創世記4:13~16
マタイによる福音書8:28~34
櫻井重宣
ただ今、マタイによる福音書8章28節~34節を司会者に読んで頂きました。ここには、嵐に直面しながらもイエスさまがガリラヤ湖の向こう岸のガダラの地方に着いてす ぐ、悪霊に取りつかれた二人の人がやってきたこと、そして悪霊とイエスさまとが激しいやりとりをし、悪霊どもはその二人から出て、豚の群れに入り、豚はみな湖になだれ 込み、豚も悪霊も死んでしまったこと、そしてそのことに恐れをなした町中の人からこの地方から出て行くように、イエスさまは求められたことが記されています。
イエスさまは、たとえ二人であったとしても、その人たちが癒されるために多大な労力を、時間を費やされる方であったこと、結果として町から追い出されたとしても、 その人たちが癒されることを最大の願いとされる方であったこと知ることができます。
今、私たちの国でも、世界でも、悪霊の活躍としか思えない出来事が相次ぎ、心痛む日々を過ごし、神さまの御心を問う私たちです。今一度、聖書の語ることに静か に耳を傾けたいと願っています。
もう一度、冒頭の28節をお読みします。
《イエスは向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその 辺りの道を通れないほどであった。》
嵐に直面し、波にのまれそうになり、滅んでしまうのではないか、そうした恐怖を覚えたイエスさまと弟子たちは、ようやくの思いでガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地 方に着きました。ガダラはガリラヤ湖畔東南に位置した町です。舟から下りたイエスさまのところに真っ先にやってきたのは悪霊に取りつかれていた二人の男の人でした。 この二人の人は非常に狂暴で、墓場を住みかとしていました。あまりに狂暴なので、町の人から、家族から墓場に追いやられていたのです。二人があまりにも凶暴なため、 だれもその辺りの道を通れないほどでした。
ひとりの若い精神科の医者が、病院に勤務するようになって、真っ先に衝撃を受けたのは、30年も40年も入院している患者さんがいるという現実であった、と語ってくれ たことを思い起こします。心の病のため暴力を振るったりして家族が限界を覚え、入院したものと思われますが、その後も、家族が不安を覚え、家に帰ることができない、 そのうちに親も高齢になり、そのため人生の大半を病院で過ごす人がおられるというのです。実際、わたしの関わりのある人も、40年近く入院しておられます。その方は20代 の時から入院していますので、人生の三分の二は入院生活です。墓場を住みかとしている人というと、わたしはいつもその人たちのことを思い浮かべます。
29節をみますと、この二人の人は突然叫びました。
《「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時でもないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」》
この二人というより、二人に取りついている悪霊は、イエスさまに「神の子」と呼びかけます。イエスさまを、神の子と認めたのはマタイ福音書ではこの二人が最初です。 ここまでのところで、誰も、イエスさまを神の子と告白していません。イエスさまの弟子ペトロがフィリポ・カイサリア地方に行くとき、「あなたはメシア、生ける神の子です」 と答えていますが、このペトロの告白が記されているのは16章です。けれども悪霊は、お会いしてすぐイエスさまがだれであるか、見抜いたのです。
そして、悪霊は「かまわないでくれ」と言います。「かまわないでくれ」というのは、原文をそのままに訳すと、「私たちとあなたにどんな関わりがあるのか」、 という意です。あなたとわたしには関わりがないのに、どうして介入するのか、放っといてくれというのです。
実は、このせりふはイエスさまもおっしゃっています。ヨハネ福音書に、イエスさまと弟子たちがカナで行われる結婚式に招かれたときの記事があります。イエス さまのお母さんもそこにいました。結婚式の最中にぶどう酒が足りなくなりました。マリアさんとその結婚式を行っている家族と親しい交わりがあったのでしょうか、 結婚式を行っているその家族が困った様子を見て、マリアさんがイエスさまに、「ぶどう酒が足りなくなりました」と言いました。そのとき、イエスさまは「婦人よ、 わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃったのです。なにか冷たい響きを私たちは覚えます。このイエスさまの言葉も、 「あなたとわたしに何の関わりがあるか」という言葉です。
けれども、わたしたちはこの悪霊の言葉とイエスさまの言葉に共通することがあることに気がつきます。
先ず、カナの結婚式でのイエスさまですが、「婦人よ、あなたとわたしにどんな関わりがあるのですか」とおっしゃったあと、「わたしの時はまだ来ていません」 とおっしゃっています。すなわち、時が来たら関わるとおっしゃるのです。ヨハネ福音書で「わたしのとき」とイエスさまがおっしゃるのは、イエスさまが十字架に お架かりになる時です。十字架のとき、ご自分の生命を注ぎ出してまで私たち一人一人に関わる、介入する、愛するというのです。
マリアがなお召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いますと、イエスさまは召し使いたちに、六つおいてあった大きな水がめに 水をいっぱいいれなさいとおっしゃいました。召使いたちは井戸でくんだのでしょうか、わき水を汲んだのでしょうか、何度も何度も汲みにいってようやく六つの水がめに 水を満たしました。そして結婚式の世話役が味見しますと、とてもおいしいぶどう酒になっていました。福音書記者ヨハネはこれがイエスさまのなされた最初のしるしだと いうのです。十字架の時のしるしだというのです。 十字架のとき、イエスさまは私たちに介入され、わたしたちひとりひとりに、赦しを、生命を与えてくださるのですが、水をぶどう酒に変えられたのは、その最初のしるし だというのです。イエスさまは十字架にお架かりになって、わたしたちに赦しを、喜びを、希望を、命を与えてくださったのです。
今日の箇所でもそうです。悪霊はその時がきたら、といいます。その時は、終わりのときです。悪霊は、終わりの時がきたら、わたしたちが滅ぼされ、あなたがご支配な さることはわかっています、けれども、まだそのときでないのに、ここにおいでになって私どもを苦しめるのですか、まだ、介入しないでほしい、と悪霊はいうのです。
