ヨハネによる福音書1:19~34
イザヤ書40:3~5
田村博
先週の主日より、ヨハネによる福音書の御言葉に1章から順に耳を傾けることをスタートいたしました。その1章1~18節の御言葉に心の耳を傾けた際、21章31節に記されている、この福音書が記された目的についてもふれました。そこには、こう記されていました。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
ヨハネによる福音書は、わたしたち一人ひとりが「イエスは神の子メシアであると信じる」ために記されました。この「信じる」ということは、わたしたちの単なる内的変化にとどまらないことをこの21章31節は教えています。「信じる」ということは、「イエスの名により命を受ける」という、きわめて具体的な、動的な(ダイナミックな)ことなのです。
しかもそれは、一部の特別な人があずかるための「命」ではなく、「すべての人が彼によって信じるようなるため」(6節)、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)とあるように、「すべての人」が受けるべき「命」です。にもかかわらず、その「命」と向かい合った人々が、無理解と拒絶に陥りうるのです(5節、10節、11節)。
創造主なる神様は、全能の御力をお持ちでいらっしゃいます。その無理解と拒絶を、ご自身の創造の御力ですべて破壊し、清算してしまうこともお出来になったのですが、そうなさいませんでした。ノアの時の洪水のように、どうしようもない人間の罪を洗い流すこともお出来になったのですが、そうなさらなかったのです。「独り子」なるお方を、無理解と拒絶の真っただ中にとどまらせ、そこに「命」をもたらすという方法をとられました。
主なる神様は、わたしたち一人ひとりが、もれなく、この「命」を受けるように、この「命」にあずかるように、今、招いておられます。そのために、ヨハネによる福音書は、わたしたちにひとりの人物を紹介しています。それは、洗礼者ヨハネです。
ヨハネによる福音書の冒頭の箇所に比べ、19節から34節の洗礼者ヨハネを中心としたこの部分を読む際は、もしかしたらサッと読み飛ばしてしまうことが多いかもしれません。しかし、ここにはイエス・キリストと出会った一人の人間=洗礼者ヨハネの命がけの証しがあるのです。彼は、「この方こそ神の子」(説教題でもある)と告白しました。それは、彼の心の中にたえずとどまっていた一つの“出会い”から生まれた告白と言ってよいでしょう。
その“出会い”を経験した洗礼者ヨハネがどのような生活をしていたのかについては、マタイによる福音書3章4節に記されています。
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
彼は、荒涼とした岩だらけの「荒れ野」で生活していました。人々は、最初は『風変わりな奴だな』と思ったでしょう。しかし、次第に彼の生活が神の言葉=聖書の預言と深く結びついていることに気づかされます。その語る言葉には飾りはありませんでしたが、偽りのない言葉として鋭く人々の心に届きました。やがて、次から次へと人々が彼の元を訪れるようになります。そして「悔い改め」のしるしとして、ヨルダン川で洗礼を授けるようになり、いつしか彼は「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになったのです。
その洗礼者ヨハネのところに、一人の方が来られました。主イエス・キリストです。そして洗礼を授けて欲しいと洗礼者ヨハネに願い出ました。目の前に立つそのお方に、彼はただならぬものを感じたのでしょう。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と返答し、思いとどまらせようとしました。しかし、主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになり、洗礼者ヨハネは、そのお言葉に従います。主イエスが洗礼を受けられて水から上がられると、神の霊=聖霊が主イエスの上に降ったのです。洗礼者ヨハネは、その目撃者であり、証人でした。その確かな“出会い”から、「この方こそ神の子である」という証しが生まれたのです。
19節以下の記述は、まず、洗礼者ヨハネ自身が何者であるかと問いかけられるところから始まっています。
ヨルダン川周辺、エルサレムを含むパレスチナ地方に住むイスラエルの民は、その当時、複雑な状況に置かれていました。形ばかりの「王」を立てることが許されていましたが、自治権は制限されており、実質的にはローマ帝国の皇帝の支配下にありました。ローマ帝国から税金が課せられ、徴収されたお金の使用方法については、イスラエルの民が口を挟む権利はありませんでした。そのような状況で、人々の間では、救世主(メシア)待望への願いが渦巻いていました。
人々は、洗礼者ヨハネについていろいろと噂をしました。『いったい何者なのだろうか?』 当時、エルサレムには神殿があり、信仰的指導者たちがいましたが、その噂は彼らの耳にも届きます。そこで彼らは、使いを出して、洗礼者ヨハネに「あなたは、どなたですか」と質問させたのです。
周囲から評価され、期待されることは、悪い気はしないものです。もちろん人は認められ、期待されることを通して成長する部分もあります。しかしこの状況において、何が自分に必要であるかを知り、何を人に伝えるべきかという点において迷いを持たなかった彼ははっきりと言いました。
「わたしはメシアではない。」(1:20)
