2017年1月29日 礼拝説教「殺してはならない」

出エジプト記20:13
ヨハネによる福音書3:16

櫻井重宣

 いつもその月の最後の日曜日に旧約聖書に耳を傾けており、数ヶ月前からは十戒、十の戒めを一つずつ学んでいます。今朝は、第6の戒め「殺してはならない」に思いを深めたいと願っています。
 実は数ヶ月前、マタイによる福音書の学びで、金持ちの青年の記事に耳を傾けました。あの富める青年はイエスさまから、「永遠の命を得たいなら、殺すな、姦淫するな、盗むな,偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたとき、「そういうことはみな子どもの頃から守ってきました」と胸を張って答えました。けれども、満たされない思いを抱いていたのでしょうか、イエスさまのところにやってきたのです。この青年に、イエスさまは今日これから学ぶ『殺してはならない』という戒めを守っている、と本当に言えるのか、そのことを問われたのではないかと思います。 わたしたち一人一人も問われているのではないでしょうか。

  ところで、この「殺してはならない」の「殺す」という言葉が聖書の中でどのように使われているかを調べた学者がいます。そうしますと、ある特定の殺害行為に用いられていることが分かったというのです。どういうことかと申しますと、個人的な恨みからくる殺害、共同体の生活を危険においやるような殺害、そういう殺害のとき、この語が用いられているというのです。ですから、人を殺すというすべての行為が禁じられているわけでないというのです。このあと21章を見ますと、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」「自分の父、母を打つ者は必ず死刑に処せられる」「人を誘拐する者は必ず死刑に処せられる」と、「死刑」という殺人は正当化されています。さらに旧約聖書を読んでいてどうしても理解できないのは、戦争が正当化され、なかには皆殺しが命じられていることです。
 そのためでしょうか。モーセを通して、『殺してはならない』を含む十の戒めが与えられているにもかかわらず、旧約の時代、そして2000年の教会の歴史で、戦争が肯定され、教会は戦争に勝利するよう祈っていた、そういう事実があります。原爆を投下するという任務をたずさえてエノラゲイが飛行場が飛び立つとき、従軍牧師は「全能の父よ、われらの願いを聞き入れたまえ。そしてわれらの敵と戦うために、大空高く飛び立っていく彼らを助け、守りたまえ。あなたのお助けによってこの戦争をすみやかに終わらせることができますように。そして我らに再び平和を与えたまえ」と祈りました。同時多発テロ事件のあとアメリカのブッシュ大統領は,日曜日の礼拝に出席したあと、「テロリスト」を殺せと命令し、戦争が始まりました。先日任務を終えたオバマ大統領は、大統領に就任する前、核兵器の無い世界をと演説し、ノーベル平和賞を受賞しました。けれどもイスラム過激組織ISが力をもってきたとき、ISを壊滅すると語り、壊滅作戦を展開しました。
 こうした歴史を見ると、『殺してはならない』という戒めがある一方、死刑や戦争が是認されることをわたしたちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。この第6戒をわたしたちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。

  実はわたしたちは聖書を読むとき、気がつかせられるのは、たとえば、聖書はイスラエル民族が中心になって記されていますが、旧約聖書のなかには小さな書物ですがルッ記、ヨナ書のように民族の枠を越えて愛し合うことの大切さを語る書物があります。
 そして、「殺してはならない」という戒めも、「殺す」ということを理由の如何を問わず、あってはならないこととして戒めていることが旧約聖書に記されています。神さまが最初にお造りになった人間アダムとエバから生まれたのはカインとアベルでした。そのカインとアベルが神さまへのささげものが受け入れられたかどうかということで、カインが弟アベルを殺してしまいました。聖書は、人間はどういうものか、見つめていますが、最初の人間の子、カインがアベルを殺してしまったというのです。そして、そのカインが、神さまから「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問われるのですが、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」としらばくれます。ようやく自分のしたことがどんなに重い,深刻な出来事であったかに気づき、カインが「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言いますと、神さまは,カインに出会う者がだれであれ彼を撃つことがないようにカインにしるしを付けられました。
 ですから創世記には、カインがアベルを殺すと言う人間の持つ本質的な弱さ、醜さが語られますが、だからといってカインを殺していい、殺さなくてはならない、とは語られないのです。
 わたしが広島に在任中、アメリカがテロに対する報復として戦争を始めたとき、当時の市長は8月6日の平和記念式典で、このカインのことを念頭に、報復の論理では世界に平和は実現しないことを、世界中に訴えました。  また旧約聖書を読み進みますと、預言者のエレミヤは為政者がバビロンとの戦争を始めようとしたとき、戦争をしてはいけない,降伏しよう、戦争を始めると多くの命が失われることを語りました。エゼキエルもそうです。神さまはどんな人の命も失われることを願わない、翻って生きよ、と語りました。
 すなわち,十戒で「殺してはならない」という戒めの心は,カインに神さまがしるしをつけたこと、エレミヤの降参しよう、戦争はやめよう、エゼキエルの翻って生きよ、という預言にこそ見られるのです。
 旧約の時代というのは、今から三千年から二千数百年前です。民族と民族が相争う時代に、戦いがくりひろげられるそうした世界のただ中で「殺してはならない」という戒めをモーセは神さまから与えられたのです。

