2022年12月18日 礼拝説教「ひとつの芽・ひとつの若枝」

牧師 田村 博

2022.12.18

待降節(アドベント)第4主日礼拝

説教 「ひとつの芽・ひとつの若枝」           

聖書 イザヤ書 11:1~10  ルカによる福音書 1:26~38

 待降節・アドベントの第4主日、クランツのろうそくに4つの灯りが灯りました。多くのプロテスタントの教会ではクリスマス(12月25日)を越えない12月25日に一番近い日曜日にクリスマスの礼拝をおささげする習慣を持っていますので、第4アドベントにクリスマスの礼拝をささげる年のほうが多いわけです。しかし、12月25日が日曜日となる年は、第4アドベントを経て、クリスマス礼拝をおささげできます。2022年はその貴重な年なわけですが、過日の礼拝で、「このような年は6年から8年に一度」と申し上げてしまいました。4年に一度「うるう年(2月が29日まである年)」があるのでズレるだろうと単純に考えて「6年から8年」と申し上げたのですが、それは間違いでした。そんな単純なものではなかったのです。確かに今年の前はいつだったかというと2016年で、ちょうど6年前でした。それでは次のこのような貴重な年は、いつ訪れると思いますか? 実は、11年後の2033年まで無いのです。そしてその次もさらに11年後の2044年なのです。じっくりと味わいながら、今年のクリスマスを迎えたいと、あらためて思いました。

 さて、本日は教団聖書日課に従って、特に旧約聖書を中心にご一緒に御言葉にあずかりたいと思います。イザヤ書11章1節から10節です。最初の1節には「株」「芽」「根」「若枝」と植物に関わる名称が登場しています。突然のように見えますが、実は、前の10章から続いているのです。

 イザヤ書10章の最初から順に読んでゆくと、主なる神様に従わないイスラエルの民に対する裁きが記されています。それは北側に陣取るアッシリアという国を通してもたらされるというのです(10章5節「わたしの怒りの鞭となるアッシリア」「彼はわたしの手にある憤りの杖だ」)。

 そして10章33~34節には次のように記されています。

「見よ、万軍の主なる神は/斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち/レバノンの大木を切り倒される。」

 イスラエルの民は、主なる神様から恵みを豊かにいただいていたにもかかわらず、感謝することを忘れていました。形式的、表面的には、礼拝をささげていたものの、その心の奥底には、心からの感謝はありませんでした。それどころか10章33節の「そびえ立つ木」「高い木」という言葉にあらわれているように、自らの「高さ」を誇っていたのです。「森の茂み」「レバノンの大木」という言葉にあらわれているように、自らの「繁栄」を、自分の力で得たかのような傲慢な思いに陥っていたのです。

 これは、現代のわたしたちの姿にそのまま当てはまるような気がします。

 産業革命以降、さまざまな分野で驚くようなスピードで開発が繰り広げられてきました。エネルギー(原子力等)、機械、薬品、医療、通信、交通などあらゆる分野です。わたしたちは、主なる神様が与えてくださった知恵であり、知識であり、技術であることを常に意識し、感謝しなければならないはずです。しかし実際は、まるで自分の力で成し遂げてきたかのように錯覚し、感謝を忘れ、利益を囲い込み、たとえ自分の一歩によって痛みを覚える人がいたとしても無視してしまっているのではないでしょうか。

 主なる神様は、今、わたしたちに向かって語っていらっしゃるのではないでしょうか。

「見よ、万軍の主なる神は/斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち/レバノンの大木を切り倒される。」

 しかし、聖書はここ(10章34節)で終わっているわけではありません。希望を見出せない暗闇の中に、わたしたちを放り出そうとしているのではありません。

 11章1節をご覧ください。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」

「エッサイ」とはイスラエルの民にとって象徴的な存在である「ダビデ」の父親の名前です。かつて、エッサイからダビデが生まれました。つまり、ここに新しいダビデ王の誕生が宣言されているのです。

