牧師 田村 博
2024.3.24
説教「だれを捜しているのか」
旧約聖書 ゼカリヤ書9:9~10
新約聖書 ヨハネによる福音書18:1~14
本日は、「棕梠の主日」として覚えられている主日です。与えらえている新約聖書箇所は、主イエスのエルサレム入場とは異なる箇所ですが、旧約聖書のゼカリヤ書9章9~10節は、主イエスのエルサレム入場において成就した御言葉です。
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者」(9節)
「シオン」とは「エルサレム」のことです。主イエスが過越祭の近づくエルサレムに近づかれたそのとき、群衆は棕梠の葉を手にして大歓迎しました。その大歓迎から舌の根の乾かぬうちに、群衆は「十字架につけよ!」と叫ぶことになるのです。大歓迎した人々は、このゼカリヤの預言にある次の御言葉がどのような意味を持っているのかには考えが及ばなかったに違いありません。人間とは、しばしば目の前に展開される現実を前にしても、自分にとって都合のよいことのみに関心を示すという行動に陥るものです。それゆえに、わたしたちが、書き記された聖書の御言葉として、このようにゼカリヤの預言に耳をそばだて、心の目を向けることができるのです。
「高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」(9節)
闘いを連想させる「馬」ではなく、弱々しい「ろば」に乗られた主イエスでした。闘いではなく平和を、まことの平和をこの地にもたらすために主イエスはおいでくださったのです。さらには次のように続いています。
「わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」(10節)
本日の新約聖書箇所には、主イエスが捕縛される場面で、弟子のペトロが持っていた剣を振りかざしてマルコスという人の耳を切り落としたことが伝えられています。ゼカリヤの「戦いの弓は絶たれ」という預言は、ここにおいて成就したのです。主イエスは、まことの平和とまことの勝利をこの地にもたらしてくださるお方です。
ヨハネによる福音書18章1節以下の御言葉には、わたしたちがまことの平和、まことの勝利に与かるために必要な鍵が記されています。
「こう話し終えると」の「話し」は、直前の主イエスの祈りとつながっています。主イエスと共にいた弟子たちは、主イエスの祈りの言葉にじっと耳をそば立てていました。その言葉は、砂に水がしみ込んでゆくように吸い込まれていったことでしょう。もちろん、その瞬間に祈りの言葉の意味がすべて理解できたわけではありませんでした。また、ひと言残さず記憶に留めることなど人間の能力の限界を超えたことです。しかし、その限界を超えたことを可能にしてくださるのが、神の霊=聖霊です。ヨハネによる福音書の著者ヨハネも、主イエスの祈りの言葉を受け取りました。そして、聖霊のお働きゆえに、この聖書の御言葉として書き留め、わたしたちが心に収めることができるようにしてくださっているのです。それゆえ、わたしたちも聖霊の助けによって初めてその真の意味を受け取ることができるのです。
わたしたちに、まことの平和、まことの勝利を届けるために、聖書はまず「園」に目を向けるように促しています。
「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」(1節)
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では「ゲッセマネ」「オリーブ山」などと言葉によって説明されるその場所ですが、ヨハネによる福音書は、シンプルに「園」とだけ伝えています。そればかりでなく、すべての共観福音書に記されているその園での印象深い出来事・主イエスのもだえ苦しむような祈りに触れていません。それは、12章27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」という御言葉を通して、すでに読み手に届けられているからでしょう。ヨハネがゲッセマネの祈りそのものをここで省略したのは、主イエスのその祈りを軽んじたからではありません。それ以上に読み手に届けたいことがあったからです。共観福音書にはなくヨハネによる福音書にのみ記されている御言葉の一つに「キドロンの谷」があります。「キドロン」という音から何となく連想されるかもしれませんが、それは花園のような場所ではなく、まったく逆のような場所です。遺体が焼かれたり葬られたりする場所として旧約聖書に登場しています。しかし、その場所が、世の終わり、メシアによる救いの完成の時に変えられるのだと預言者によって告げられているのです。
「死体と灰の谷の全域、またキドロンの谷に至るまでと、東側の馬の門の角に至るまでの全域は、主のものとして聖別され、もはやとこしえに、抜かれることも破壊されることもない。」(エレミヤ31:40)
人間の通常の感覚からするならば避けて通りたいような部分、人間の力ではどうしようもない部分が、「主のものとして聖別される」というのです。そして「もはやとこしえに、抜かれることも破壊されることもない」のです。ヨハネは、主イエスの十字架・復活を通して、このエレミヤの預言が成就しようとしていることを示そうとしているのではないでしょうか。
続く2節以下で強調されているのは「ユダ」という人物です。
「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」(2~3節)
主イエスと弟子たちの行動パターン、スケジュールを把握していたユダでした。「松明」は、主イエスが夜の闇に紛れて逃走することを防ぐためと、後に続く人々を迷わずに従わせるためでした。「ともし火」は、自らの足もとを照らすためであり、「武器」は、主イエスと弟子たちの反撃に備えるためでした。そして、4節5節と続きます。
「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」(4~5節)