  そして,聖書全体のことで言うなら、「殺してはならない」とお命じになった神さまがこの世界にイエスさまを贈ってくださったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3:16)とあるとおりです。
 そのイエスさまが、山上の説教で「殺してはならない」という戒めでこういうことをおっしゃいました。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した人はだれでも裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に対し腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に、『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は,火の地獄に投げ込まれる」(マタイ福音書5:21、22)、と。
 すなわち、「殺人」の根っこにあるようなことまで、イエスさまは問題にされておられます。神さまが、カインに象徴されるような弱さを、醜さを持ち、殺し合うこと、戦争を繰り返す人間になんとか、殺し合うことがないように、それどころか、相手を尊重し、愛し合うそうした歩みをして欲しい、そうした神さまの御心によってこの世界においでになったイエスさまは、「殺し合う」、その根っこにあるものを糺そうとされるのです。
  そしてイエスさまは最後的に、御自分が十字架の死を遂げ、どの人にも命を差し出されたのです。ですから、イエスさまは、先日マタイ福音書の学びで心に留めましたが、商売人の台をひっくりかえしたり、いちじくを枯らされましたが、だれに対しても死んでしまえ、とおっしゃったことはありませんし、死においやったことはないのです。どんなに人間が命を否定することがあっても、神さまは人の命を大切にする方なのです。神さまは人の命にノーとおっしゃいません。  今、夜の祈祷会で,ヨハネの黙示録を1章ずつ学んでいますが、正直言って大変です。しかし、迫害の激しい時代に、神さまがこの世界にどういう終わり、完成の時を用意されているか、そのことをヨハネはこの手紙の最後に書き記していますが、ヨハネは『新しい天と新しい地』を望み見て、その日は「神さまは彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる、もはや死はなく、もはた悲しみも嘆きも労苦もない」日だ、というのです。『殺してはならない』という戒めが実現するというのです。

 
 個人的なことを語ることをお許し頂きたいのですが、わたしの父は牧師でした。戦前、戦中、戦後の伝道の困難な時代に東北にあるいくつかの小さな教会で奉仕しました。今から18年前、87歳で亡くなりました。
 父が最後に感情を激しく動かしたのは亡くなる一、二週間前にアメリカがイラクを空爆したときでした。あまり声を出したり、感情を高ぶらせることが少なくなっていたのですが、テレビでこのニュースが流れたとき、「戦争はいけない」と怒りを露わにし、しばらくして空爆が終わったことを姉が伝えますと、「それはよかった」と大声を出して心から喜び、まもなく召されました。
 父は敗戦のとき、34歳でした。神学校の同級生4人のうち戦後牧師として奉仕したのは父一人だけでした。一人は戦死し、一人は戦時中、教会への迫害で心身ともに病んでしまい、もう一人は戦争に召集され、戦後帰ってきたのですが、戦争で人を殺したものがどうして命を,愛を語ることができようか、といって牧師職から退いてしまいました。父は、自分は召集されなかったが、あの時代を生きたものにとって、「殺してはいけない」という戒めを守ったと言えるのか、それが生涯の問いでした。
 今一つ、わたし自身のことですが、本日この場にいること、「殺してはならない」という題で説教することにつらい経験を持ち合わせています。牧師として40数年歩む中で、最もつらかったのは教会員が自ら命を絶ったことです。それから長い年月が経ちましたが、未だに牧師として申し訳ないという思いです。そしてそのご親戚から、正面きって、牧師は人を助ける仕事なのに、お前は人殺しだ、と言われました。言い訳することはできません。わたしのお世話になった牧師は、ご自分の子が自死したとき、牧師をやめようとしました。そのつらさが痛いほど分かります。
 神さまはどの人をも愛され、独り子イエスさまをわたしたちに下さいました。しかし、わたしたちの世界はそのイエスさまを十字架に追いやりました。「殺してはならない」とおっしゃる神さまの側に、イエスさまの側に痛みが、苦しみが、悲しみがあります。そうした痛み、苦しみを伴いながら、なお「殺してはならない」と、神さまはおっしゃるのです。ですから「殺してはならない」という戒めの根底にあるのは、わたしたち人間一人一人への神さまの切々とした愛です。
 父は戦時中に生きたものでありながら講壇に立ち続け、その息子のわたしは大切な羊を助けることができなかったのに牧師として今日まで歩んでいます。ふさわしくないものなのですが、「殺してはならない」という戒めの根底にある神さまの大きな愛を証しさせて頂きたいと願っています。

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