2022年6月5日礼拝説教「聖霊に満たされて」

牧師 田村 博

2022.6.5

聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

説教 「聖霊に満たされて」           

聖書 ヨシュア記1:5~9  使徒言行録2:1~11

 聖霊降臨日(ペンテコステ)は、教会の誕生日と言われることがあります。キリストの教会は、世界の広大さからするならば、パレスチナ地方の小さな地方で始まりました。主イエスによって蒔かれた福音の種が、全世界へと広がっていったのですが、聖霊降臨の出来事抜きには、全世界に広がるということはありえなかったのです。その意味で、この聖霊降臨日(ペンテコステ)は、大切な日です。

 本日、2箇所の聖書箇所が与えられました。使徒言行録2章1節以下の箇所は、聖霊降臨日に必ずと言っていいほど読まれる箇所です。あわせて旧約聖書・ヨシュア記1章5~9節が与えられました。

 1章5節には、

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」

という力強い御言葉があります。この御言葉が語られた背景には、40年にわたる荒野での放浪生活=難民のような生活がありました。そして、いよいよ約束の地に入ろうとしているという状況にあって語られたのです。神様がお語りになったのは、神の僕モーセの後継者であるヨシュアに対してでした。40年という長い月日を経て、いよいよです。20歳で出発した人は60歳、(あたりまえのことですが)30歳で出発した人は70歳です。40年とは、ひと言では言い表せないような年月です。いよいよ約束の地に入るという時、目に見える限りにおいては、そこには何の保障もありませんでした。「さあ、どうぞ!」と歓迎してくれる人々がいるわけでもないのです。何が起ころうとしているのだろうか、これから自分たちはどうなってしまうのだろうか、としか思えない状況が、目に見える限りにおいては広がっていたのです。そのような中で、このヨシュア記1章の御言葉が語られています。

「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」(1:5)

最後の9節には、

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

とあり、「主は共にいる」と繰り返し語られています。

 単に、「いっしょにいてあげるから一歩踏み出しなさい」と語られたのではありません。5節と9節の「主は共にいる」という御言葉の間に、具体的な二つのことが記されています。

  第一は、繰り返し語られている「強く雄々しくあれ」です。

「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」(1:6、7)

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。」(1:9a)

 これは、主の御業の中にある可能性に目を開かれた者に対して、目を閉ざすことなく、行きなさいという勧めです。わたしたちはしばしば「自分はこうゆうものだ」と、限界を自分で勝手に設けてしまいがちです。しかし、そこから自由になることが、ここで繰り返されている「強く雄々しくあれ」という言葉の示す意味です。男女の違い、差別的なことが強調されているというのではありません。自ら限界を設けることを取り払え! と言われているのです。「主は共にいる」という御言葉が成就してゆくにあたり、自分で限界を作ってしまっては、「共にいる」というすばらしいことが実現、成就しないのだというのです。

 第二は、「律法を忠実に守る」です。

「…わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(1:7b、8)

 創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる「律法」を忠実に守っていくことが勧められています。その中心は「十戒」です。「十戒」の最初には、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:2~4a)とあります。これ律法を「口から離すことなく、昼も夜も口ずさむ」ことが、「主が共にいる」の実現・成就のために、どうしても必要なのだというのです。

 この二つのことが漠然とではなく具体的に語られていますが、どのようにしたらよいのか、わたしたちはしばし戸惑うかもしれません。

 申命記6章6~9節には、ヨシュア記1章6~9節と似た御言葉が記されています。

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 後半8~9節に三つのことが言われています。

  • 「手に結び」
  • 「額に付け」
  • 「家の戸口の柱にも門にも書き記す」

 イスラエルの民の真剣さがここから伝わってきますが、わたしたちは今、これらのことを実行していません。なぜでしょうか。古い律法だからといってもう捨ててしまったからでしょうか。そうではありません。この三つのことは主イエス・キリストによって成就されたからなのです。

 復活されて主イエスは、弟子たちに現れて、「わたしの手を見なさい」(ヨハネ20:20、27)とお語りになりました。主イエスご自身が「手」に傷を負ってくださいました。わたしたちが自らの「手」を見る時に、手に括り付けた「律法」ではなく、「主イエスの傷跡」を見ることができるのです。

 主イエスが十字架につけられる前に「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ」(ヨハネ19:2)とあります。茨で編んだ冠の棘は、主イエスの額に刺さり、血が流れたことでしょう。「額」は「律法」をくくり付ける場所ではなく、主イエスが茨の冠をかぶってくださり、痛みをそこで受けとめてくださったゆえに、主イエスご自身が成し遂げてくださったことを見るところとなったのです。