それは、ヨセフとマリアという、この世的には何ら特別な地位や力は持っていない、ごく普通の男女を通してもたらされました。

 ルカ福音書1章26節以下に、そのことが伝えられています。

 「ナザレというガリラヤの町」は、今でこそお土産屋さんが並んでいますが、その当時は何ら注目されていない町でした。ヨセフも大工さんで特別な働きをしていたわけではありません。27節を見るとそのヨセフが「ダビデ家のヨセフ」と紹介されています。聖書に登場する名前表記でよく見られるのが「○○の子△△」です。しかしここでは「○○の子ヨセフ」とせずに、あえて「ダビデの子ヨセフ」と紹介されているのです。「エッサイの株」から新しいダビデが誕生するのだ、というメッセージがここに込められています。32節には「神である主は、彼(マリアから生まれる子)に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」とあります。ダビデは、年を重ね、やがて死んで葬られました。その繁栄はソロモンに受け継がれたものの、やがて失われてゆきました。しかし、この新しいダビデによる新しい神の国は、永遠に続き、終わることがないというのです。その誕生に際して、天使が語った言葉が35節に記されています。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

 新しいダビデは、聖霊、すなわち神様ご自身の霊のお働きによって生まれたのです。

 イザヤ書11章1節以下に戻り、そこに示されている「新しいダビデ=ひとつの芽・ひとつの若枝」の誕生について、余すところなくそのみ旨を受けとめたいと思います。

  • 主の霊

 まず第1にここではっきりと伝えられているのが「主の霊」です。

 2節から3節の一行目までをご覧ください。

「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」

 只今、ルカによる福音書に見た「主の霊」=「聖霊」の御業そのものです。

 ルカによる福音書2章41節以下には12歳になられた主イエスの様子が記されていますが、神殿で受け答えなさった主イエスの周りにいた学者たちは「イエスの賢い受け答えに驚いていた。」と伝えられています。神ご自身の霊による「知恵と識別、思慮と勇気」が備えられていたのですから、当然です。

 ここに「主を畏れ敬う」と繰り返し記されています。

 この箇所を聖書協会共同訳では、次のように訳しています。

 「…主を知り、畏れる霊。

  彼は主を畏れることを喜ぶ。」

 フランシスコ会訳でも次のように訳されています。

 「…主を知り、畏れ敬う霊。

彼は、主を畏れ敬うことを喜び、」

 新共同訳では、訳されていない大切なことが、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳には「喜ぶ」という言葉でここに記されているのです。実は、この3節一行目の一行は前後と異なり、後代の加筆であろうという学説があります。関根正雄訳では、それに従ってはっきりとカッコに入れて区別してしまっています。それゆえ、新共同訳では、あまり重んじないでサラリと訳してしまったのかもしれません。

 「主を畏れ敬うことを喜ぶ」。

 「畏れ敬う」と「喜ぶ」を本当の意味で、違和感なく結びつけることは、わたしたちには難しいかもしれません。しかし、主の霊がとどまられたお方、新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝なるお方ゆえに、そのことが成就したのです。わたしたちが経験したことのないような「喜び」が、このお方の誕生にはあるのです。主の霊の御業ゆえにもたらされる「畏れ敬う」と「喜び」の一致です。

  • 正しさ

 第二に、「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」なるお方は、まことの「正しさ」を世に示されます。

3節2行目、3行目をご覧ください。

「目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。」

 わたしたちは、しばしば考えます。「どのように表したらその正しさを示すことができるだろうか」、あるいは「どのように伝えたらその正しさを証明することができるだろうか」と。そして、工夫したり、努力したりします。「正しさ」からかけ離れたような議論が展開している場面に遭遇したりすると虚しさすら感じます。しかし、「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」なるお方は、正しさそのものでいらっしゃいます。そして、わたしたちが飾ったりする必要などないとおっしゃるのです。その本質そのものをご覧になり、瞬時にして神の御前で受け入れられるものか、退けられるものかを判断されるのです。その「弱さ」のために十分に説明できないものも退けることをなさいません。また「貧しさ」ゆえに人の交わりから疎外されてしまうような者も決して退けることをなさいません。「革でできた鞭」を振りかざすことなく「口の鞭」すなわちその御言葉の御力で正しい裁きをなさるのです。「唇の勢い」この「勢い」は「息」と訳すことのできる言葉なのですが、「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」なるお方は、その御言葉をもって「逆らう者」=「悪しき者」に対して、その行きつくところは「死」であることを教えることができるのです。ここにまことの「正しさ」「正義、真実」があります。

