牧師 田村 博
「 何の権威に従うのか 」
旧約 申命記 16:18~20 新約 マルコによる福音書 11:27~33
田 村 博
マルコによる福音書11章は、主イエスが十字架におかかりになる直前の出来事を、詳しくかつ丁寧に、私たちに伝えてくれます。11章全体を繰り返し読んでみると、「エルサレム」という地名が繰返し出て来るのに気づかされます。11章1節、11節、15節、そして本日の27節です。主イエスは、夜間近くのベタニアで過ごされて、日が昇ると、エルサレムに弟子たちを連れて入られました。エルサレムには、神殿がありました。それは、町全体の面積に比して、かなりの割合を占める立派な構造物でした。この神殿の中心には、神様からモーセが授かった「律法(十戒)」が刻まれた「石版」がありました。その神殿ゆえに、人々はある種の「権威」を感じていました。偶像を拝むように神殿を拝んでいたのではありませんが、律法の大切さを教えられ続けてきたゆえに、また生活の身近なところに律法が存在していたがゆえに、律法に、そしてエルサレムに「権威」を感じていたことでしょう。
しかし、聖書の時代、ユダヤ人たち(イスラエルの民)の上に、もう一つの別の「権威」が大きな影を落としていました。彼らは、ローマ帝国の支配下に置かれていたのです。その絶対的な国家権力により、確かにインフラは整い、経済は潤い、ある程度安定した生活が守られていました。しかしそれは、「ローマ帝国に逆らわない限りにおいて」という条件付きのものでした。宗教行事についても、チェックの目は絶えずありました。民族意識が強くなり、それが独立に向かうような雰囲気が感じられるようになれば、駐在する兵士たちがそれを押さえつける体制と準備は、常に盤石でした。
11章1節以下には、群衆に囲まれ、歓喜の声に満たされて、エルサレムに入られた様子が記されていました。「救い主があらわれた!」と、人々が主イエスを大歓迎して迎えたというその出来事は、たちまちエルサレムの街中に伝わったことでしょう。もちろん、ローマの役人の耳にもです。それを知ったローマの役人からは、ユダヤ人たちの責任者的な立場にある大祭司に対して、「何事か?」という内々の問い合わせがあったかもしれません。大祭司は、すかさず「大丈夫です。何かあったらすぐに知らせます。」と答えたでしょう。大祭司は、自分に任せておけば大丈夫…と、自分たちの存在価値を無言のうちにアピールしていた可能性は大いにあります。それだけに、主イエスと弟子たちの行動は気が気ではなかったに違いありません。
その翌日(11章15節以下)、なんと、神殿の境内でとんでもない出来事が起こりました。主イエスが「売り買いしていた人々を追い出し初め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を覆された」のです。それは神殿の「異邦人の庭」と呼ばれていた場所での出来事でした。本来、異邦人が、そこまで入ることが許されていたという場所は、ユダヤ人たちの都合により、騒々しい屋台が立ち並ぶマーケットのようになってしまっていました。主イエスは、まことの神を礼拝することは、ユダヤ人たちの特権ではなく、すべての民に開かれたものであることをはっきりと示されたのです。大祭司たちは、そのマーケットから収益を得ていました。その甘い蜜にケチを付けられたことは、とんでもないこととその目に映ったことでしょう。と同時に、ローマの総督にどのように説明すればいいのか、不安になったに違いありません。それゆえ、「どのようにして殺そうか」(18節)という話し合いに発展したのです。主イエスの存在をそのままにしていていいことは何一つない、と考えました。そのメンバーは「祭司長、律法学者」(18節)でした。
そして最初のエルサレム入場から3日目の27節以下では、ここに「長老たち」が加わっています。当時の、「サンヘドリン(最高法院)」は、定員71名で、「祭司長、律法学者、長老たち」によって構成されていました。つまりフルメンバーが揃えられたのです。なんと用意周到なことでしょうか。ただし新約聖書の福音書の隅から隅まで読んでみると、実は、その71人のメンバーが一枚岩だったかというとそうではなかったことも記されています。賛成していなかった人物がのちに登場するのです。しかし、会議制を重んじる彼らにとって、それはどうでもよいことでした。とにかく賛成多数で議決を得ることが重要だったのです。個人の「心」よりも、「議会」という組織、そこから生まれる「権威」を頼りにしていたのです。
ローマ総督との関係を(表面上ではあっても)良好に保つために、ことを荒立てる厄介者(主イエス)の存在を葬り去ろうとしたのです。考えてみると、今も政治の世界で、権力闘争の只中で、国と国同士が、繰り返し繰り返し行っていることに他なりません。聖書は、いつの時代にも変わらない赤裸々な人間性をここに描写しているのです。「権威」をめぐる「人」の姿をです。
「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」(28節)と、祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスに対して問いかけています。ローマ帝国の権威を恐れ、自らの権威を保つことに必死になっている様子がこの言葉にあらわれています。主イエスは、彼らのその心の奥深いところまで、すべて、ご存知でした。それゆえ逆に尋ねられたのです。
