イザヤ書56:1~8
マタイによる福音書21:12~17
櫻井重宣
新しい年、2017年を迎え、こうして礼拝をもってこの年の歩みを始めることができ感謝しています。
主の日の礼拝においてマタイによる福音書を学び続けています。12月の最初の日曜日に、イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたことを学びました。エルサレムに入城されたのは日曜日でした。
ただ今お読み頂いたマタイによる福音書の21章の12節には、「それから」とあり、イエスさまが神殿から商人たちを追い出したことが記されています。実は、マルコ福音書にはエルサレムに入城した次の日、月曜日の出来事として宮清めのことが記されていますが、マタイ福音書では入城された日曜日の出来事として記されています。軍馬、馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまが真っ先に向かったのは礼拝をささげる神殿であったこと、そして神殿に行ったとき、真っ先に目に入ったのは、神殿で商売人たちが大きな顔をして商売している光景だったのです。
ろばの子に乗って入城されるイエスさまの姿に、福音書を記したマタイは「柔和な方」と記していますが、ここに記されるイエスさまの姿は柔和とはほど遠く、荒々しく、激しい剣幕で商売人たちを追い散らすイエスさまです。
12節と13節をもう一度読んでみましょう。
《それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」》
今日の箇所は、宮清めの記事と言われます。どうしてイエスさまはこれほどまで激しい剣幕で商売人たちを神殿から追い出そうとされたのでしょうか。
イエスさまがエルサレムに入城されたのは、ユダヤの人々が最も大切にしている過越の祭りを数日後にひかえていたので、地方からたくさんの人々が巡礼にやってきていました。遠くから来る人々は、はるばる犠牲としてささげる牛や、羊、鳩を持ってくることができません。そのため神殿の境内でそれを買い求めます。中には遠くから動物を連れてくる人々がいましたが、いけにえとする動物には傷がついていないことが求められます。神殿に陣取った商売人は、どこかに傷があると、自分たちの持っている動物と交換させ、お金を要求します。また、当時ユダヤの国はローマの支配下にあったので、ローマの通貨で生活していますが、神殿にささげるのはユダヤの通貨です。そのため両替人が神殿にいて、彼らは両替を求められると少なからず利益をあげていたのです。商売人が大きな顔して商売できたのは、神殿の祭司たちとの結託、結びつきがあったことは否定できません。
ようやくの思いでエルサレムに到着し、礼拝をささげようとしている人たちを待ち構えて商売しようとする人たちにイエスさまはがまんできませんでした。
ところで福音書記者マタイはイエスさまが商売人たちを追い出されたとき、どういうことが起こったかを記します。このことを記すのはマタイだけです。
14節から16節を読んでみましょう。
《境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子どもたちまで叫んで「ダビデの子にホサナ」というのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」》
この箇所を読むと本当にえりをただされます。すなわち、イエスさまが商売人たちを追い出したあと、イエスさまのところに目の不自由な人たちや足の不自由な人たちが寄って来たので、イエスさまはその人たちをいやされ、子どもたちが声をそろえて「ダビデの子にホサナ」と賛美したのです。「ダビデの子にホサナ」というのは、イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入城したとき、出迎えた人たちが叫んだ賛美です。
どういうことかと申しますと、商売人たちが大きな顔をして神殿で商売しているとき、本当に助けを、いやしを必要としている人々は神殿に入って礼拝できませんでした。子どもたちも神殿から締め出されていました。そうした実情にイエスさまは憤り、怒られたのです。
イエスさまは、ろばの子に乗って入城されたときホサナと言って歓迎され、体の不自由な人をいやされたときホサナと歓迎されるのです。馬ではなくろばに乗って入城されるイエスさまを、苦しむ人、病気の人をいやされるイエスさまを人々は待ち望んでいるのです。
ところで、イエスさまはここで、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という聖書の言葉を引用しておられますが、これは先ほどわたしたちが耳を傾けたイザヤ書56章に記される預言者イザヤの言葉です。時間の関係で詳しくは学ぶことはできないのですが、イザヤ書56章をていねいに読むと大きな慰め、励ましを与えられます。
