詩編51:12~21
ローマの信徒への手紙12:1~2
櫻井重宣
8月は旧約の預言者アモスの言葉に耳を傾けましたが、今日からいつものようにパウロがローマの教会に書き送ったローマの信徒への手紙を学びます。
ただ今、ローマの信徒への手紙の12章の1節と2節をお読み頂きました。ローマの信徒への手紙は非常に骨格のしっかりした手紙です。パウロは1章から11章において、神さまが弱さのある私たち、罪ある私たちを救うためにどういうことをして下さったのかということを語りました。とくにキーワード、パウロが繰り返し用いていた言葉は「神の義」でした。神さまは私たち人間と約束関係を結んでくださる、一対一で関わってくださる、破れのある私たち、罪ある私たちにどんなときにも義であり続ける、独り子イエスさまを十字架に架けてまで私たちとの約束関係に義であり続ける、神さまは私たちに徹底して愛であり続ける、ということを語りました。そして11章の最後のところで、私たちを救おうとされる神さまのご計画は、私たちが知り尽くすことができないほど大きく、深く、豊かだと語り、神さまを賛美しました。
こうした神さまの大きな、豊かな恵みにどうお答えして生きるかということが今日から学ぶ12章以下に記されています。一般的な表現でいうなら、キリスト者の倫理、生き方が12章以下に記されます。
1節をもう一度読んでみましょう。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ギリシャ語で記されている原文の冒頭は「勧めます」という語、〈パラカレオー〉です。〈パラカレオー〉は励ます、慰める、勧めるという意味を持つ語です。この動詞が名詞になると、〈パラクレートス〉です。ヨハネ福音書ではイエスさまが神さまのみもとにいらしたあと、代わりに送ってくださるのが〈パラクレートス〉です。弁護者、助け主、慰め主と訳されます。ヨハネは聖霊を人格的に受けとめ、〈パラクレートス〉というのです。
パウロは、ローマの教会の人々にどう生きるかを語るときに、あなたがたのそばに一緒にいて、慰め、励ましますよ、そういう思いでこの箇所を書き記すのです。
次ぎは「こういうわけで」です。これは1章~11章までパウロが語ってきたこと、書き記したことです。塚本虎二先生の翻訳を見ますと、1節の冒頭は「このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられたのであって、救いは確かである。だから、兄弟たちよ」とあります。
ところで「神の憐れみによって」は、文語訳では「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む」となっていました。神さまのもろもろの慈悲、憐れみによって、です。キリスト者の倫理の原点は神さまの愛、憐れみです。パウロは、どう生きるか、すなわち、キリスト者の倫理を語るとき、繰り返し、繰り返し、神の憐みを思い起こそう、というのです。
神さまの恵みを知った私たちがどう生きるか、ということを考える時、いつも思い起こすのは、パウロがフィリピの教会に宛てた手紙の一節です。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ることです。」
フィリピの教会には、自分たちの信仰は完全だと主張する人々がいたようです。パウロはその人々に、神さまの私たちに対する愛は完全ですが、私たちの信仰は生涯、途上だというのです。完全を目指して歩むのが信仰生活だというのです。そのときパウロのイメージにあったのは、キリストに捕えられる、すなわちイエスさまと二人三脚でゴールを目指す姿です。わたしたちはひとりで走るのではありません。
わたしは、若い日、名古屋の鳴海教会で奉仕させて頂きました。短い年月しか奉仕できず、今でも鳴海教会に申し訳ない思いで一杯です。この教会に小さな無認可の幼児教室がありました。礼拝も10数人、幼児教室も20数人でした。無認可であるゆえ、認可された幼稚園では受け入れられない子どもさんもお預かりしました。そのため園児の中には障がいをもって生れた子どもさんが数人いました。ひとりのおじょうさんは血管にトラブルがあり、よく発作をおこし、感情のコントロールができませんでした。その方のお母さんは子どもさんのありのままを受け入れていました。運動会のとき、親子二人三脚をしました。そのお母さんは弱さのある子どもさんのペースに合わせて走り、一等になりました。弱さを持つ相手に合わせて走ることがどんなに大切かということをわたしは本当に教えられ、今でもあのときの光景を、感動をもって思い起こします。私たちの信仰生活もそうです。イエスさまは御自分のペースで私たちをひきずるようなことをなさいません。私たちのたよりないペースであっても、そのペースをイエスさまは大事にされ、一緒に走ってくださいます、歩いてくださいます、ゴールを目指して走り続けてくださいます。
ところで、パウロが先ず勧めることは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることです。「からだ」の原語は〈ソーマ〉です。〈ソーマ〉は、わたしたちの具体的なからだ、わたし自身、わたしの全存在です。それをささげなさいとパウロは勧めるのです。