「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(29~30節)
洗礼者ヨハネは、主イエスの到来(救い主の到来)を告げ、人々に備えるように、悔い改めてその備えをするように迫った人物です。正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると言い続けました。しかし、ヘロデ王に捕らえられ、挙句の果てに首をはねられて殺されてしまったのです。主イエスは、その彼のことを指摘し、ヨハネが授けた「バプテスマ」は、「天からのもの」すなわち「神によって授けらえた権威」ゆえに人々に与えられたのか、それとも「人からのもの」すなわち「神と無関係に、ヨハネが人の思いの中で勝手におこなったもの」だったのか? と問われたのです。
彼らは論じ合いました(31節)。
「天からのものだ」と言えば、「なぜ信じなかったのか」と言われるに違いない。捕らえた「彼は神によって遣わされた正しい人だ。釈放するのが筋だ。」とヘロデに対しても抗議、進言すべきだったのに見過ごしにしてしまったと、責められるに違いないと考えました。一方、「人からのものだ」と言えば、「神によって授けられた権威によって洗礼を授けてくださった」と信じて疑わない多くの人々の反発が、自分たちに向けられて爆発する可能性がある、と考えたのです。彼らは、実に賢い答えを選択しました。「分からない」(33節)と答えたのです。よく政治家が用いる「記憶にございません」と同じです。事実についての明言を避け、しかもウソをつくことからは距離を置く決まり文句です。それが、「分からない」でした。
主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」とお答えになりました(33節)。たとえ、ご自身が神の権威によってすべてをなさっていることを伝えても、彼らが心を閉ざし続けている限り、つまり真実の自分自身の姿に目を向けようとしないならば、いかなる言葉も、その心に入ることがないことをご存知だったのです。
主イエスは、まことの「権威」をもっておられる「神様」の存在を、すべての人々が認めることを望んでおられます。自分がどう思われるか、人々はどう思うだろうか、といったところに終始することを望んではおられません。ローマ帝国の「権威」を前にして、その「権威」におびえたり、必要以上に気にして生きようとするとき、大切なものを見失ってしまうのです。
聖書は、主イエスと出会った人々が、主イエスの言葉と行いの中に、それまで会ったこともないような「権威」を感じた様子を伝えています。
「人々は皆驚いて、論じ合った。『これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。』」(マルコ1:27)
主イエスの言葉にこそ、まことの「権威」があります。
そして、一時的な、表面的な「権威」と、本当の「権威」をはっきりと区別することのおできになるのが主イエスの御言葉です。
「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」(ヘブライ4:12)とある通りです。
まことの「権威」を知り、歩むとところにもたらされる「平安」があります。
本日の聖書箇所で「権威」と訳されている同じ言葉が、繰り返し用いられている聖書箇所があります。それは、ローマの信徒への手紙13章1~5節です(日本語では「権力」と訳されています)。
「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。実際、支配者が恐ろしいのは、人が善を行うときではなく悪を行うときです。権力を恐れずにいたいと願うなら、善を行いなさい。そうすれば、権力から褒められるでしょう。権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです。だから、怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも、これに従うべきです。」
この箇所は、神に逆らうようなとんでもない「権力(権威)」に私たちが盲従することを強いているのではありません。主イエスは、私たちを「権力(権威)」の闘争の中に置こうとしているのではないのです。主イエスはご自身の「命」を差し出して十字架におかかりになりました。ローマの権威によって開かれた正式な裁判の場にあえて留まられました。死刑判決のもとにご自身の身を委ねられたのです。その命と引き換えに、私たちを「新しい命」「永遠の命」にあずからせてくださるのです。この主イエスこそ、まことの「権威」を持っておられるお方です。この主イエスこそ、復活され、今生きておられ、一人一人に聖書の御言葉を通して語りかけてくださるお方なのです。見せかけの、一時的な「権力(権威)」に、一瞬たりとも動じることなく、私たちが「善を行う」道を開いてくださいました。十字架の上で、私たちのために流してくださった貴い御血潮によって。
(2026.8.23 主日礼拝・一部変更あり)
