2010年7月18日 礼拝説教「極までの愛」

イザヤ書52:7~10
ヨハネ福音書13:1~11

櫻井重宣

 本日は、茅ケ崎南湖教会・茅ケ崎香川教会・茅ケ崎教会三教会の交換講壇として、茅ケ崎南湖教会の皆様とこうしてご一緒に礼拝をささげることができ、感謝しています。
 ただ今御一緒に耳を傾けたヨハネによる福音書13章はイエス様が十字架に架けられる前の晩、弟子たちの足を洗われた記事です。1節の最後のところに、「この上なく愛し抜かれた」とあります。ここは、文語訳で「極まで之を愛し給へり」と訳されていました。福音書記者ヨハネは、イエス様の十字架の贖いは神さまの極みまでの愛であり、それが象徴的に示されている出来事として、イエス様の洗足の記事を伝えようとしているのです。
 今朝は、神様の大きな、そして深い愛すなわち極みまでの愛に共に思いを深めたいと願っています。

   もう一度冒頭の1節をお読みします。≪さて、過越祭の前のことである。この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。≫
 「この世から父のもとへ移る御自分の時」は、いうまでもなく十字架の時です。十字架の時が来たことを知って、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたというのです。イエス様の弟子はいうまでもなく12人ですが、この洗足の記事が記される13章で12弟子の名前が出てくるのは、イエス様を引き渡したイスカリオテのユダとイエス様を三度知らないと言ってしまうペトロです。弟子たちとりわけイエス様を引き渡したイスカリオテのユダそしてイエス様を三度知らないと言ってしまうペトロをこの上なく愛し抜かれた、極みまで愛された、その出来事としてこの洗足の出来事があったことをヨハネは伝えようとしているのです。
 2節≪夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせたていた。≫
 ここに、ヨハネという福音書記者が一人の人を見るときの優しさがあります。ユダはどうしようもない人であったとか悪い人であったというのではなく、悪魔がユダの心にイエス様を引き渡す考えを抱かせたというのです。そして、「裏切る」と訳されている語は「引き渡す」という意味の語です。イエス様を引き渡したことが結果としてイエス様を裏切ったことになったので、「裏切る」と訳されるのですが、福音書を記したヨハネそしてマタイもマルコもルカも、思いは「引き渡す」でないかと思います。というのは、12弟子はイエス様が捕まったときみんな逃げてしまいました。誰一人、自分はイエス様を最後までお守りしたと言える人はいないからです。
3節を読みますとこう記されています。≪イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り≫、と。
 イエス様は御自分が神様のもとから来て、神様のもとに帰ろうとしています。そして神様のもとからこの世に来られたというのは、弟子だけではなく、すべてを、すべての人が委ねられたことです。そのすべての人を極みまで愛する、そのことを証しするために、イエス様は食事の席から立たれたのです。
 4節と5節はイエス様の本当にていねいな仕草、振る舞いが記されます。
≪食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。≫
 食事の席を立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水をくんで、身体をかがめ、一人一人の足をていねいに洗い、腰にまとった手ぬぐいでふいていかれます。
 弟子たちは、イエス様の突然のこうした振る舞いに驚き、声を出す事もできないままにイエス様に足を洗って頂いたのですが、ペトロは率直です。
 6~10節を読んでみましょう。
≪シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は全身が清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」≫
 歩けば足は汚れます、その足を洗うことによって、弟子たち、そして私たちとかかわりを持つとおっしゃるのです。もう少し言うなら、私たちとかかわりを持つのは足を洗うことによってだ、とおっしゃるのです。それだけでなく、足を洗わないと何のかかわりもなくなるとイエス様はおっしゃるのです。

 私は、イエス様が弟子たちの足を洗われたということで、お二人の文を思い起こします。
 お一人は哲学者の和辻哲郎先生の『土下座』という作品の一節です。
和辻先生のお祖父さんの地域では、葬儀の会場の出口で遺族が土下座して会葬者を送る風習があったというのです。そのお祖父さんの葬儀の後のことです。
 「狭い田舎道ですから会葬者の足がすぐ眼の前を通っていくのです。多くは銅色にやけた農業労働者の足でした。彼はうなだれたままその足に会釈しました。彼はこの瞬間にじじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と密接な交通をしているのを感じました。そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思われました。」
 お祖父さんは、こうした銅色にやけた足を持つ人と深く交わっていたのだ、だからこの足に土下座する振る舞いが本当にふさわしい振る舞いであることを思わされたというのです。
 こうした和辻先生の思いをもって、この洗足の記事を読むと本当に深い思いにさせられます。イエス様を引き渡してしまうユダの足を、イエス様を三回も知らないと言ってしまうペトロの足を、イエス様は身を低くして洗ってくださる、イエス様はそのことでそういう弟子たちと深い交流をされているのです。どんなに弱さをさらけだした人にも、挫折した人にも御自分の命を差し出してまで関わっておられます。極みまで愛しておられます。

