2026年9月13日礼拝説教「神のものは神に」

牧師 田村 博

「 神のものは神に 」

旧約 コヘレトの言葉 5:1~6  新約 マルコによる福音書 12:13~17 

                          田 村  博

 12章13節以下の御言葉をご覧ください。

 13節「さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした。」

 なぜ、人々は「イエスの言葉尻を捕らえて陥れようと」したのでしょうか。主イエスが、人々に伝えていたのは、「神の国の到来」でした。人々が待ち望んでいた、旧約聖書の預言の成就でした。主イエスは、言葉のみならず、業を通してもその特別な「時」の到来を伝えていました。たとえば、10章46節以下では、目の不自由だったバルティマイが癒されたことが記されています。今の時代であれば、そのような出来事がテレビやネットで伝えられたら、あっという間に大勢の人が押しかけるような出来事でしょう。当時でも、正確性は別として情報の伝達速度は劣らない部分もあったと思われます。スーパーヒーローの到来です。しかしそのような状況を目の当たりにして、それまで人々の信頼と名声を得ていた人々の心の中は、微妙な状態でした。果たして「本物」なのだろうか? 人々をだまそうとしているのでは? といった疑いを抱いたのです。そればかりか、主イエスの人を分け隔てしない姿勢も気になっていました。人間というものは、誰しも、努力し、誠実に、真面目に生きようとする者を高く評価し、認めるものです。誰でも、ろくに努力もせず自堕落な生活をしている人と好き好んで友人になろうとは思わないでしょう。ところが、主イエスはちょっと違いました。努力せず不真面目なのを奨励したのではありません。その人が、なぜそのような生き方に転落してしまったのかというところに鋭く目を向けられ、その心の奥底にある部分に「光」を当て、その「光」に気づき、立ち返り、ご自身に従おうとする者を、決して拒まなかったのです。その結果、主イエスと弟子たちの周りには、世間では「罪人」として疎んじられていた人たちも少なからず集まり従っていました。その状況のうわべだけを見て、受け入れられないと感じる人々がいました。特に、本日の聖書箇所に出て来る「ファリサイ派」の人々は、「律法に忠実に従い、正しい生活を行う」ことに熱心な集団でした。彼らからすれば、主イエスと彼に従う人々は、とんでもない群れのように見えてしまっていたのです。

 マルコによる福音書を丁寧に読んでゆくと、主イエスに対する疑いが徐々に膨らんで、やがて敵意に、そして殺意にまで至る様子がわかります。同時に、疑いを持つ人の輪が広がってゆくさまが伝えられています。11章13節以下には、主イエスがエルサレム神殿で、異邦人とユダヤ人との間にあった壁をはっきりと取り払うような出来事が記されています。祈りの場所である神殿にて、異邦人がユダヤ人でないという理由で軽んじられていたのを、主イエスは決してお許しになりませんでした。そしてその両者の間にあった「壁」を取り払ったのです。11章18節を見ると、それに反発したのは「祭司長たちや律法学者たち」でした。

 その出来事の後、11章27節以下には、エルサレム神殿にいた主イエスたちに「何の権威でこのようなことをするのか」と意見してきた人々のことが記されています。27節には「祭司長、律法学者、長老たち」と記されています。先々週触れたとおり、サンヘドリンと呼ばれる最高法院(71人からなる公の決定機関)のフルメンバーがここで出揃いました。そして、本日は、そのフルメンバーに「ファリサイ派やヘロデ党」が加わったのです。「ファリサイ派」は「律法学者」とは異なり、律法の専門家、研究者ではなく、律法を日常生活にどのように適用してゆくかを熱心に求めた人々でした。現代でも、何か事件があると評論家たちがあれやこれやと意見し、正論を戦わせ、過ちを厳しく糾弾するといったことが起きています。インターネット上では大変な問題になっています。正義感から過ちを犯した人を、そして時には本当は過ちを犯していないのにそう誤解された人を袋叩きにするということが起きています。主イエスの時代の「ファリサイ派」は、どの時代にも、誰の心の中にもあるものかもしれません。

「ヘロデ党」は、それとはまったく異なる性質のグループです。もともとヘロデ一族は、正当なユダヤ人の家系ではなかったのですが、ローマ帝国の支配下で上手に立ち回って、とりまとめ役のようなポジションを手に入れた一族でした。それゆえ、親ローマ帝国的な立場をとっていたのです。そのまったく異なる二つの群れが、主イエスへの疑念、敵意という点で一つになって行動するという珍しい姿がここに描かれているのです。共通の敵の前に、仲良くなって団結してしまう、という姿も、考えてみれば、今も、あちこちにあります。

 彼らは、主イエスのところに来て言いました。

「先生、私たちは、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(14節)

