2011年12月6日 礼拝説教「傷ついた葦を折ることなく」

イザヤ書42:1~4
ローマの信徒への手紙14:1~12

櫻井重宣

今日は待降節第二の日曜日です。クリスマスまでの一日一日、よき備えをと祈ります。
 ローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会のメンバー一人一人を祈りのうちに覚えながら書いた手紙です。私たちを救おうとされる神さまの憐みの大きさ、豊かさ、深さを語り、さらにこうした神さまの憐れみに応えてどのように歩んだらよいかを語りました。そして、13章11節~14節において、パウロは、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っている」と語り、今の時代はいろいろな問題がうごめいているが、闇が深ければ深いほど、朝が近いのだ、イエスさまがもう一度おいでになる全き救いのときが近いのだ、闇の行いを脱ぎすて光の武具を身につけようと語りました。すなわち、十字架の死を遂げ、三日目によみがえられ、天に昇り、神さまの右に座して執り成しておられるイエスさまは、もう一度おいでになるのだ、今の時はイエスさまがもう一度おいでになるのを待つ時だと語るのです。
 そして、もう一度おいでになるイエスさまを待つ教会において、大切なことは何か、そのことを今日から学ぶ14章以下でパウロは語ろうとします。そのとき、パウロが語り出したのは、格調の高いメッセージというより、そんな小さなことをどうして語るのか、と言われそうな内容です。
 1節をもう一度読んでみましょう。
 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」
 ある方はここを、「信仰の弱い人を温かく迎え入れなさい。だがそれは、いろんな問題について議論するためであってはならない」と訳しておられます。
 教会は再びおいでになるイエスさまを待ち続ける群れですが、その教会において、すぐつまずくような信仰の弱い人を温かく迎え入れているか、とパウロは問うのです。 
 先程、イザヤ書42章1節~4節に耳を傾けました。イザヤ書40章~55章に、私たちの待っているメシアはどういう方かを歌っている「主の僕の歌」が四つ記されています。42章1~4節は第一の「主の僕の歌」です。
 こういう歌です。
 わたしたちの世界に贈られるメシアは大きな声で呼ばわらない、叫ばない、傷ついた葦、ほのぐらい灯心に象徴されるような弱い人、苦しむ人、重荷を負う人、悲しみの中にある人、病気の人、その人たちの苦しみ、弱さを、痛みを抱え込む方だ、だからといって真実をいいかげんにしない、そういう歌です。
 イエスさまは、そうした主の僕としておいでになり、傷ついた葦を折らず、ほのぐらい灯心を消しませんでした。もっというなら傷ついた葦を折らずになお神さまの御旨を遂行しようとして十字架の死を遂げられました。そのイエスさまが、もう一度この世界においでになる、再びおいでになるイエスさまを待つ教会の歩みにおいて、自分はどうしても心が痛むことがある、それは偶像にささげられた肉を食べるかどうかで、教会の中が一つになれない現状にあることだ、とパウロはいうのです。
 2節と3節にはこう記されています。
 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」
 これは菜食主義か肉食主義かの問題ではありません。コリント教会でも同じことが問題になっていますが、大きな町、ロ―マやコリンでは、偶像に供えられた肉が市場に出まわります。肉屋の肉を食べることが結果として偶像礼拝になる、だから肉屋で売っている肉は食べない、そういう人がいたのです。パウロが弱い人というのはそういう人のことです。
 肉を食べる人というのは、キリスト教信仰はユダヤ教のそうした偏狭な考えを克服しているのだから、肉を食べないことに固執するのはおかしい、と言う人です。
 パウロは肉を食べる人は食べない人を軽蔑するなというのです。また、食べない人は、肉を食べると汚れる、と言って裁いてはいけない、というのです。大事なことは、神さまはどちらの立場の人をも受け入れてくださっていることだ、というのです。
 4節にはこうあります。
 「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」
 教会に連なるわたしたち一人一人のご主人はイエスさまだ、ご主人さまをさしおいて召し使い同士が裁きあってよいのか、ご主人はイエスさまだ、ご主人であるイエスさまはだめだとおっしゃる方ではなく、たえず励まして立たせる方だ、というのです。
 5節からは日の問題です。
 「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」
 ある日を他の日より尊ぶというのは、私たちの身近なことでいえば、葬儀は友引きには行わない、結婚式は仏滅にしない、できるだけ大安に、というようなことです。そうしたことにこだわりを持つ人はおかしい、と言って裁くな、というのです。
 6節を見ますと、「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」
 6節から8節にかけて、「主のために」と繰り返されていますが、「主に対して」とか「主によって」とか、「主との関わりにおいて」と訳した方が分かりやすいと思います。日を重んじる人、肉を食べる人、食べない人、それぞれが、主との関わりで重んじる、食べる、食べない、そうした決断をしている、そのことを重んじようというのです。
 7節~9節にはこう記されています。
 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」
  パウロは、自分だけで生きている者はなく、自分だけで死ぬ者はいないというのです。キリストを信じる者は、生きるにも死ぬにもキリストと関係を持っている、生活全体がキリストと切っても切れない関係を持っている、そのことを心に留めて欲しいというのです。パウロは、イエスさまと出会って、人間は神と向かい合う仕方でしか存在しえないことを本当に痛感させられたのです。
  そして10節でこう言います。
 「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」
 教会に連なる一人一人は祈って決断している、そのことをもっと尊重しようというのです。いずれ神さまの裁きの座につくわたしたちを裁く方は、まぶねにお生まれになり、十字架の道を歩まれたイエスさまだからです。
 11節と12節をお読みします。
 「こう書いてあります。『主は言われる。《わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる》と。』それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」
 預言者はメシアが到来したとき、すべての人が神さまをほめたたえると語っている、もっとそのことを信頼しよう、どうして裁き合うのか、というのです。