 三番目の「戸口の柱」は、他でもない出エジプトの「過越」の時に、小羊の血がつけられた場所です。主イエスご自身が、自ら「犠牲の小羊」となってくださり、神の御子としての完全な犠牲として「命」をおささげくださいました。それが「十字架」です。その「痛み」ゆえに、わたしたちはもはや、その「戸口の柱」に「律法」を貼る必要はないのです。

 主イエスは、この三つのすべてを成就してくださいました。

 主イエスは、ヨシュア記1章5~9節の「あなたと共にいる」という御言葉が実現するために必要なことをすべてまっとうしてくださいました。

 主イエス誕生の予告が、父ヨセフになされた時に、「その名はインマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」が成就したのです(マタイ1:23)。

 主イエスによって「共にいる」が成就しました。それゆえ、わたしたちは、このヨシュア記を新たな気持ちをもって、主イエスによって成就された御言葉として受け取ることができるのです。

 共にいてくださる主イエスは、十字架にかかられ、死んで葬られたけれども復活され、死に勝利してまで「共にいる」ことをお示しくださいました。しかし、その主イエスは、40日目に天に上げられたことを聖書は伝えています(使徒13~11)。「共にいる」と逆のことが起きたように見えます。けれどもそうではありません。肉体をとられた主イエスであるならば、世界のどこか一箇所に現れることはおできになっても、同時に複数の箇所に現れることはおできにならないかもしれません。主イエスは、新たなかたちで、一人ひとりに、常に「共にいる」お方として臨んでくださるのです。そのことが成就するためになくてはならなかったのが「聖霊降臨日(ペンテコステの日)」です。

 使徒言行録2章4節にはこのように記されています。

「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 弟子たち一人ひとりにどうしても必要であった「聖霊の満たし」です。「主が共にいる」が成就するためにどうしても必要だった「聖霊の満たし」が成就すると何が起こったかというと、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのです。これは、弟子たちが「聖霊が降ったらこうしよう」という具合に計画していたことではありません。彼ら自身、まったく予想しなかったことだったと思います。5節以下には、この出来事に立ち会うように導かれた人々についてのことが記されています。

「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」(使徒1:5~6)

 聖霊降臨の出来事の証人として選ばれた人々はこういう人々でした。

 エルサレムには神殿があり、祭の時には巡礼者が大勢いましたが、巡礼者の一人としてではなく、そこに住んでいた人々です。この人々はひとつの歴史を持っている、かつて「ディアスポラ」と呼ばれた人々でした。「ディアスポラ」とは、ギリシャ語で「散らされた者」です。わたしたちのなじみの深い言葉に置き換えるとすれば「難民」と言ってもいいかもしれません。かつて事情によりパレスチナの地、エルサレムの地に留まることができず散らされてしまった人々がいました。バビロニアという遠い国に捕囚されたのみならず、ローマ帝国支配による様々な軋轢や隣国シリアとの軋轢や小競り合いはしばしば起きていました。命の危機、信仰の危機を感じて、やむを得ず避難する人々がいたのです。避難した人々が直面したのは何だったでしょうか。現在、ウクライナの人々が避難民として日本に来ていらしてその生活の様子が時々報道されますが、一番困難なのは言葉の問題だとしばしば言われています。新約聖書の時代、地中海沿岸では広くギリシャ語が普及していましたが、それぞれの地域にはそれぞれの言葉がありました。現在の英語に近い存在としてあったギリシャ語ですが、やはりその土地に住むとなると、ギリシャ語だけでは済みませんでした。その土地の言葉を一から学び直して習得するという困難なことを、「ディアスポラ」と呼ばれたユダヤ人たちは経験したのです。難民生活は1年、2年という短期のものではありませんでした。8節には、「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」という記録されています。散らされた人々はすぐには戻れず、子どもが生まれ、その子どもが生まれという長い「時」を経ていることがわかります。日常生活の言葉としてはヘブライを離れざるを得ない人々でした。しかし彼らは決してヘブライ語を失いませんでした。シナゴーグ(会堂)を建てて安息日ごとに礼拝をささげ、同時に、その場を日々教育の場として用いていました。そして、心の内側に、神の言葉であるヘブライ語を刻み続けたのです。心の内側に刻まれた、信仰と共にあるヘブライ語は、いかなる迫害があったとしても誰にも奪い取ることができませんでした。そのような困難な時を経て、時が満ちた時に、ようやくエルサレムに帰ることができたという人々こそ、使徒言行録2章5節以下に記されている人々なのです。つらい過去の痛みがあり、再び帰ってきても隣人と笑顔で再会できたというような安易なレベルではなかったと思います。困難な日常が、帰って来たところでもあったでしょう。しかし、かつて経験した困難な「故郷」で話されていた「言葉」が、自分の目の前で、主イエスの弟子と呼ばれる人々によって語られているのを彼らは聞いたのです。その故郷の言葉を耳にした時、彼らが経験した辛い思い、痛み、その一つひとつが、決してなかったほうがよかったような、どうでもよい、埃をかぶった目を向けたくない思い出したくないような出来事として思い浮かんできたのではないのです。そこで経験した困難さも、親の親から自分に流れていた血液のような痛みの歴史が決して無駄ではなく神様によって覚えられてるのだと感じたのではないでしょうか。彼らはこのとき、「驚き怪しんで言った」(2:7)とありますが、単なる驚きではなかったのです。主イエスの弟子たちが異なる言葉で、顔と顔とを向かい合わせ、喜びつつ、おそらく顔を赤らめて興奮しながら「神の偉大な業を語っている」(2:11)のを聞いたのです。とても信じられず、そのまま受け入れられずに「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って拒絶しようとした人々もいたことが伝えられています(2:12,13)。それほどの大きな出来事でした。

