イザヤ書57:18~19
ルカによる福音書1:67~79
櫻井重宣
アドヴェントクランツにろうそくが三本灯りました。来週はクリスマス礼拝です。福音書を書き記したヨハネは、クリスマスの出来事を「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、と記しています。「言」はイエスさまのことです。「宿る」という語には「テントを張る」という意味があります。イエスさまが私たちと同じ人間として私たちの間に宿った、テントを張ったというのです。神さまは独り子イエスさまをこの世界に誕生させるとき、権威をかざして、私たちの住まいの一番良い部屋、客間を自分の居場所として要求したのではありません。庭先のほんとちょっとした場所に、テントを張らせてください、そこで結構です、というつつましい姿勢でイエスさまがお生まれになった、それが福音書を書き記したヨハネのクリスマスのメッセージです。
イエスさまが飼い葉桶にお生まれになった場面を描いた絵は多くありますが、わたしが最も心深く思うのは、廃屋のような家畜小屋の飼い葉桶に横たわるイエスさまの顔の上に馬や牛がのぞきこんで、そのあたたかい鼻息で裸のイエスさまがあたためられている絵です。イエスさまの誕生は本当にそういう情景であったと思います。イエスさまは、旅先のベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。宿屋には泊まる場所がなかったからです。イエスさまは、二千年前、庭先の片隅に小さな花が人知れず咲くように、人知れずお生まれになったのです。
今では世界中でクリスマスが祝われておりますが、私たちは二千年前の最初のクリスマスの出来事に思いを深めつつ、クリスマスまでの一日一日心の備えをと、願っています。
ただ今、司会者にルカによる福音書1章67節~79節に記されているザカリアの預言、ザカリアの賛歌に耳を傾けました。ルカに福音書では、クリスマスの出来事は、年老いた祭司ザカリアと妻エリサベトに幼子が与えられることからスタートします。ザカリアとエリサベトは子どもを与えられることを願っていましたが、長い間与えられませんでした。ザカリアに子どもが与えられることが伝えられたのは、神殿において祭司の務めをしているときに天使からでした。けれども、ザカリアは自分も妻のエリサベトも年をとっていましたので、すぐには天使の言葉を信じることができませんでした。ザカリアはそのため口がきけなくなってしまいました。
ザカリアの妻エリサベトが男の子を産んだ時、ザカリアは天使が命じたように幼子にヨハネと名付けました。そのときザカリアは10ケ月ぶりに口が開き、舌がほどけ、神さまを賛美しました。そのときの賛美がこの預言です。ここには幼子ヨハネがどういう使命を神さまから与えられているのかということと共に、ヨハネの数カ月後に誕生する救い主の到来によって示される神さまの御心が、どんなに憐れみに富んだものであるかが歌われています。このザカリアとエリサベトから生まれたヨハネは、後にバプテスマのヨハネと言われる人で、ヨルダン川沿いの荒野で禁欲的な生活をしつつ、人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川でバプテスマを授けつつ、イエスさまがおいでになる、その道備えをなした人です。
ザカリアの預言に思いを深めていきたいと思います。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」
ところで、「ザカリア」という名前は、神さまが覚えている、記憶している、という意味です。ザカリアは、自分とエリサベトの間に幼子が誕生するだけでなく、エリサベトを通してマリアの胎内に救い主が宿っていることを知らされ、神さまは自分の名前に言い表されているように、私たち一人一人を覚えていてくださった、そのことを賛美するのです。このことは、預言者たちが何百年も前から繰り返し、繰り返し語ってきたように、私たちのところに神さまが訪れてくださったのだ、いろいろな縄目から解放してくださったのだ、神さまが私たちと結んだ約束を覚えていてくださったのだ、そうしたことが実現するのだ、と歌うのです。
イスラエルの歴史を見ますと、バビロンとの戦いに敗れた後、捕囚となり半世紀以上バビロンでの生活を余儀なくされました。ようやく、捕囚から解放されましたが、その後四、五百年の間、暗い時代を過ごしてきました。ザカリアの人生は、まさにバビロンとの間の戦いに敗れたあとのイスラエルの歴史を象徴するかのような人生でした。そのザカリアが晩年、神さまが私たちの民と結んだ契約を覚えていてくださったのだ、私の長い人生の間に神さまの御心が分からない、神さまがわたしを忘れたのではないかと思う時もあったが、そうでなかった、神さまはわたしを覚えていてくださった、そのことを体全体が震える思いで告白するのです。
「神さまが覚えて下さっている」「神さまは私たちを忘れない」、そのことが救い主の誕生で確かなこととなったということは本当に感謝なことです。昨日もご高齢になり一言もおっしゃらない方、大きなご病気を幾たびも経験し、会話がなかなか思うようにならない方を見舞いました。こうした方をお訪ねするとき、神さまはわたしたちがどのような状態になっても覚えていて下さる、忘れない方だ、ということは大きな慰めです。
さて、76節と77節で、わが子ヨハネの使命が語られます。
「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」
