2013年3月17日 礼拝説教「剣をさやに納めなさい」

ミカ書4:1~3
マタイによる福音書26:47~56

櫻井重宣

 レントの日々を過ごして参りましたが、来週の日曜日は棕梠の主日です。イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入城された日で、その日から受難週に入ります。イエスさまの十字架への道行きを心静かに辿って参りましょう。

  ただ今、マタイによる福音書26章47節から56節に耳を傾けました。イエスさまが、イエスさまの十二弟子の一人、イスカリオテのユダに先導された群衆に逮捕された記事です。
 先週、ゲッセマネの園でイエスさまが祈られた記事を学びましたが、そのとき、イエスさまが、ペトロそしてゼベダイの子ヤコブとヨハネを前にして悲しみもだえ始められ、彼らに死ぬばかりに悲しいとおっしゃったことに思いを深めました。預言者イザヤが、来たらんとするメシアは、「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。——-まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになう」苦難の僕だと預言しているように、イエスさまは悲しみの人であり、悲しみを担った方であると、マタイは語っています。
 すなわち、イエスさまは、十字架を前にして、ゲッセマネの園で祈られるとき、弟子たち一人一人、そしてわたしたち一人一人の病、破れ、弱さ、罪を負おうとされたとき、悲しみもだえ、死ぬばかりに悲しみを覚えておられます。そして、ゲッセマネで三度祈られ、わたしたちの病、破れ、弱さ、罪を最後まで担い、そうした弱さを持つ弟子たち、わたしたち一人一人を抱え込むためには、杯を飲む、十字架の道に進むことが御心と示されたのです。そのとき、イエスさまのそばにいた三人の弟子、そしてゲッセマネの園で祈っているように言われた他の弟子たちも含め、イエスさまの苦しみを、悲しみを共にせず、眠ってしまいました。45節と46節で、眠ってしまった弟子たちにイエスさまは、こうおっしゃいました。
 《あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。》
  実は、ここで、引き渡される、裏切るとありますが、「引き渡される」も「裏切る」と訳されている語も、原語は同じ言葉で、パラディドーミという語です。ユダが引き渡したことが、結果として、裏切ったことになるので、裏切ると訳されていますが、「裏切る」と訳すとき、翻訳者の感情が入っています。マタイはパラディドーミという語を用いていますので、両方とも、引き渡す、と訳した方がよいのではないかと思います。

   さて、ゲッセマネで祈り終えたイエスさまが「立て、行こう」とおっしゃった直後、今日学ぶ47節にこう記されています。
 《イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。》
 「十二人の一人であるユダ」が、やって来たというのです。十二人の弟子の一人のユダは、一人ではなく、祭司長たちや民の長老たちが遣わした大勢の群衆と一緒に、しかも剣や棒を持った群衆とやって来たというのです。
  先週も心に留めたことですが、福音書記者マタイの中心的なメッセージは、神さまはどんなときにも、どんなところでも、どんな人とも一緒にいてくださる、ということです。
 「共に」ということを言い表す語は、ギリシャ語で「メタ」とか「シュン」という語です。四つの福音書で「メタ」を一番多く用いるのは、マタイですが、この47節でも「メタ」が二回用いられています。ユダと共にいるのは、祭司長たちや民の長老たちが遣わした大勢の群衆です。「群衆と共に」です。そして、群衆は「剣や棒と共に」です。マタイは、神さまが我々と共に、イエスさまがどんな時もわたしたちと共に、と語るのですが、ここでは、ユダは群衆と共に、群衆は剣や棒と共にやってきました。
 そして48節にこう記されています。
 《イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めていた。》
 イエスさまを引き渡そうとしていたユダが、イエスさまはこの人だ、ということを群衆に教えるために、自分が接吻する人がその人だ、という打ち合わせをしていたというのです。「接吻」は、愛のしるしです。また、師と弟子の間のあいさつのしるしだとも言われます。いずれにしろ、わたしはあなたを愛している、信頼している、わたしの先生だ、そのことを言い表わす接吻を合図にユダはイエスさまを引き渡そうとしたのです。 
 ユダのこうした態度を見るときに、人間はこんなことまで考えるのか、と愕然とさせられる思いです。
 こうしたユダにイエスさまはどう対応されたのか、ということが、49節と50節に記されます。
 《ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。》
 「先生、こんばんは」と言って接吻したユダに対するイエスさまの第一声は「友よ」です。接吻をもってイエスさまを引き渡そうとしたユダに対して、イエスさまはユダとの関係を断ち切らず、「友よ」とおっしゃるのです。杯を飲み干すことが御心と示されたイエスさまは、このユダのためにも十字架の道を歩もうとされ、ユダに「友よ」とおっしゃるのです。   
 このあとの「しようとしていることをするがよい」という文は、原文は省略された文で翻訳が難しいのですが、友よ、あなたは接吻をもって、わたしを引き渡そうとしているが、あなたはそのことのために来たのか、そういう意味合いです。けれども、イエスさまのこうした思いをユダは受けとめず、人々はイエスさまに近寄り、手をかけて捕らえました。
 十二弟子の一人のユダとのこうしたやりとりは、イエスさまは深く悲しませるのですが、なお、悲しみは続きます。
 51節をお読みします。
  《そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。》
 ここで、「イエスと一緒にいた者の一人」と記されています。ここも「メタ」「共に」です。その人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としてしまいました。四つの福音書でいちばん後から書かれたヨハネによる福音書によりますと、剣で大祭司の手下の耳を切り落としたのは、ペトロです。
  福音書記者のマタイが告げようとしていることは、ゲッセマネで祈り終えたイエスさまに先ず、十字弟子の一人ユダが、接吻を合図にイエスさまを引き渡そうとした、次に、イエスさまと一緒にいた弟子の一人、ペトロが剣を抜いて、大祭司の手下の片方の耳を切り落とした、こうしたことが相次ぎ、イエスさまの悲しみは深まる一方です。
 52節にこうあります。 
 《そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。》  この52節、すなわち、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」を記しているのは、四つの福音書で、マタイだけです。剣を取る者は皆、すべて、例外なく剣で滅びる、とイエスさまはおっしゃるのです。一切の武器を用いてはならないというのです。  
 先程、預言者ミカの預言に耳を傾けました。3節でこう預言しています。
 「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
  彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」