 わたしたち一人ひとりも、この地上に生きている限り様々な「心の傷」を持っているものです。生まれてから無菌室のようなところで成長し、一つも「心の傷」を負っていないという人は一人もいません。誰もが様々な困難と向かい合って、その困難ゆえに心の傷を受けて、その傷ゆえに自分で気づかないうちに、現在の状況を悲観的に考えたり、「強く雄々しくあれ」と言われてもその通りに進むことができなかったりする一人ひとりです。しかし、だからこそ、この聖霊降臨、ペンテコステの出来事があるのです。使徒言行録2章5節以下にいた人々のみならず、今、聖書を通して、この出来事を目の当たりにしているわたしたち一人ひとりも経験させようとしてくださっているのです。自分の両親、その両親に起こった出来事、そしてその出来事ゆえに自分でも気づかないうちに自分の内側にとどまっているようなことを、神様は顧みてくださり、癒してくださり、それを乗り越えたところで、神様をほめたたえようとさせてくださっているのです。聖霊の満たしは、わたしたち一人ひとりをそうさせてくれるのです。なぜ自分はこのような考え方をしてしまうのだろうか、もっと素直に生きられたらいいのになあ…と考え、その原因がどこにあるのかわからない…とわたしたちはしばしば格闘します。人間がいかなるカウンセリングの手法を講じても完全には克服することのできない課題かもしれません。しかし、そこにうずまってしまってあきらめてしまうのではなく、その出来事も完全に癒すことのできるのが、聖霊降臨、ペンテコステの出来事なのです。

 主イエスの弟子たちは、「一つになって集まって」(2:1)いました。1章14節にあるように熱心に祈っていたのです。わたしたちも「祈り」なくして「聖霊の満たし」にあずかることはできません。神様との1対1の関係において、その関係の中に「いのち」があることをおぼえ、心を低くすることです。川の水が高いところから低いところに流れるように、わたしたちが心を低くする時に、神様の恵みは注ぎ込まれます。

 また「激しい風」(2:2)を弟子たちは経験しました。どんなに暑い夏の日でもそのうだるような暑さを吹き飛ばし、清らかにしてくれます。弟子たちは聖霊によって清められました。神様は、わたしたちをも「聖霊の満たし」によって清めてくださいます。

 さらに「炎のような舌」(2:3)とあります。ローマの信徒への手紙5章5節には、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と記されています。神様の愛は、わたしたち一人ひとりを炎のごとく、あたたかく満たしてくださいます。

 加えて「一人一人の上にとどまった」(2:3)とあります。十把一絡げにみな同じ聖霊を…でないのです。

 最後に「話しだした」)1:4)とあります。弟子たちは「話しだし」ました。そのとき教会が生まれました。赦しの言葉をもって、希望の言葉をもって、愛の言葉を語ることがなされ、教会が誕生したのです。

 わたしたち一人ひとりに同じ聖霊を神様は注ごうとしてくださっているのです。

 来週、花の日・子どもの日ですが、さまざまな違いを超えて聖霊が一つにしてくださることを覚えたいと思います。再来週は特別伝道礼拝ですが、多くに人々に、また新しい人々が教会に加えられることを願ってその時を迎えようとしています。聖霊が新しい風をもたらしてくださり、この聖霊降臨の日におきたことと同じ出来事が起こりますように祈り、話しだしたいと思います。

9節

5:ヨシュア記/ 01章 05節

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

6:ヨシュア記/ 01章 06節

強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。

7:ヨシュア記/ 01章 07節

ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。

8:ヨシュア記/ 01章 08節

この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。

9:ヨシュア記/ 01章 09節

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 

目次