ミカ書5章1節
マタイによる福音書2章1~12節
櫻井重宣
こうして皆様とご一緒にクリスマス礼拝をささげることができ、心より感謝します。今、私たちの国だけでなく、世界全体がアメリカに端を発した金融危機で、大きな不安のただ中にあります。私たちの国でも、多くの人々が雇用の不安を覚えています。けれども、預言者イザヤは、救い主が到来すると「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝く」と語っています。今、出口の見えないような闇の中にある私たちの世界ですが、聖書は、私たちの世界はイエス様の誕生によって光が輝いている世界だというのです。さらに、福音書記者ヨハネは「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と告白します。私たちはイエス様の誕生によって輝いている光を今日どこに見いだすことができるのでしょうか。そ うした問いを携えながら二千年前の最初のクリスマスの出来事を伝えるマタイによる福音書2章1節から12節に耳を傾けたいと願っています。
冒頭にこう記されています。
≪イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。≫イエス様がお生まれになった時と場所が記されます。ヘロデという王様は自分の権力、地位を脅かす者を次から次と殺していった王様です。妻も息子たちも殺しました。この2章の後半には、イエス様の誕生に不安を覚え、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺したことが記されていますが、そういうヘロデが王様の時であったというのです。場所はベツレヘムです。当時のユダヤの国の中心はエルサレムです。中心的な町エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムだというのです。
暴君的な王様が支配している時代に、大きな町ではなく、小さな町ベツレヘムでイエス様がお生まれになった、この一行に既にクリスマスのメッセージがあります。
1節の後半と2節をお読みします。
≪そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」≫
当時、ユダヤの人たちは自分たちの民族を誇っていました。けれども、「その方の星」、すなわち、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見つけて、拝みに来たのは、東方の博士たちでした。ユダヤ人の王としてお生まれになる方はメシアだ、そして、その方はすべての人の救い主だ、そのために博士たちは拝みに来たのです。
「その方の星」に導かれて、博士たちはエルサレムに来たのですが、町の明るさで星を見失ってしまいました。私の前任地の広島教会は町の中心にありました。そのため、星がなかなか見えませんでした。茅ヶ崎は本当によく星が見えます。東方の博士たちは、王様はお生まれになったのは、エルサレムと判断したのでしょうか、エルサレムまでやってきたのですが、町に着いたとたん、星を見失ってしまいました。
エルサレムにやってきて、ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか、という博士たちの問いはヘロデ王を不安にさせました。王様だけでなく、エルサレムの人々も同様でした。来年の春、アメリカ大統領に就任するオバマさんのキャッチフレーズは「変化」、チェンジですが、二千年前のエルサレムの人々は、変化を好まなかったのでしょうか、博士たちの問いに不安を覚えたというのです。
ヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちを皆、召集して「メシア」はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。王様に召集されたのは聖書の専門家です。彼らは必死になって調べ、こう答えました。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
これは、先程司会者に読んで頂いた預言者ミカの預言です。イエス様のお生まれになる700年前です。ミカはイエス様のお生まれになる700年も前に、救い主はエルサレムではなく、ベツレヘムだと預言したのですが、多くの人々の心に印象づけられませんでした。また、名前が分かりませんので、便宜的に第二イザヤと呼んでいる預言者は、救い主はかっこうのいい方ではない、傷ついた葦を折らない、ほのぐらい灯心を消さないような優しさを持ち合わせている方だ、そして、傷ついた葦を守るため、ほのぐらい灯心を消さないために、御自分は苦難の道を歩まれる方だ、と預言したのですが、これも多くの人々の心に印象づけられませんでした。人々の心にはメシアは強い方であって欲しい、かっこうのいい方であった欲しいという願望がありますので、どうしても小さな町ベツレヘムでお生まれになる方だ、メシアは苦難の道を歩まれる方だということは伝わらないのです。
王様に召集された学者たちがあらためて調べてみて、預言者ミカが、救い主がお生まれになるのはベツレヘムだ、と預言していることが分かって、王様に伝えたのです。
ヘロデ王は占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、博士たちを送りだしました。もちろん、その幼子を殺すためです。