   もう一人は小説家の高 史明さんが、今から四年前の新聞に『いじめられている君へ』というテーマで書いた文です。
高さんはわたしが若い時から励まされている方です。1974年に『生きることの意味』と言う本を出版されました。ご自分のおいたちを記した本です。生きる意味をなかなか見出すことができないなかから、人間の優しさにふれて生きることはすばらしい、若い人々に生きる意味を見出して欲しいと、切々と語っている本です。けれどもこの本を出版されて一年後、一人息子の長男の真史さんが12歳で自死してしまったのです。後に学校でいじめにあっていたことを知りました。なぜ、という思いを持ちながら、真史さんの残した詩を奥さんと一緒にまとめ、『ぼくは12歳』という本を出版しました。この本は、大きな反響をよび、読者から多くの手紙が届き、訪ねてくる中高生が後を絶たないといいます。
 『いじめられている君へ』で高さんはこう語ります。
≪ある日、玄関先に現れた女子中学生は見るからに落ち込んでいる様子でした。「死にたいって、君のどこが言ってるんだい。ここかい?」と頭を指すと、こくりとうなずきます。わたしはとっさに言葉をついでいました。でも君が死ねば頭だけでなく、その手も足もぜんぶ死ぬ。まず手をひらいて相談しなきゃ。君はふだんは見えない足の裏で支えられて立っている。足の裏をよく洗って相談してみなさい。
 数カ月後、彼女からの手紙には大きく足の裏の線が描かれ、「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩くことにしました」と書かれてありました。
 思えば、真史が最後までこだわった「じぶんじしん」とは、足の裏で支えられた自分ではなかった。そのことに気づかせてあげていれば——–。
 命は一つだから大切なのではなく、君が家族や友人たちと、その足がふみしめる大地でつながっている存在だから貴重なのです。切羽つまった時こそ、足の裏の声に耳を傾けてください。≫
和辻先生は、その人の足にその人の存在がかかっているとおっしゃいます。高さんは足の裏がふみしめる大地で、人と通じているとおっしゃいます。ユダがふみしめる大地と、ペトロが踏みしめる大地と、私たち一人一人が踏みしめる大地は同じです。
 イエス様が、そのひとりひとりの足を、身を低くして洗うことによって、その人とかかわりを持つと共に、ユダが、ペトロが、そして私たちが踏みしめる大地にイエス様も立ってくださったのです。そして、その大地に足をふみしめる一人一人を大切にしておられるのです。

   最後の11節≪イエスは、御自分を裏切ろう~引き渡そう~としている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。≫
 大切なことは、引き渡そうとしているものがだれであるかを知っておられたのに、その人の足をも洗われたということです。

 マラソンと言う競技があります。昔、マラトンで戦争があり、ギリシャが勝ちました。勝利の報告をいっときも早く都につたえるために、伝令がアテネまで走り、ギリシャは勝ったと伝えたとたん息が絶えてしまいました。そのことを記念してマラソンという競技が始まりました。マラトンからアテネまで42キロ195メートルだったので、マラソンは42キロ195メートルの距離を走るのです。
イザヤ書52章を記した預言者は、戦いではなく平和、救いを伝える者の足は 「いかに美しいことか」と語っています。パウロはこのイザヤの預言は、伝道する者の足だと言います。福音書を記したヨハネは、イエス様ご自身の足の美しさを語っています。ご自分の命と引き換えに私たちに命を下さったからです。
13章を読み進むと、14節で「互いに足を洗い合わなければならない」とあります。イエス様に足を洗って頂いた私たちは、その人の全存在がかかっている隣人の足を、身を低くして洗うことが求められます。その人の抱えている重荷に全存在をかけて関わることが求められています。

 宮澤賢治の『雨ニモマケズ』という詩にこう言う一節があります。
  「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
   南ニ死ニソウナ人アレバ コハガラナクテイイトイヒ
   北ニケンクワヤソショウアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ 
   サムサノナツハオロオロアルキ——-」
 この詩のモデルは、斎藤宗次郎というキリスト者です。斎藤宗次郎さんの姿に、足を洗い合う姿があります。
 イエス様は、私たちのどんなに汚れた足であっても、身を低くして洗ってくださり、私たちとの関わりを断ちません。私たちは極みまで愛された者です。私たちも他者の痛み、苦しみ、重荷に身を低くして関わるものでありたいと願う者です。 

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