ヘブライ人への手紙に「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なるものとされました」という文があります。キリストがご自分の体、〈ソーマ〉をささげてくださったので、わたしたちは聖なるものとされた、というのです。この出来事を重く受けとめるとき、私たちも〈ソーマ〉をささげます。それが、礼拝なのです。イエスさまがわたしたちに関わる関わりは、全存在をもってです。あなたのためにこのわたし自身をすべてささげても少しも惜しいと思わないとおっしゃり、イエスさまのからだをわたしのためにささげて下さったことに感謝し、わたしたちもわたしたちの全存在を献げる、それがなすべき礼拝だというのです。「なすべき」の原語は〈ロギケー〉です。理にかなった礼拝だというのです。
2節を見ますとこうあります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
「この世に倣うな」とあります。この世の〈スケ―マ〉通りになるな、すなわち、この世と妥協するな、この世の習わしに従うな、ということです。私たちが聖書を通して教えられるように、イエスさまの論理は100匹の羊を持つ羊飼いが一匹、迷子になったとき、どこまでも探しに行くことです。この世の論理は迷子になった1匹ではなく、99匹の幸せを願います。
「変える」は〈メタモルフェー〉です。フィルピの教会に宛てた手紙のなかに、キリストは神の身分〈モルフェー〉でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分〈モルフェー〉となり、人間と同じ者になられた、という文があります。すなわち、イエスさまは、神の身分〈モルフェー〉に固執せず、僕の身分〈モルフェー〉になられたというのです。
そのパウロが、この手紙では、心を新たにして自分を変えて〈メタモルフェー〉いただき、何が神さまの御心か、何が善いことで、神さまに喜ばれ、完全なことであるかをわきまえるべきだ、と語るのです。神の〈モルフェー〉に固執しないで、僕の〈モルフェー〉になられたイエスさまに自分を変えていただくとき、何が神さまの御心かをわきまえることができるというのです。
今ひとつ、「わきまえる」の原語は、〈ドキメ―〉です。〈ドキメ―〉は鉱石のなかに鉱物がどれだけ入っているかを調べるときの語です。真実なものを見いだすためには、鉱石の純度を確かめるように一つ一つ調べていく、そうした労苦が必要です。神さまのわたしたちに対する細心な心配り、労苦に応え、わたしたちも細心な心配りが必要です。
最近出版された書物において、現在韓国の大学で教えておられるヤン・ヒョンエ(梁賢惠)先生が、是非日本のキリスト者に伝えたいということで、クォン・ジョンセン(権正生)さんの『子犬のうんち』という童話を紹介していました。この童話の著者のクォンさんは1937年東京で生まれた方ですが、1946年帰国船に乗ってお父さんのふるさとに帰りました。けれども20歳の時、貧しさの中で結核になり、生涯、病に苦しまれ、2007年全身結核で亡くなりました。
クォンさんの書いた『子犬のうんち』は韓国で60万部以上売れ、小学校の教科書にも載り、2000年には日本語にも翻訳されました。
ヤン・ヒョンエ先生の翻訳によって紹介します。
こういう書き出しです。「たろちゃんのしろがうんちをしました。しろは小さい犬だから、ちいさいうんちでした。」
この童話の最後はこうです。「『私は汚いうんちなのに、どうすればよく生きられるだろうか。なんの役にも立たないのに—–』。子犬のうんちはさびしそうにひとりごとをいいました。冬がすぎて春になりました。いっぴきのめんどりが二ひきのひよこをかかえながら通りすぎながら、子犬のうんちをのぞき見ました。『どう見ても、たべられそうなものはなに一つないわね。すべてがくずだわ』。めんどりは、首をふりながら、そのまま通りすぎていきました。しとしとと春雨がふりました。子犬のうんちの前に青いたんぽぽの芽がはえました。『あなたはだれなの?』『わたしは、きれいな花をさかせるたんぽぽなの』『どのくらいきれい?空の星のようにきれい?』『そうよ、きらきら光るわ』『どうしたら、そんなにきれいな花が咲かせられるの?』『それは神さまが雨をふらせてくださり、あたたかい陽のひかりを照らしてくださるからよ』『うん—–。そうなの—–。』子犬のうんちは、たんぽぽがうらやましくてため息をつきました。『ところで、絶対に必要なことが一つあるの』『あなたがわたしの肥やしとなって、あなたの体がそっくりそのままとけて、私の体に中に入れば、星のようなきれいな花が咲くの。』子犬のうんちはあまりにもうれしくてたんぽぽの芽をせいいっぱい抱きしめました。雨が三日間降りました。子犬のうんちは体の全体が雨にぬれ、細かいつぶになりました。つぶになったまま、土の中にしみこんで、たんぽぽの根のところに集りました。つぶはくきをのぼっていって花のつぼみを結びました。
春まっさかりのある日、たんぽぽの芽は一つの美しい花を咲かせました。かぐわしい花の香りが風に乗って広がりました。にこにこと笑う花には、子犬のうんちの涙ぐましい愛がなみなみとこめられていました。」
この童話の著者のクォンさんは、苛酷な歴史の只中で「小さいもの、弱いものたちを温かくもてなす柔和な精神が世を救い、それゆえに柔和なる人が地を受け継ぐ」というメッセージを伝え続けた、そのことを日本のキリスト者に知って欲しいとヤン先生はおっしゃるのです。
わたしはこの『子犬のうんち』を通して、神さまのわたしたちへの関わりを心深く思わされました。御自分のすべてを注ぎ尽くしてわたしたちを愛し、生きるようにしてくださった神さまの大きな、深い、豊かな愛に感謝し、わたしたちも、このたんぽぽのように精一杯花を咲かせたいと願うものです。