すると「では何ですか。あなたはエリヤですか。」と人々は尋ねました。「エリヤ」は、旧約聖書に登場する預言者(=神の御心を受けとめて伝える者)の一人ですが、地上での働きを全うした時、天にあげられたという不思議な出来事が記されている関係で、特別な存在として覚えられていました。さらには旧約聖書の最後の書=マラキ書には、次のように記されています。
「見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。」(3:23~24)
人々は、メシア到来に先駆けて遣わされるというエリヤなのか? と尋ねたのです。しかし、彼ははっきりと否定しました。また、21節の「あの預言者」とは、申命記18章とつながっていると言われています。そこには、抑圧されていたエジプトからの脱出を導いた偉大な指導者モーセに等しい預言者が、やがて遣わされると約束されているのですが、その預言者なのかと尋ねられたのです。これにも彼は、きっぱり否と答えました。
なおも詰め寄る人々に対して、彼はイザヤ書40章3節(=旧約聖書箇所)を引用しつつ、自分は「荒れ野で叫ぶ声」だと言いました。「声」とは何を意味しているのでしょうか。コミュニケーションにおいて、声自体に意味があるというより、声が伝えるメッセージそのものに意味があることは言うまでもありません。つまり、洗礼者ヨハネは、自分という存在に人々の関心が注がれることを許さず、ただ、「主の道をまっすぐにせよ」という自分に託された主なる神様の御言葉のみに、人々の心を向けさせようとしたのです。
このように洗礼者ヨハネの証しは真剣そのものでした。そして、自分を伝えるのではなく、現在の自分が、主なる神様の御言葉によって存在していることを大胆に伝えました。自分は、後には何も残らない「声」にすぎないのだとまで語ったのです。それほどまでして、「この方こそ神の子」という思いを伝えたかったのです。
しかし、24節以下のやり取りを見ると、洗礼者ヨハネのその真剣な証しは、必ずしも人々の心に届いたようには思えません。「ファリサイ派」とは、「分離者」という意味を持っています。彼らは、律法に無知・無関心な人々と自分とを分離し、律法に即した宗教的日常生活を送ろうと励んでいた人々でした。マルコによる福音書7:1~5には、次のようなやり取りが記されています。
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」
昨今、新型コロナウイルスの関係で、外出から帰宅した時の手洗いが奨励されています。それは衛生学的に意味のあることですが、ここでの手洗いは、そうではなくこの世の様々な汚れからの“清め”を求めてのものでした。水での“清め”に関心のあった彼らです。洗礼も水を用いて罪からの“清め”と受けとめたのでしょう。洗礼を授けている洗礼者ヨハネが何の権威、誰の許可によってそのことをしているのか、強い疑問を感じたのです。洗礼者ヨハネが主の御言葉によって立っているということについては、一瞥しただけで素通りしてしまったのです。
26節をご覧ください。
「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」
洗礼者ヨハネは、自分の授ける水の洗礼の価値をめぐって人々と議論しようなどとは微塵も考えていませんでした。15節に「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである。」とあったように、ただ、自分の後から来られるお方のことだけを考えていたのです。「わたしよりも先におられた」とは、そのお方は神様の御子であって、天地万物を創造されたお方であることの告白です。そのお方は、33節にあるように「聖霊によって洗礼を授ける」お方なのです。聖霊による洗礼、その御業のあまりにも素晴らしいゆえに、自分の授けている水の洗礼をめぐって何か自己主張をしようとは思わなかったのです。自分の授けている水の洗礼と、主イエス・キリストのお授けくださる聖霊の洗礼を並べて語ることなど、考えられもしないことだというのです。
わたしたちも、いろいろな場面で、様々な議論に巻き込まれることがあります。確かに、語らなければならないときには声を出して語らなければなりません。しかし、もしわたしたちが、自分の正しさを勝ち取るためだけに議論を続けるとすれば、それはなんと空しいことでしょうか。主なる神さまの正しさがあります。主なる神さまが地上で実現しようとしていることがあります。その実現されようとしている神さまの正しさに比べたら、自分の正しさなど、なんと小さなことでしょう。そして、自分の関心のある議論に心を奪われている結果として、洗礼者ヨハネの「この方こそ神の子」という素晴らしい証しの前を素通りしてしまうようなことがあったとしたら、なんともったいないことでしょうか。
また、洗礼者ヨハネは、31節、33節に「わたしはこの方を知らなかった。」と2回繰り返しています。
救い主、メシアの到来は、わたしたちが「知っている」領域から生み出されたものではありません。洗礼者ヨハネですら、「知らなかった」のです。わたしたちは、「知らない」自分をなかなか認めようとせず恥ずかしく思い隠そうと考えがちです。しかし「知らなかった」という現実さえ、証しとなるのです。
洗礼者ヨハネがこのように真剣に証しをしたお方=主イエス・キリストが、わたしたちに「命」を与えてくださいます。聖霊による洗礼によって。
わたしたちも、この洗礼者ヨハネの証しの前を素通りせず、「この方こそ神の子」いう命がけの証しを受けとめたいと思います。洗礼者ヨハネの証しは35節以下に続きます。その証しを受けとめた弟子たちの登場です。
※ 読むための説教として、当日の内容に一部加筆、省略等の変更を加えています。ご了承ください。