードは遅くなってしまうのではないでしょうか。出エジプト記24章16節を見ると、「主は雲の中からモーセに呼びかけられた」とあります。シナイ山は雲に覆われていました。モーセは、迷ってしまうのではないかと不安になってもおかしくない状態でした。そのような状況で、主は雲の中から彼に呼びかけられたのです。モーセはその雲の中に入っていきました。晴れ晴れとした状況ではなく、行く先が明確なところではないにもかかわらず、彼はその雲の中に入っていきました。わたしたちもしばしば、どうしてこのようなことが起こるのだろうかと、思わされるような出来事と遭遇します。そのような時に、わたしたちに勇気を与え、本当の平安を与えてくれるのは、主イエス・キリストが歩まれた十字架への道のりを思い浮かべることです。主イエス・キリストは、復活の栄光をあらわされる前に十字架につけられました。暗い墓の中に閉じ込められるという、とんでもない、なぜ? と思えるようなところを、主イエスご自身が通り抜けられ、経験されたのです。墓という「雲」の中に、主イエスはご自身を置かれたのです。そこを経て、栄光の復活がもたらされたのです。このことは、わたしたち一人ひとりにとって、まことの希望、まことの光となってわたしたちの心を照らすのです。
モーセは、主の命令に従ってゆきました。そして、それは雲のような中を通り過ぎることでした。
第三には、モーセはただ一人で山に登りました。
34章2、3節をご覧ください。
「明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」
モーセは徹底的に「一人」でした。それは神様に命じられた大切なことです。サッと読み進めてしまうと、「モーセだけが特別だったのだな」で終わってしまうかもしれません。誰かひとりが特別な使命を与えられるという時を思い浮かべてみてください。わたしたちも特別な使命・ミッションを与えられて取り組むというような時、傍らに誰かがいてくれて、そこで励ましてくれたのなら、どんなに心強いことでしょう。安心してミッションを全うできるに違いないと思うのではないでしょうか。しかし、それと逆のことがここにあるのです。たった一人でということが、しつこいほどにここで命じられているのです。わたしたちも“一人きりになる”ということが、どんなに大切なことなのか、この箇所はわたしたちに語っています。
マタイによる福音書6章6節には、主イエスの次のような御言葉が記されています。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
モーセが神様との交わりを与えられ、光り輝く姿で戻って来たという過程において、
- 「従順」
- 「雲の中」
- 「一人きり」
この3つのことがあり、この3つがあって光り輝くその姿がモーセにもたらされたのです。
ヨハネの手紙一1章6、7節には、次のように記されています。
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
神様との交わりによって、光なる神様との交わりそのものによってもたらされるものがあります。
わたしたちが、「神様はこんなにすばらしいお方なのですよ」と繰り返し説明を受けたとしても、「交わり」というものは生まれてこないのです。ただ、神様ご自身との「交わり」のみにおいて、わたしたち一人ひとりに与えられるものなのです。聖書の話しを聞いて感動したとしても、神様ご自身との交わりを抜きにしては、モーセが光り輝く顔になったように、キリストを内にいただき、溢れ出るキリストの光を世にあらわすことはできないのです。そして、神様がわたしたち一人ひとりにくださろうとしている「コイノニア」なる「交わり」は、神様ご自身との交わり以外によっては、わたしたちに届けられないのだということが、ここに記されているのです。
わたしたちは、「忍耐」に欠けている部分があるものです。自分のことを考えてみても、本当に「忍耐」に欠けている一人だなあと、過去の歩みを振り返っても、現在の生活においても痛感している一人です。
先日の特別ミニ講演会の時に、献身前には数学と生物の先生をしていましたとご紹介いただいたのですが、幼い時にはあまり算数は好きではありませんでした。算数を苦手としていた時期を振り返ると、父親からよく言われていた言葉があります。それは、「(教えていると)すぐにわかったとヒロシは言う」という言葉です。父親から、よく算数を教えてもらっていたのですが、教えてもらっていて、少し聞くと「わかった、わかった」と言って、その先は聞かずに自分でやろうとするということを繰り返していました。自分の弱点を父は的確に指摘していました。
わたしたちはしばしば、神様との交わりにおいて、「ああ、わかりました」と、神様がまだ語ってくださっているにもかかわらず、神様の言葉をさえぎって席を立ってしまうようなことを繰り返しているのではないでしょうか。しかし、本日の御言葉にあるように、神様はまことの光のようなお方であり、闇がまったくないお方であり、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わり(コイノニア)を持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1:7)を成就しようとされているのです。この御言葉を、途中で席を立ってしまうのではなく、じっくりと聴きたいと思います。なぜ、わたしたち一人ひとりを包み込むようにして、ご自身の愛の御言葉を届けてくださっているのでしょうか。それは、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められ」るという経験を、わたしたち一人ひとりがすることを、神様は願っておられるからです。この「あらゆる」という御言葉が9節にも繰り返されています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
この「あらゆる」という言葉は、過去、現在、そして未来、そのすべてを含めての「あらゆる」を指し示していると言われています。過去において自分が行なった失敗が貴い主イエス・キリストの血潮によって清められることはすばらしいことですが、現在進行形をもって、わたしたち一人ひとりが真実に神様の前に、神様の光の中を歩み続けようとするならば、今、清めてくださるのです。そこにとどまらず、未来、将来においての一つひとつの罪、「自分はこのようなことをしてしまうかもしれない」「自分を整えられない」といったようなところからくる不安を含めて、その領域にさえも、神様は手の届くお方なのです。それは、ただ「御子イエスの血によって」なされます。わたしたちにできるのは、「自分の罪を公に言い表す」ことです。つまり、自分の罪を覆い隠すのではなく、神様はそれをご存じであるのだから、神様が光の中で示してくださるのだから、「公に言い表す」のです。神の光の中で、それまで見えなかったものが見えるようになります。光が真実であるがゆえに、その光の中ですべてのものを明らかにするのです。そこで、新たに自分の弱みであったり、自分で解決できないことなどが明らかになるのですが、神様ご自身しか、主イエス・キリストの血潮でしか清められない部分があるのです。
そのようなわたしたちであるにもかかわらず、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」というのです。この大きな神様の御業を思う時、10節にあるように、「罪を犯したことがない」と言って自分を飾り立てる必要はまったくありません。もしそのようなことをすれば、「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」と厳しく、はっきりと伝えられています。
このような恵みが、わたしたち一人ひとりに、神の光を通してまっとうされようとしているのです。そして、その神の光によって、わたしたちが真実な「交わり(コイノニア)」の内に自分自身を発見することができるようにしてくださるのです。
神との交わりを与えられその顔が輝くという経験をしたモーセでしたが、そこには「自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」(出エジプト34:29)と記されています。神様は、わたしたちに自覚がなくても、わたしたち一人ひとりにとって最もふさわしい、最もすばらしい輝きを与えてくださいます。期待して歩ませていただきましょう。