ヨハネは救い主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからだというのです。ここで心深く思わされることは、ザカリアは、ヨハネが「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と語っていることです。ヨハネは先程も心に留めたように、荒野で禁欲的な生活をしながら人々に悔い改めを迫った人です。けれどもザカリアは「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ことがヨハネの使命だと語るのです。罪を弾劾するのではなく、「罪の赦しによる救い」を知らせることにヨハネの使命があるというのです。
それは、救い主としてお生まれになるイエスさまがどういう方かを示されたからです。最後の78節、79節は救い主の誕生はどういう出来事かということが歌われます。こう歌われています。
「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
ザカリアは、救い主の誕生は、我らの神の憐れみの心による、というのです。ザカリアの思いをていねいに知るために、用いられているギリシャ語を紹介しますと、72節と78節の「憐れみ」は「エレオス」という語です。ラテン語で、「キリエ、エレイソン」と歌われるのをお聞きになったことがあると思います。「キリエ」は、主よ、です、「エレイソン」は、憐れみたまえです。ですから、「キリエ、エレイソン」は、「主よ、憐れみたまえ」という讃美歌です。そして「憐れみの心」の「心」は「スプランクナ」です。内臓とか、はらわたを意味します。新約聖書では、イエスさまが憐れむというとき、スプランクナが用いられることがよくあります。イエスさまは、からだの最も深いところ、内臓でその人の痛み、苦しみを受けとめられる方だからです。日本語でも、断腸の思い、はらわたがにえくりかえる、という言い方があります。
ザカリアは、救い主の誕生は神さまのスプランクナからの憐れみとしかいいようないことだ、というのです。すなわち、イエスさまが貧しく小さくお生まれになったということは、私たちがどんなに小さく、貧しい存在かということ、すなわち、暗闇と死の陰に座している者であるかを明らかにします。けれども、強い光で、あかりをこうこうと照らし、あなた方はこんなに弱い人間だ、罪深い存在だ、だめな人間だ、というのではなく、イエスさまの誕生によって灯された光はあけぼのの光だ、あけぼのの光で私たちがどんなに暗闇と死の陰に座したものかを明らかなるが、朝の光が昇ると、そうした私たちの存在が光に包まれるのです。すなわち、破れを、弱さを持つ私たちと、イエスさまはどんなときにも共にいてくださり、私たちをだれをも傷つけることがない、平和の道、命の道を歩むことができるよう導いてくださる、とザカリアは語るのです。
最近、朝鮮半島が緊迫しているためアメリカと韓国、さらにアメリカと私たちの国の軍事演習が繰り返されています。有事に備えるためだというのですが、ああした演習は結局のところ人を殺すためです。イエスさまは貧しく、小さくお生まれになったので誰をも傷つけません。
神さまはわたしたちの痛みを小指一本で受けとめることもできるお方かもしれません。しかし、神さまはそうなさいません。最初にご紹介した絵でいうなら馬や牛の鼻息で暖められなければ、誰かがミルクを持ってこなければこごえ死んでしまうような寒さの中でお生まれになったのです。それほどまでして、すなわち、神さまがスプランクナの心で私たちに関わって下さったのがクリスマスなのです。誰をも傷つけないかたちでお生まれになったので、その光を真に見つめるとき、どんなに暗闇に座している私たちもなお平和の道へと導かれるのです。
最初に預言者イザヤの預言に耳を傾けました。預言者はこう語っていました。
「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼を癒す、と主は 言われる。」
クリスマスは、神さまが私たちの道を見てくださったときです。いやし、休ませ、慰めを与えてくださる、それだけではなく、遠い者にも、近い者にも平和、平和を差し出された出来事です。預言者が望み見た救い主がイエスさまの誕生によって実現したのです。
1944年、ボンヘッファーが獄中で書き記した説教の一節を思い起こします。ボンヘッファーはヒットラーに抵抗し、獄に捕われていました。いつ絞首刑になるかわからない、不安の日々を過ごしていました。そうした中で、こう書き記しています。
「神はわれわれの道を見られた。そしてわれわれが傷つき、迷い、不安にさいなまれているのを見られた。今、神はわれわれをまさにいやそうとしておられる。過ぎし時にわれわれを苦しめた傷に神がさわってくださる。そして傷は癒される。もはやそれは痛まない。神はわれわれを慰めようとしておられる。人間がどうしたらよいかわからなくなっているその時に、生の無意味さが人間を不安にさせるその時にこそ、神は慰めてくださる。『わたしは癒し、また導き、また慰める。あなたがたの道を見たからである。』神はわれわれの生にいくたびとなくそのようになさらなかったであろうか。」
ボンヘッファーは、この世界は、神さまが独り子イエスさまを贈って下さった世界だ、クリスマスの時に誕生したイエスさまは十字架の道を歩まれ、甦られた世界だ、だから、今、獄中にあっても、神さまはわたしたちの道をごらんになっている、いやし、休ませ、慰めをもって回復させてくださる、というのです。
クリスマスの恵みを心深く覚えつつ、この一週間過ごしていきたいと願うものです。