 その言葉の前半からは、敵意など微塵もないように見うけられます。「真実な方」「人に分け隔てをせず」…まさに主イエスの正しさを肯定しているような言葉です。私たちも日常生活の中で、社交辞令のような言葉を、あまり意識せずに使ってしまうことがあるかもしれません。相手を気持ちよくさせるということも、また大切だ…といった理由をつけて、悪意をもってではなく。しかし、15節に「イエスは、彼らの偽善を見抜いて」とあります。主イエスは、一人一人の心の奥底に何があるのかを、しっかりとご覧になるお方です。歴代誌上28章9節には、ダビデ王がその子ソロモンに言った次のような言葉があります。「主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。」旧約聖書で繰返されている大切な御言葉です。

 15節をご覧ください。主イエスは、「なぜ、私を試そうとするのか。」とはっきりとおっしゃいました。

 主イエスを試そうとして、目の前に立ち、語りかけていることにこそ問題があるのだと、指摘されました。「皇帝に税金を納めるのは許されている」「納めるべき」と、もし主イエスが答えたなら、ファリサイ派の人たちの出番です。「唯一絶対の創造主なる神様だけに従うべきことを説いていながら、結局はローマ皇帝の前に跪くことを由としている。口先だけのお調子者だ。」と、仲間たちに言いふらそうと待ち構えていたのです。一方、「皇帝に税金を納めるのは許されていない」「納めてはならない」と、もし主イエスが答えたなら、ヘロデ党の人たちの出番です。「皇帝に逆らおうとしている不届き者だ。危険分子であり、そのままにしておくわけにはいかない。」と、仲間たちに告げようと待ち構えていたのです。「ファリサイ派」「ヘロデ党」その両者がそこに揃っていた意味は、ここにありました。

 主イエスは、答えられました。

「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(15節)

 私たちの使っている日本の硬貨には、人の顔は刻まれていません。しかし、紙幣には必ず人が描かれています。ちなみにアメリカでは建国250年を記念してトランプ大統領の肖像を刻んだ硬貨が9月2日正午に売り出されたそうです。現職の大統領の肖像が刻まれるのは初めてらしく、法律的に認められるか否かという議論が一時なされ、結局発行されてしまいました。なんと数時間で在庫切れになったとのこと。嘆かわしい、呆れた現実がアメリカにて繰り広げられています。

 今から2000年前の主イエスの時代、当時のデナリオン銀貨には、自らの権威を世に示そうとしたローマ皇帝が、硬貨にその肖像を刻んでいました。人間の権威に対しての欲望は、いつの時代も変わりません。

 主イエスの言葉尻を捕らえようとしていた人々が、主イエスのもとに、言われた通りデナリオン銀貨を持ってきました。すると主イエスは彼らに尋ねました。16節。

「これは、誰の肖像と銘か」。すると彼らは「皇帝のものです」と答えました。

 そこで主イエスは言われました。17節。

「イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚嘆した。」

 ローマ皇帝に税金を納めるべきか否かという二者択一の問いには、主イエスはお答えにならなかったのです。主イエスのお答えは、ファリサイ派の人々にとってもヘロデ党の人々にとっても全く予想していなかった答えだったに違いありません。神の御一人子・主イエスゆえの、天からの知恵の片鱗をここに見ることができます。

 と同時に、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という御言葉には、さらに深い意味が込められていることを見落としてはなりません。

 私たちが日常生活において、目にし、手にしているものは、いったい誰のものなのでしょうか。先ほど引用した歴代誌上28章の次29章にはダビデ王の祈りがあるのですが、そこでダビデは次のように祈っています。

「私たちの神よ、今こそ私たちはあなたに感謝し、誉れある御名をほめたたえます。取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(29:13~14)

 すべてのものは神からいただいたもの、すなわち神のものであるというこの大切なことを忘れる時に、人は欲に流され、時に奪い合い、争いへと転落してゆくのではないでしょうか。

 聖書は、私たちの周りの「もの」だけでなく、私たち自身も、神様のものであることを教えています。

 コリントの信徒への手紙一 3章9節には、次のような御言葉があります。

「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

 さらに16、17節には、

「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」とあります。

 神様は、私たちの体そのもの、私たちの命そのものを、ご自身のものとお呼びくださっているのです。「自分の体なんか…、自分の罪深い存在なんか、自分などふさわしくない…」と尻込みしそうになるかもしれません。だから、主イエスは、十字架におかかりくださったのです。十字架の上に、私たちの罪をすべて持って行ってくださったのです。神様の前に、私たちの代わりに命をささげて執り成してくださったのです。そして、それと引き換えに神の霊を内にいただくものとしてくださったのです。私たち一人ひとりの存在を用いて、神の聖なる神殿を建て上げてくださるのです。ですから、私たちは今日も礼拝をささげます。私たち自身の声を、私たち自身の宝をささげます。献金は、その意思表明に他なりません。「献身のしるしとしてささげます」と代表者が祈るのは「神のものは神に返しなさい」という招きの言葉への応答です。

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