2010年10月8日 礼拝説教「一人の苦しみ、一人のうめきに心動かす神」

出エジプト記3:7~8
フィリピの信徒への手紙2:5~11

櫻井重宣

 先週、南米のチリの鉱山で地下700メートルに閉じこめられていた33人の方々が二カ月ぶりに救出されました。家族の方々は事故が発生し、地下に閉じこめられてから、いてもたってもいられないような日々を過ごしておられただけに、救出されたときの喜びは本当に大きいもので、世界中の人々がその喜びを、感動を共にしました。
 こうしたことは遠い世界の出来事だけでなく、私たち一人一人もそうです。家族の一人が、親しい友が病気になったとき、困難に直面した時、私たちは取り乱し、右往左往します。
 今朝は、秋の伝道礼拝として、皆さんとこうしてご一緒に礼拝を捧げているわけですが、今朝心に留めたいことは、聖書の神さまは、一人の人が苦しむとき、一人の人がうめくとき、一人の人が涙するとき、心動かす方だということです。神さまという方はそれほどまでに私たち一人一人を身近に覚え、私たち一人一人を愛しておられる方だからです。

 先程、聖書を二箇所読んで頂きました。最初に耳を傾けた出エジプト記3章にこう記されていました。
 「主は言われた。『わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。』」
 この頃、イスラエルの民は、エジプトで奴隷のような生活をおくっていました。神さまは、エジプトにいるイスラエルの民の苦しみをつぶさに見、そしてエジプト人の虐待に耐えかねて、神さま、助けて下さいと叫ぶ叫び声を聞き、その痛みを知ったというのです。神さまはその痛みを知るだけではなく、天から降ってイスラエルの民を乳と蜜の流れる地に導き上るとおっしゃっています。
今月の31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日、マルティン・ルターは、当時の教会が、聖書に記されていることに大きく逸脱した歩みをしているのではないか、聖書に立ち帰ろう、といって抗議した日、プロテストした日です。そのルターが語っていることで、私がいつも感銘深く思い起こすことがあります。どういうことかと申しますと、私たちが、大きな苦しみに直面したとき、神さまに祈ろうと思っても、祈れません。そうした苦しみの中で、「神さま」と声にならない声でうめくとき、その小さな、か細い「神さま」という声が、天上では雷が鳴り響くような大きな音で響き渡っている、とルターは言うのです。すなわち、神さまは偉い方なので、私たちがお札を買ったり、捧げものをもっていって、何度も何度も頭を下げて、はじめて、ではお前の願いを聞いてやろう、というような方ではない、苦しみの中でかすかにうめく声を聞いてくださる方だ、神さまはそれほど身近におられる方だ、とルターはいうのです。

 ところで、イスラエルの民がエジプトで苦しんでいたとき、神さまはモーセを、イスラエルの民をエジプトから導き出すリーダーとして立てようとしました。モーセは使命の重さを覚え、その任にあらずと何度もお断りするのですが、神さまはどんなときにも「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されました。その神さまの約束に励まされて、モーセはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、カナンの地を目指す旅に出ました。けれども荒れ野の旅で、次から次と困難に直面しました。そうした旅の間、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束された神さまは、寝ずの番をされたということが出エジプト記を読み進みますと記されています。子どもが病気のとき、親が寝ずの看病をするように、夫が病気のとき妻が、妻が病気のとき夫が、寝ずの看病をするように、神さまは寝ずの番をされ、イスラエルの旅を守り続けて下さいました。
 こうしたことが背景にあるからでしょうか。聖書にいにしえの詩人が歌った詩がまとめられている『詩編』という書物がありますが、その詩編の詩人も、「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない」と歌っています。