博士たちが王様の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。エルサレムの町に入ったとたんに、見失ったその方の星は、博士たちが王様のところを出てベツレヘムを目指しはじめると、博士たちを導き、彼らはその幼子のいる場所にたどりつくことが出来ました。
博士たちはその星を見て喜びにあふれました。自分たちの経験や学問によってではなく、その方の星に導かれてこのところにたどりつくことができたということは、大きな喜びだったのです。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。旅先での出産でした。ルカ福音書では、飼い葉桶に寝かせられていた、と記されています。博士たちは飼い葉桶に寝ている幼子をひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。東方で、それなりに人々から尊敬されていた博士たちが、何の力もない幼子の前にひれ伏したのです。「宝の箱」は〈背嚢〉とも訳すことができます。旅に必要なものを持ち運ぶための入れ物、かけがえのないものを入れるためのものです。博士たちが黄金、乳香、没薬を献げたということは、彼らの生活を支えていたもの、商売道具を献げ、背嚢をからっぽにしたということです。そして夢でヘロデのところへ帰るなと告げられ、別の道を通って自分たちの国へ帰っていきました。
博士たちは、イエス様にお会いしたとき、自分たちの生活を支えていたものをすべて差し出し、そして空っぽになった袋に、大きなものにではなく、小さいものに限りない重みがあることを、また、人に仕えられることではなく、人に仕えることの大切さを携えて自分たちのところに戻っていったのです
この8年間、アメリカの大統領の決断、とくに戦争への決断によって世界中が巻き込まれてしまいました。2001年9月、同時多発テロが起き、3日後、アメリカの国会は仕返しのため大統領はどんな軍事力を使ってもよいということを決めました。上院では反対ゼロ、下院では420対1でした。たった一人バーバラ・リーさんという女性議員が反対しました。リーさんは「非国民」と言われました。
リーさんがこうした決断したのは、第一次、第二次世界大戦のとき戦争を始めることに反対した女性議員のことをいつも心にかけていたからです。ジャネット・ランキンさんのことです。ランキンさんはアメリカの国会の最初の女性議員です。ランキンさんは国と国との争いは戦争ではない方法で解決すべきだという強い信念がありました。第一次大戦のとき戦争に加わるかどうかが採決されたときは37歳で議員になったばかりでした。374対50、反対は50人、でした。ランキンさんはその一人でした。でも次の選挙で落選しました。それから24年後、二度目に議員となったランキンさんは、真珠湾攻撃を受けて第二次大戦に加わるかどうかの採決に臨みました。反対はランキンさん一人でした。388対1でした。ランキンさんはこのあとの選挙でまた落選しましたが、生涯、戦争ではなく平和の大切さを訴え続けていました。
メシアが生まれるのは小さな町ベツレヘムだと語ったことは人々の記憶から遠のき、戦争に反対したリーさんやランキンさんのことは記憶から遠のいています。今日の時代、クリスマスが派手に祝われています。華やかに祝われば祝われるほど、イエス様が貧しく、小さく、弱くお生まれになったことは、人々の心から遠のいています。
私たちはクリスマスの心備えをするアドヴェントの期間、礼拝で創世記に記されるノアの箱舟の記事を学びました。
人間が堕落したので神様が滅ぼそうと決意され、ノアに箱舟を造らせました。ノアが箱舟に入った後、神様がノアの後ろで戸を閉ざされました。洪水の後、人が心に思うことは幼いときから悪いが、生き物をことごとく打つことは二度としないと神様がおっしゃいました。神様は、心に思うことが幼い時から悪い人間を抱え込もうとされ、そのために救い主を送ろうとされたのです。
エレミヤはこの創世記の記事を知っていたのでしょうか。エレミヤは、バビロンとの戦争に反対し続けました。けれども、それが聞き入れられないで、王様は戦争を始め、負けてしまいました。戦争に負けたとき、エルサレムに残った人々はエジプトに逃げようとしました。エレミヤは反対したのですが、人々はエレミヤの反対を押し切ってエジプトへ逃げだしました。年老いたエレミヤはどうしたでしょうか。エジプトへついていったのです。神様が、幼い時から心に思うことが悪い人々を抱え込もうとしたことを、創世記を通して知ったエレミヤは自分だけ助かろうとしません。滅びる時には一緒に滅びようという思いからエジプトへの旅にとぼとぼとついて行くのです。
神様はすべての人を抱え込むために、救うためにひとり子イエス様を贈って下さいました。そして、イエス様はすべての人の罪を赦すために十字架にお架かりになりました。ノアの箱舟のことでいうなら、神様の御国へ向かう宇宙船地球号にわたしたちはクリスチャンだからと言って、自分だけさっさと乗ってはいけないのです。最後の一人が乗るまでその人のために祈ることが大切です。でも、そうしたわたしたちが置いていかれることはありません。私たちが最後に乗って、その後にイエス様が乗って宇宙船地球号は出発するのです。
博士たちが幼子イエス様に出会ったときに覚えた喜びは、小さいもの、数少ないもの、仕えることに限りない重みがあるということです。そうなのです。イエス様が貧しく、小さくお生まれになって、小さいもの、数少ないものに限りない重みがあるという光がこの世に輝くようになったのです。さらに、神様はどんな人をも抱え込もうとされておられるという光も輝いています。こうした光に慰められ、励まされながら歩んでいきましょう。とくに本日、洗礼を受ける方が生涯、「その方の星」に導かれながら歩んで頂きたいと願っています。