イザヤ書49:1~6
ローマの信徒への手紙5:1~11
櫻井重宣
ただ今、読んで頂いたローマの信徒への手紙の5章の冒頭にこう記されていました。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て おり、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
パウロは、イエスさまが十字架に架かってくださって、私たちの罪を償ってくださった、そのことにより、どんなことがあっても、神さまと私たちの間は平和だ、というのです。
私たちは、新しい年2011年を迎えたわけですが、昨年の一年の歩みを振り返りますと、神さまの御心に十分に応える歩みをなしえなかったことを恥じ入ります。また、これから歩む新しい年がどうなるのか、不安な思いで一杯です。しかし、ここで、パウロが語ることは、どんなことがあっても神さまと私たちの間は平和だ、神さまの私たちに注がれる愛、真実は微動だにしない、神さまと私たちの関係は破棄されることはない、ということです。そして、こうした神さまの憐れみは、イエスさまがもう一度おいでになるときまで変わることなく続き、私たち一人一人を神さまの栄光にあずからせてくださる、そのことを希望することができるというのです。
カール・バルトという神学者は、大いなる憐れみの神さまはどんなときにも、私たちにナイン、否、だめだとおっしゃる方でない、ヤ―、大丈夫とおっしゃる方だ、ということを晩年に繰り返し語っています。まさにパウロがここで語ることです。すなわち、どんなときにも神さまと私たちとの平和は破棄されない、どんなときにも、神さまは私たちにヤ―と言ってくださる、そして、この神さまの憐れみは、私たちがこの地上に生きている時だけでなく、イエスさまがもう一度おいでになるときまで変わることなく続き、私たち一人一人を神さまの栄光にあずからせてくださる、というのです。
昨年の11月、西湘南地区の信徒研修会で「死と葬儀」をテーマに研修会が行われ、わたしは講師として奉仕しました。そのときにお伝えしたかったことの一つは、神さまの歴史は天地創造、すなわち、神さまがよかったとおっしゃったときからスタートし、ゴールはイエスさまのもう一度おいでになるとき、神さまの御心が天におけるとおなじように地になされるときだということでした。そして、わたしたちの生と死は、この神さまの歴史のひとこまです。この地上に生を受けたとき、神さまに良かったと言って頂き、終わりのときは、この地上の生涯を終えるときでなく、イエスさまのもう一度おいでになるときです。召された後も、復活されたイエスさまが神さまの右に座して執り成してくださり、イエスさまがもう一度おいでになる時まで祈り続け、責められることがないものにしてくださる、神さまがそこまでめんどうを見てくださるのが私たちの生涯です。
さて、パウロは3節から5節でこう語ります。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む ということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ ているからです。」
有名な言葉です。パウロは人生の半ばでイエスさまにお会いした人ですが、イエスさまにお会いして、神さまはどんなときにも真実であられる、愛でいますことを本当に知ることができました。そのときに、苦難、試練、病を前向きに受けとめることができるようになりました。
どうしてか、といいますと、苦難は忍耐を生むからです。忍耐というのは、がまんすることではありません。「忍耐」という語は、「下に」と「留まる」という語からなっています。忍耐は、そのもとにとどまる、逃げないということです。イエスさまがどんなときにも真実であられる、支えてくださるので、イエスさまと一緒に忍耐する、とどまり続けることができる、そうした忍耐を生み出すというのです。さらに忍耐は練達を生み出すといいます。練達は、ギリシャ語で「ドキメ―」です。「ドキメ―」というのは、純金を取り出す時、混じっているもの、不純なものを取り除く作業のことです。すなわち、苦難の下にとどまる中で、次第に不純なものが取り除かれ、一人の人の痛み、一人の人の苦しみに共感するものとなるというのです。そしてその練達は希望を生みだし、希望は私たちを欺くことがないというのです。口語訳聖書では、「希望は失望に終ることはない」でした。
どうしてかというと、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」「注ぐ」という語には、沁み込むという意味があります。聖霊によって、神さまの愛ががんこなわたしたちの心に沁み込む、注がれているので、希望は失望に終ることはない、というのです。
そして、もう一度、神さまがわたしたちにイエスさまをくださったこと、イエスさまが十字架にかかってくださったことがどういうことであったかを6節~11節で語ります。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のた めに死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であった とき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたし たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であった ときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはな おさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを 通して和解させていただいたからです。」
私たちがまだ弱かったころ、まだ罪人であったとき、神さまに敵対していたときでさえ、キリストは私たちのために死んでくださった、それが神さまのわたしたちへの愛だというのです。
パウロは、キリストがこのように私たちに関わって下さったことを本当に知ることと、私たちが日々直面する苦難、試練、病にどのように関わるか、ということと切り離せない、というのです。
私たちにどうしても苦しみ、病、試練はあってはならない、という先入観があります。パウロはそのことは本当にそうなのか、と私たちに迫ります。苦難の中に、試練の中に、病の中にキリストがいましたまわないのか、と。
前任地の教会で礼拝を共にし、一昨年の2月に亡くなった、ミルトンを研究していた英文学者がこういうことを語ってくれました。
≪ミルトンの生涯は期待外れの連続であった、『失楽園』の口述筆記は四面楚歌の逆境の中で、悪口と危険と盲目の闇に囲まれ、孤独の内に続けられた、ミルトンはこの大作に彼の体験から絞り出された反省と思索のすべてを投入した、そのミルトンが自らの生涯の最後に、「すべてはいとよし、たとえ我々がしばしば、神のはかりがたい摂理が引き起こす事を疑おうとも」と書いている、神は、われわれを理不尽と見える苦難にあわせられる、しかし、すべてはよい、神は万事を益としてくださる、これが、ミルトンがみずからの経験から引き出した結論である,この結論のまえにミルトン研究者は襟を正さざるを得ない、と。≫
この英文学者は、62歳のとき突然発病しました。彼はその病を受け入れるまでいろいろ葛藤したかと思いますが、最後的に、ミルトンが語っていたことに襟を正して聴き、自らもその病を、前向きに受けとめ、10カ月の闘病生活の後、召されていきました。
矢内原忠雄先生が、戦時下に東京大学の教官を追放されたとき、日曜日の集会ではエゼキエル書、ヨハネの黙示録の聖書講義をされましたが、土曜日には、アウグスティヌスやミルトンの講義をされました。『失楽園』の講義は1945年5月から2年間続けられましたが、最後にこうおっしゃいました。
≪悲しみと希望、悲しみと希望とくりかえしていって、そして我々の前途における未知数の項が少なくなり、人生において死は勝利に呑まれたり、ということを学んでいくのです。≫
最初に読んで頂いたイザヤ書49章1節から6節は、第二イザヤがうたう主の僕の第二の歌です。第一の歌で、「傷ついた葦を折ることなく ほの暗い灯心を消すことなく 真実をもって道をしめす」ことをうたったのですが、第二の歌では、そうした姿勢で、真実をもって道をしめそうとした主のしもべが、自らの働きに徒労を覚えることをうたいます。けれども、神さまは、どんなに主のしもべが徒労を覚えることがあっても、傷ついた葦を折らない、ほの暗い灯心を消さないかたちで、地の果てまで福音をたずさえる、というのです。
希望は失望に終らない、神は万事を益としてくださる、死は勝利に呑まれた、主の僕は傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす、こうしたことに励まされつつ、新しい年、2011年を歩んでいきましょう。