   イエスさまがお生まれになる数百年前、イスラエルの民は戦争に敗北するという苦しみを幾度も味わいました。国土が踏みにじられる、多くの国民が戦死する、捕虜となって連れて行かれる、そうした苦しみに合わせ、子どもたちは死の恐怖に慄きました。預言者の一人は神さまにこういうお願いをしました。
 「どうか、天から見下ろし 輝かしく聖なる宮から御覧ください。
 どこにあるのですか あなたの熱情と力強い御業は。
 あなたのたぎる思いと憐れみは 抑えられていて、わたしに示されません。
 ——– どうか、天を裂いて降ってください。」
 「たぎる思い」というのは、《はらわたがたぎる》《はらわたが揺り動く》という意味です。預言者にとって神さまという方は、何かことが起こると、体全体、もっというなら体の最も深いところにあるはらわたを揺り動かし、そのようにして私たちの苦しみ、痛み、悲しみを受けとめてくださる方なのです。ですから、この預言者は、神さま、今の時代は本当に病んでいます。神さま、天からこの世界を御覧になってください、神さま、あなたの憐れみを抑えていらっしゃるのですか、抑えないでください、そして、天から見下ろすだけでなく、天を裂いて降ってください」と祈っています。
 二千年前にイエスさまがこの世界にお生まれになったということは、神さまが一人の人の苦しみ、一人の人のうめき、一人の人の涙に心を動かされ、はらわたを揺り動かし、天を裂いて降ってきた出来事だと言うことができます。

 先程、御一緒に耳を傾けたフィリピの信徒への手紙2章の6節から11節は、 「キリスト賛歌」と言われます。当時の教会で歌われていた讃美歌がここに挿入されたのではないかと言われます。もう一度前半の部分を読んでみます。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」
イエスさまは、神さまの身分でありながら、神さまと等しいものであることに固執しようとされなかった、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順であったというのです。神さまの独り子イエスさまは、身を低くして、御自分が十字架の道を歩んでまで、十字架の死を遂げてまで、私たち人間の苦しみ、痛み、悲しみを担ってくださった、このことを初代の教会の礼拝では、繰り返し歌われていたのです。

 私は、このフィリピの教会に宛てた手紙に記されるキリスト賛歌を読むとき、写真家の土門拳さんの文を思い起こします。土門さんが平泉の中尊寺の写真を撮るときの思いを記した文です。わたしは岩手県の一関という町で生まれたのですが、平泉は一関の隣りの町です。
 「がんらい、僕は寒い所には冬に行くと主張し続けてきた。冬には寒い地方を撮る、というのは、相手方に対してではなく、あくまで僕の側の問題なのである。寒いときには寒いところにいなければ、こちらの側の腰が坐ってこない。寒さに震えながらカメラを構えないと、写真に血が通わないのである。」
 土門拳さんは山形の酒田の出身です。北国の寒さの厳しさを生まれた時から味わっていたので、こうした文をお書きになったものと思います。
 イエスさまは旅先の馬小屋でお生まれになりました。そして、最後は十字架に架けられて殺されました。土門さんの表現でいうならイエスさまは腰をすえ、身を低くして、全力で私たちの苦しみ、悲しみを、痛みを受けとめてくださったのです。寒さのなかで、身をぶるぶる震わせながら、血を通わせながら私たちに関わってくださったというのです。初代の教会は礼拝で繰り返しそのことを歌っていたのです。 

 私は今申し上げたように岩手県生まれなので、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』という詩に心を惹かれ、よく皆さんに紹介します。
 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 
 雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク 決シテ嗔ラズ イツモシズカニワラッテイル
 ——–
 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
  南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ
  北ニケンカヤソショウアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ クニモサレズ
  ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」