  • 和解

 第三に、「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」なるお方は、まことの「和解」をこの地にもたらします。6節から8節までをご覧ください。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」

 ここには、本来、一緒にはいられない生き物たちが一緒に、対になって登場しています。実際にこのようなことが目の前で起こったら、驚くに違いありません。ある聖書学者は、この光景は「楽園の回復」であると説明します。神様が天地創造の時に造られたあの「楽園」です。異なるものが一緒にいる、それは、敵意が取り除かれ「和解」がもたらされた結果であるとも言えましょう。今年の春、茅ヶ崎堤伝道所に伝道師として着任された細井宏一先生は、今、英国のケンブリッジ大学にて研究実験に取り組んでいるのですが、そのテーマは「異材接合」であると、いただいたクリスマスカードに記されていました。まったく異なる物質をくっつけることには、大きな困難が伴うとのことでした。

 ここに記されている生き物の組み合わせよりもはるかに困難な和解、究極の和解があります。それは何でしょうか。それは、神様と人との和解です。人がどんなに神様の御前に出るにふさわしい存在になろうとしても、完全になることはできません。神様の側からの一方的な「憐れみ」なくして御前にとどまることはできないのです。その差は、「狼と小羊」「豹と子山羊」よりはるかに隔たっています。それゆえ、神様は、御独り子イエス・キリストを世にお遣わしになられました。そして、その血潮により、すなわち十字架上でお流しになった貴い血潮により、究極の和解をもたらしてくださったのです。それは、「ありえない」「できるはずがない」ことでした。6節から8節の「ありえない」組み合わせは、「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」なるお方によって初めて可能になるのです。

  • 教会

 4番目にここに記されているのは、その「和解」の存在を宣べ伝える「教会」の姿です。

 9節10節をご覧ください。

「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

 「わたしの聖なる山」という場所が記されています。「わたしの聖なる山」それは、この地上にある「教会」です。それは10節にあるように「国々はそれを求めて集う」ところです。それは「すべての民の旗印」として「和解」をもたらしてくださる「エッサイの根」が高らかに証しされるところです。

 「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」とあります。わたしたちは、わたしたちに与えられていいるこの使命を前にして、自らの弱さを感じるかもしれません。高齢化ゆえに、もうそのような「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」などと胸を張って言えないのではないだろうか、と思われるかもしれません。先日、精神科医でありクリスチャンである石丸昌彦氏の著書『老いと祝福』という本を紹介させていただきましたが、二度目の登場で恐縮ですが、その著書の中で、「時を経ても古びないもの、時を超えて新しいもの」という見出しのついた一文があります。石丸氏が「時を経ても古びない」という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは「大賀ハス」のことだそうです。1951年、今から70年以上前のことですが、千葉市の落合遺跡というところで縄文時代の発掘調査が行なわれたときにその種子は発見されました。放射性同位元素を用いた年代測定によって、2000年以上さかのぼる時代のものであることが確認されました。この種は実を結んでから2000年も経過した非常に古いものでしたが、立派に芽吹いて花を咲かせたのです。2000年という歳月にも害を被ることなく、その種子としての質は少しも古びることなく新鮮に保たれていたのです。そのハスが結んだ新たな種子は全国に広がって今日に至っています。わたしも調布の神代植物公園でその花を見ました。

 「新しいダビデ、ひとつの芽・ひとつの若枝」が、わたしたち一人ひとりにもたらす「主の霊」「正しさ」「和解」は、決して古びることがありません。そのお方が、9節にあるように「水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満た」そうとしておられるのです。「その日が来れば」と10節にあります。「その日」は、来ているのです。それがクリスマスです。そしてそのお方が栄光に輝く御姿で再びいらっしゃると聖書は約束しています。もう一つの「その日」です。ご一緒にそのお方を待ち望み、そのお方をお迎えいたしましょう。

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