 同じことはイザヤも預言しています。戦いが繰り広げられる世界のただ中で、預言者はすべての武器が葬り去られる世界、葬り去られる時を望み見ています。

 実は、福音書記者マタイは、イエスさまは、平和を造り出すということはどういうことかを身をもって示された方だ、ということを繰り返し語ります。
 山上の説教では、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神を見る」とおっしゃいました。また、来週は、棕梠の主日で、イエスさまが馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された日ですが、マタイ福音書だけ、イエスさまが、ろばの子に乗って入城されたのは預言者ゼカリヤの預言が実現するためであった、と言って、預言者ゼカリヤの、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」言葉を引用しています。
 この言葉が引用されたゼカリヤ書を見ますと、この後にこう記されています。
 「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
 イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入城される、エルサレムに入城して十字架の死を遂げるということは、一切の戦車、軍馬、弓を絶つためだというのです。ですから、剣を抜いて、大祭司の手下の片方の耳を切り落としたペトロには、剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、すべて、剣で滅びる、とおっしゃるのです。
 53節にこうあります。
 《わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。》
 このイエスさまの言葉を記しているのもマタイだけです。わたしはこのイエスさまの言葉で、思い起こすのは、宗教改革者カルヴァンの言葉です。『キリスト教綱要』という書物でこういうことを言っています。
 「神は御自身のわざを、御自身でなしえたし、天使を用いても果たしえたにもかかわらず、人間を通じてこのことをなそうとしたのは、人間を尊んでおられ、人と人とを結び合わせ、教会を生じさせるためであった。」
 カルヴァンは、地の果てまで福音をもたらすことは、神さまお一人でもなすことができる、天使を用いてもなすことができる、けれども、そうした方法をお取りにならず、どんなに時間がかかっても、一人から一人と福音を宣べ伝える、そういう方法をお取りになる、それは、人間を尊び、教会を生じさせるためだ、というのです。
 ここで、イエスさまがおっしゃろうとすることもそうです。神さまは天使を用いて一挙に平和を実現できるかもしれないが、そうした方法をお取りにならない、時間がかかっても武器を用いないで平和を造り出していく、人を用いて平和を造り出していく、というのです。

 最後の54節~56節をお読みします。
 《しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。》
 「剣や棒を持って」は「剣や棒」と共にです。そして、弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げてしまいました。「皆」、一人残らずです。 

 あらためて思わされることは、イエスさまを引き渡したユダだけが、裏切りものとされ、どこかで自分はそうではない、と思って安堵していたのが二千年の教会の歴史でした。わたしたちもユダに裏切り者、とレッテルを張り、自分は弱い人間だ、罪ある者だと告白してもユダとは違うという思いを持っています。けれども福音書を記したマタイは、ユダがイエスさまに接吻したことでイエスさまが逮捕された、ペトロはイエスさまがどんな人とも関わりを断ち切らず、愛をもって、真実をもって関わることを教えておられたにもかかわらず、剣で大祭司の手下の耳を切り落とした、そして、イエスさまが逮捕されたとき、弟子たちは一人残らず逃げてしまった、というのです。その弟子たち、そして同じ弱さを持つわたしたちを抱え込むためにイエスさまは十字架の死を遂げられたのです。

   わたしが伝道者としての歩んだ四十数年は日本基督教団という教会は、大きな苦しみ、試練のただ中にありました。今もそうです。その中でわたし自身、自分が歩もうとする道が何度も拒まれました。そうしたことが繰り返されたとき、わたしは「友よ」といえなかったことを、今本当に思わされています。そういう自分であるだけに、十字架にかかってまでわたしたちを愛してくださったイエスさまをどこまで証しできたのだろうか、と思わされています。そしてそのことを思うと皆さんに申し訳ない思いで一杯です。
 自分の伝道者として残された期間、イエスさまが、十字架に架かってまでどんなときにもどんなところでも愛と真実をもってわたしたちに関わってくださった、そのことを真摯に証ししたいと願っています。

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