 実は、この詩のモデルは花巻のキリスト者、斎藤宗次郎さんではないかと言われています。斎藤宗次郎さんは、宮澤賢治より19歳年上で、二人の間には親しい交わりがありました。
 詳しくは御紹介できませんが、斎藤宗次郎という方はこういう方です。
 岩手県の花巻で1877年、明治10年にお生まれになりました。お父さんは住職です。高等小学校4年のとき、校長先生から内村鑑三の不敬事件を聞き、内村鑑三は国賊だと思ったというのです。その後、師範学校に在学中、内村鑑三の本を直接読み、そして内村先生と手紙のやりとりを繰り返し、斎藤宗次郎さんはキリスト教の信仰を持つにいたりました。当時の花巻ではキリスト者であるということだけで迫害される時代でした。さらに斎藤さんが小学校で聖書を教えたということで、『岩手日報』という地方新聞は、当局はキリスト者である教育者を厳罰に処すべしと論じたほどです。ついに1904年28歳の斎藤さんは学校の教師を退職せざるをえなくなり、内村の勧めで新聞雑誌取次店を開業しました。
 花巻で斎藤さんに対する迫害は続き、長女の愛子さんは8歳のときヤソ教徒の娘だというので、お腹を強く打たれ、それが原因で天に召されました。亡くなる前、愛子さんは「神は愛なり」と書いて息を引き取りました。斎藤宗次郎さんは92歳で召されるまで、二万頁を超える日記を書いていましたが、その日記は二つの荊、「二荊日記」と題をつけていました。イエスさまは荊の冠をかぶらされたが、自分は第二の荊の冠をかぶるのだという意味です。
 斎藤宗次郎さんは50歳のとき、花巻から東京に移り、それから内村家の公私の手伝いをし、内村鑑三が亡くなった後は、内村全集発行の実務を担い、その後は御自分の伝道誌『基督信徒之友』を発行し、全国のハンセン病療養所や結核療養所の方々を励まし続けました。茅ケ崎の南湖院にもしばしば訪れました。
 実は28歳から50歳までの新聞取次店の時の様子を斎藤宗次郎さんの妻、仁志(ひとし)さんが書いた文があります。
 「私たちの店は小学生、女学生の通路になっています。冬雪が積もる頃になりますと、斎藤は小学校まで雪を掻いて道をつけます。吹雪のときなど小さい子どもは泣きだします。そんなとき斎藤は両脇に子どもを抱えて校門まで走ります。これを何回となく繰り返します。新聞配達の帰り路には病人を見舞い、気の毒な人を慰め、道に遊ぶ子供には甘い物を与えて可愛がり、人目に目立たぬ行動をしました。斎藤と宮澤賢治さんは19年の年齢の隔たりがあり、信ずる宗教こそ違いがありますけれど大変親しくありました。」
 そして奥さんも認めているのですが、『雨ニモマケズ』のモデルは斎藤宗次郎さんだと言われていた、というのです。
 すなわち、今から110年前、東北の花巻で一人の人がキリスト者となりました。町の人は驚き、迫害し、教師を辞めさせました。それだけでなく、幼い子どもさんのお腹を強く打って死に至らせました。しかし、その人はイエスさまが荊の冠をかぶらされ、十字架の道を歩み、それほどまでして私たちを愛し、命を与えてくださったのだ。私も第二の荊の冠をかぶり、花巻の町の人々を愛そう、と。そして、雨の日も雪の日も新聞を配達し、寒さで震える子どもたちを学校まで送り届け、病気の人を励まし、多くの人の相談相手となったのです。
 苦しむ人、悲しむ人、病める人の友として早朝から夜遅くまで歩み続けた斎藤宗次郎さんを通して、花巻の人はイエスさまがどういう方かを知らされ、宮澤賢治をはじめ多くの人が、その生き方に惹かれ、「ソウイウモノワタシハニナリタイ」と言うのです。

 今日は伝道礼拝として、皆さんと御一緒に神さまは、一人の人の苦しみ、一人の人のうめきに心動かす方だ、ということを心に留めてきたわけですが、最後に、ジョルジュ・ルオーの「郊外のキリスト」という絵についてお話します。この「郊外のキリスト」は東京駅の八重洲口にあるブリジストン美術館で直接ご覧になった方もいらっしゃるかと思います。場所は郊外、時は夕暮れです。子どもが二人描かれています。迷子になったのでしょうか。夕暮れになって子どもたちは不安な様子です。その子どもたちのそばにイエスさまが描かれています。ルオーは、イエスさまは不安を覚える子どもたちをひとりぼっちにしない、ぼうや、まいごになったの、お家まで送っていってあげるよ、と声をかけてくださる方だ、というのです。
「郊外のキリスト」を描いたルオ―は、晩年、「聖書の風景」「夕暮れ」「晩秋」という絵を描きました。「郊外のキリスト」とほとんど同じ構図です。どこにもある、ありふれた風景です。何人か描かれていますが、その一人はキリストです。「郊外のキリスト」と違って色は黄色や美しい青です。空には夕日が描かれています。画面全体に光があります。ルオーは、人生の夕暮れにキリストがおられる、どの人も光で包まれている、どんなにつらいときにも、苦しいときにも、病気の時にも苦しみを、うめきを共にされるイエスさまがいる、そういう風景の中にわたしたち一人一人が立っている、というのです。ルオーの信仰告白そのものです。
イエスさまは、私たちの身近におられる方です。苦しむとき、うめくとき、心を動かしてくださる方です。そのイエスさまに励まされて、人生の旅を続けて参りたいと願うものです。

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