   クリスマスを前にして、この一年の歩みを振り返りますと、3月11日の東日本大震災で大きな苦しみを経験した私たちですが、それとともに私たちの教会が連なる日本基督教団において、そして私たちの教会において、私たちの身近なところで裁き合い、自らを絶対化し、他者を誹謗することが多い歩みであったことを深く思わされています。

 わたしは、待降節になると、毎年のように読む童話があります。スウェーデンの女性の作家ラーゲルレーヴの『キリスト伝説集』の中の「聖なる夜」という作品です。1904年、ラーゲルレーヴの45歳の時の作品です。
 この作品は、ラーゲルレーヴが五つのとき亡くなったおばあさんから聞いた短いイエスさまの誕生のものがたりです。
 こういう内容です。

 まっくらな晩に、おじさんが火だねをもらいに出かけた。一軒一軒たずねて「もしもしお願いです!いま家内がお産をして親子をあたためるために火がいります」と。でも真夜中のことだからひとりだって返事をしてくれない。先へ先へ歩いていくと年寄りの羊飼いが野宿していた。おじさんは火を借りようと思って近づいた。大きな犬が三匹寝ていた。見知らぬ者がきたので犬が吠えたが、声が出ない。おじさんに飛びかかったが、おじさんはかすり傷も負わない。おじさんは火をもらおうとしたが、羊が背中を並べて寝ている。そこで、おじさんは羊の背中に乗って火のところまで行った。羊は一匹だって体を動かすものはいない。おじさんが今にも火に手が届きそうになったとき、羊飼いのおじいさんはその人をめがけて杖を投げた。けれども杖は当たりません。その人は羊飼いのおじいさんに、火をください、と願った。羊飼いは犬も吠えない、羊も動かない、杖も当たらないので不思議に思い、いるだけ持っていきなさいと言った。けれども火はみなおきになっていて、おじさんは何も持っていない。するとおじさんはかがんで素手で火をつかみマントに載せた。手はやけどしないし、マントも燃えない。
 あまりに不思議に思った羊飼いがそのおじさんに聞いた。どうしてなにもかにもお前に親切にするのか、と。おじさんはいそいでいたのか答えないで行ってしまった。羊飼いは何があったか見届けたいとついて行った。そのおじさんには人の住むようなおうちはなく、おかあさんとあかちゃんはむきだしの冷たい石の壁しかない洞穴の中に寝ていた。羊飼いは、あかちゃんはきっとこごえて死ぬだろうと思った。赤ちゃんをかわいそうに思った羊飼いは肩から袋をおろして、その中からやわらかな白い羊の毛皮を取り出して、おじさんに赤ちゃんを寝かせてやりなさいと言った。そのとき羊飼いの眼があいてそれまで見えなかったものが見え、聞えなかったものが聞こえてきた。赤ちゃんのまわりをかこんでいる天使が見え、こよい世の罪を救う救い主が生まれたと歌う天使の声が聞こえた。これを聞くと羊飼いにもわかった。今晩はだれもかれもがうれしくてたまらないから、それで悪いことなぞする気にならないのだ。羊飼いは自分の眼があいてそのことがわかり、うれしくてたまらなかった。羊飼いは跪いて神さまにお礼を申し上げた。
 ラーゲルレーヴは1940年、昭和15年に81歳で亡くなりました。1940年はヨーロッパでは戦争が始まっていました。ラーゲルレーヴは召される直前まで、往診に来た医者に「いつ平和が来るのですか」と繰り返し尋ねていたことが伝えられています。ラーゲルレーヴは、イエスさまがお生まれになったのだ、だから、犬も吠えない、羊も動かない、杖も当たらない、素手で火を掴んでもやけどもしないし、マントも燃えないのだ、イエスさまのまわりを天使がかこんで歌を歌っているのだ、どうしてこのことが分からず戦いをするのかと、この作品で訴えています。

 クリスマスを前に、この羊飼いのように、わたしたちも眼をあけていただき、この世界に救い主がお生まれになった、どの人のかたえにもイエスさまがおられる、どの人をもイエスさまが立たせておられる、そのことを覚えましょう。

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