このように悪霊は、イエスさまが神の子であること、終わりのときには、天におけるように地に神さまの御心がなされる、神さまの国が到来することを知っているのです。
けれども、神の子であるイエスさまが目の前においでになったとき、悪霊は、ちょっと早すぎると思い、狼狽します。狼狽した悪霊が見渡すと、はるかかなたで多くの豚 の群れがえさをあさっているのが見えました。そこで、悪霊どもはイエスさまに、「我々を追い出すのなら、あの豚の群れのやってくれ」と願いました。イエスさまが、 「行け」とおっしゃると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入りました。そうしますと、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、悪霊も豚も水の中で死んでしまいま した。大切なことは、悪霊につかれていた二人から悪霊が出て行って、二人は正気になったことです。
驚いたのは豚飼いたちです。マルコ福音書はこのとき、崖を下って湖になだれ込んだのは二千匹ほどの豚であったと記されています。現在、豚一匹の値段は、4、5万円です。 二千匹とすると一億円位になります。豚飼いたちは、損失の大きさに驚き、逃げ出して、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせました。そうしますと、 町中の者がイエスさまに会おうとしてやって来て、イエスさまを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言って。9章を見ますと、イエスさまと弟子たちはまた舟に乗っ て、湖を渡り、自分の町、カファルナウムに帰って行かれました。たった二人をいやされただけで、舟に乗ってカファルナウムに戻られたのです。 今日の箇所にはこういうことが記されているのですが、いくつかのことを心に留めたいのです。 まず、悪霊に取りつかれ、非常に狂暴で、だれも辺りの道を通れないほどであった二人の人が癒されたことです。追い出されたのは悪霊であって、この二人は癒されたのです。 12章28節で、イエスさまが、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とおっしゃっていますが、神の国は完成し ていませんが、始まっているのです。 けれども、町の人は二人が癒されたことという事実が受け入れられず、豚飼いも町の人も損失したお金の多額なことに思いが行き、町中の人、町のすべての人が、ひとり残ら ずやって来て、イエスさまにこの地方から出て行ってもらいたいと頼んだのです。
最近、イスラム国のことで心を痛めていますが、こうしたニュースで気になることは、イスラム国に罪を償わせる、イスラム国を壊滅するということが国を代表する人の口 から出ていることです。 先日イスラム国に殺された後藤健二さんがかつてこういうことを言っておられます。 「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たち だった。」
先程、創世記4章に記されるカインの記事に耳を傾けました。 弟アベルを殺したカインが神さまに「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日あなたがわたしをこの土地から追放なさり、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、 わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言いました。弟アベルを殺すという罪の大きさにおののいたカインの言葉です。しかし、神さまはカインに出会う 者がだれも彼を撃つことのないようにカインにしるしを付けられたというのです。カインに代表されるような弱さを、醜さを人間だれしも持っています。わたしたち人間はカ インの末裔です。だれにもカインと同じようにしるしがつけられているのではないでしょうか。神さまがカインにしるしをつけられたということは、どんなに憎むべき出来事 に直面しても人間は報復してはならない、憎んではならないというのが聖書の語ることです。報復するとまた報復されます。報復の連鎖は断ち切らなければならないのです。 その人が憎むべきことをしているのは、豚二千匹を動かすほどの悪霊がその人に取りついているからです。
後藤さんのおっしゃるように、裁きは神さまの領域です。イエスさまは悪霊に豚の中に行けとおっしゃり、そのため多くの財産、お金が失われたのですが、悪霊に取りつかれ た人が回復しました。裁きはイエスさまにお委ねして祈らなければならないのです。
悪霊の働きはいろいろな方面に及びます。74年前、アメリカは日本に真珠湾攻撃をされ、第二次大戦に参入することを議会で決議したとき、反対したのはジャネット・ラン キンさんという女性議員一人だけでした。388対1でした。そして、2001年の同時多発テロのあと、ブッシュ大統領がどんな軍事力を使ってもよいことを決めたとき、 上院では反対がゼロでした。下院では、バーバラ・リ―さんという黒人の女性議員がたった一人反対しました。420対1でした。報復せよ、というのは悪霊の促しです。 先週、子どもさんが殺され、一人の青年が逮捕されました。そうしたときに、すべての人がその青年を憎しみます。子どもさんが殺されるというのですから、当然です。 けれども、その青年に取りついている悪霊が追い出されるようわたしたちは祈らなければなりません。もちろん、子どもさんの命を守れなかったわたしたちは、その子ども さんに、そのご家庭に心からお詫びしなければなりません。 今日の箇所でも町の人がすべてイエスさまにこの町から出て欲しいと願いました。悪霊は、こうした町の人にも、わたしたちにも働くのです。けれども、イエスさまは悪霊 が取りついている人と全力で対決します。悪霊に取りつかれた人に癒しを与えられています。そのため町のすべての人から、ここから出て欲しいと求められます。イエスさまは 争うことなく、舟に乗ってカファルナウムに戻られます。
後藤さんからあらためて教えられたことは、憎しみではなく、祈ることです。裁きを人間にさせることは悪霊の業です。どんなに時間がかかっても終わりのとき、神さまが御国 を来たらせてくださる、その日が来ることを望み見て悪霊がこれ以上活躍しないように真剣に祈る、そのことの大切さを覚えたいと願うものです。