実はイザヤ書53章で、イザヤは「苦難の僕の歌」を歌っています。わたしたちの待ち望んでいる救い主、神さまがこの世界に送ってくださる救い主は苦難の僕だ、というのです。けっしてかっこうのいい人でない、けれどもその方は、わたしたちの背きのため刺し貫かれる、わたしたちの咎のため打ち砕かれる、そしてその方が懲らしめられることによってわたしたちにいやしが与えられる、そういう方だと歌いました。イエスさまのお生まれになる500年以上前です。
わたしの3,4年先輩で、地方の小さな教会の牧師をしながら旧約聖を学び、研究を続けた牧師がいます。本当に尊敬できる牧師です。彼は、自分は生涯かけてイザヤ書53章を学び続けたいと言っていましたが、わたしも同じ思いです。
預言者はこうした苦難の僕がメシアとして到来することを歌い上げることができたとき、54章、55章で苦しんでいる人に、悲しんでいる人に慰めが与えられると語ります。そして先ほどお読み頂いた56章では救いから遠いとされた異邦人、宦官も招かれています。メシアが苦難の道を歩むことによってどんなに苦しんでいる人も、病気の人も招かれる、異邦人も、宦官も招かれる、どの人も招かれる、わたしの家は、祈りの家だ,というのです。
まもなく十字架への道を歩もうとしてエルサレムに入城されたイエスさまが、大きな重荷、苦しみ、病を抱えている人、そして子どもたちが礼拝の場からシャットアウトされている現状を目の当たりにしたとき、祈りの家であるべき神殿が苦しみを持った人を招かなければならないのに、商売が優先し、その人々を排除していることにイエスさまは激しく憤られたのです。
わたしは、若いとき、秋田で奉仕をはじめて数年後、秋田の県南にある四つの教会の青年の修養会で、「怒るイエス」というテーマで話して欲しいと依頼されました。最初は困惑したのですが、準備するなかでいろいろ教えられ、考えさせられました。
このテーマで、真っ先に思い浮かべたのは、今日の宮清めの記事でした。また、
イエスさまがはらわたを揺り動かして苦しんでいる人の痛みを受けとめるとき、 スプランクニゾマイという語が用いられますが、この語がしばしば写本する人が「怒る」と書き換えている箇所があることが分かりました。あるいは、イエスさまに自分の子どもを祝福してもらおうとして連れてきた人々を弟子たちが叱ったとき、イエスさまは激しい剣幕で弟子たちを叱りつけました。ベタニア村のラザロが死んでその場に駆けつけたイエスさまは、死が支配しているかの現実に、二度も「心に憤り」を覚えておられます。イエスさまは、感情を激しく揺り動かされる方であることを青年たちと学ぶことができました。
あらためて今日の箇所では、商売人がのさばっている、神殿でも礼拝よりお金儲けに関心がいく、そして体の不自由な人や子どもたちが小さくなり、その人たちは礼拝の場から排除されている、そうした現状にイエスさまは内臓、はらわたを揺りうごかし、怒っています。イザヤの言葉でいうなら、神殿が祈りの家になっていません。そして、イエスさまは、そうした現実を抱え込み、御自分の担う課題として受けとめ、十字架の道を進もうとされているのです。
旧約聖書に「哀歌」という書物があります。「哀歌」はバビロンとの戦いでユダヤの国が負けたことを記念する礼拝の式文です。わたしたちですと、8月6日、9日、15日の記念集会の式文です。
この哀歌が最初に書かれたとき、神さまがいろいろな課題、苦しみを持つわたしたちのところにかがんで身を沈める、神さまが望みを持つことが困難なところに身を沈めるという言い回しがありました。けれども、写本家は耐えがたい、かたじけないと思い、そのため、以下のように書き直しました。
「どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」、と。
けれども、ヘブライ語の原文に記されるのは、神さまはわたしたちの苦しみ、痛み、悲しみのただ中に身を沈める方だ、というのです。
今日はマタイ福音書21章12節から17節を学んだわけですが、最後の17節はこうです。 《それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。》
ベタニアというと、マルタ、マリア、ラザロの家を思い起し、その家にお泊まりになったと考えてしまいます。けれども、ここで「お泊まりになった」という語は、「野宿した」という意味の語です。マルタの家ではないのです。野宿したので、次の18節にあるように「空腹を覚えられた」のです。
先週はクリスマスでした。イエスさまは飼い葉桶にお生まれになりました。 そのイエスさまが、神さまのご用をはじめて3年後、ろばの子に乗ってエルサレムに入城され、神殿で商売する人を追い出し、大きな苦しみを持つ人を礼拝に招かれ、御自分は野宿されました。そして数日後に十字架に架けられました。
パウロは、教会は、神が御子の血で贖いとられた群れだと語っています。イエスさまはどの人も招くために十字架にお架かりになりました。別の言い方をすればイエスさまが十字架にお架かりになったことによって、どの人も招かれている、それが教会だ、というのです。
新しい年、主の日毎に真実な礼拝をささげる、その礼拝にはどんな苦しみを持つ人も招かれている、そのことを願いつつ、教会生活をと願っています。