主イエスの「わたしである」という御言葉は、ギリシア語では「エゴー・エイミー」という言葉が用いられています。これは、出エジプト記3章14節と深く関わりのある言葉です。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」
創造主なる神がモーセに荒れ野でご自身を現わされ、語りかけられました。「エゴー・エイミー」は、この「わたしはある」であり、単に「わたしです」という返事ではありません。すべてのものの存在の根源であられるお方の自己顕現がここにあります。
ご自身を捕えようと迫っている人々を前にして、主イエスは、「エゴー・エイミー(=わたしである)」と宣言されました。この「エゴー・エイミー」を用いて、主イエスは繰り返し語られました。
「わたしは命のパンである」(6章35節/51節)
「わたしは世の光である」(8章12節/9章5節)
「わたしは羊の門である」(10章7節/9節)
「わたしはよい羊飼いである」(10章11節/14節)
「わたしは復活であり命である」(11章25節)
「わたしは道であり真理であり命である」(14章6節)
「わたしはまことのぶどうの木である」(15章1節/5節)
主イエスは、7種の言葉と共に「エゴー・エイミー」を用いられ、ご自身が神と等しいお方であることを宣言されました。この主イエスの御言葉を最も近いところで聴いていたのが十二弟子でした。そして、その中の一人がユダでした。
ヨハネによる福音書18章5節を注意してみると、主イエスが「わたしである」とおっしゃったことを記した直後に「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」と記してあるのに気づかされます。先頭に立って人々を導いてきたユダであり2節、3節に繰り返し記されているのですから、そこに一緒にいることは当たり前です。あえて書かなくても誰でも連想できることです。にもかかわらず、ここに記されているのです。ユダは、どのような気持ちで「エゴー・エイミー」という御言葉を受けとめたのでしょうか。
6節には次のように記されています。
「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」
まるでドミノ倒しのようにして、主イエスを捕えようとしていた人々が後ろに倒れこんだのです。この場面について、わたしは今まで多くの人々が恐れおののいて一斉に倒れたと考えていました。そうだったのかもしれません。しかし、5節の後半にユダのことがあえて記されていることの意味はなんだろうか、と思い巡らしていたとき、もしかしたら、人々の先頭にいたのはユダであり、主イエスの「エゴー・エイミー」を最も近いところで聴き、過去に7度繰り返されたあの御言葉がサーっと走馬灯のように思い返され、真っ先に心が打ち震えて、足が震えて後ずさりしたのは、ユダだったということを伝えているのではないかと思いました。ただユダについてきた人々は、ユダが倒れたから、何が起こったのかあまりよくわからない中で倒れたのではないでしょうか。
主イエスは重ねて「だれを捜しているのか」とお尋ねになりました(7節)。人々が「ナザレのイエスだ」と言うと、主イエスは「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」とお答えになりました(8節)。ここにはユダの影はありません。これ以降、ヨハネはユダのことについて二度と記していません。もしかしたら後ずさりし、地に倒れこんだユダは、その場ですぐには立ち上がることができなかったのかもしれません。ユダと共に園にやってきた人々にとってもユダはいてもいなくてもよい存在になったのでした。ユダは、その場に倒れこみながら、涙を流しつつ、自分のしたことの大きさに、取り返しのつかない行為に気づいたのかもしれません。主イエスは、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(8節)とおっしゃいました。「弟子だったユダを、自分を引き渡した者としてさらしものにしなさい」とはおっしゃいませんでした。罰を受ける側に、ユダを残すことはせず、主イエスお一人、ただ一人、ご自身の身を十字架の上におささげになったのです。主イエスの願いは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)という御言葉にすべて込められています。9節の「イエスの言葉」とは、17章12節に記されている御言葉です。
「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」
注意して読むとすぐに気づくことですが、ここには「滅びの子」という言葉がありますが、18章9節にはありません。主イエスは、ユダの罪をも、その身にお引き受けになったのです。人々の先頭に立って歩いてきたユダの心に起きた変化を、主イエスが見逃さないはずはありません。主イエスが、ただお一人で、すべての人の罪を一身に負われて十字架におかかりくださったのです。そして、まことの平和、まことの勝利をもたらしてくださったのです。弟子の一人の剣によって耳を切り落とされたマルコスを主イエスが癒されたことをルカによる福音書は伝えています。ヨハネは、その癒しの事実には触れずに、ただ「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(11節)という主イエスの御言葉のみを伝えます。
わたしたちも日常の歩みの中で、「正義」という「剣」をふりかざすということが起こりえます。ネット社会においては大きな社会問題となっています。その「剣」によっては、本当の勝利は成就しません。「父がお与えになった杯」すなわち十字架によってのみ成就するのです。
最後に、本日の聖書箇所の最後の3節である18章12節から14節について、少しだけ触れておきます。ここには共観福音書とは異なる記述があることに気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。主イエスが大祭司カイアファのところに連れていかれる前に、そのしゅうとアンナスのところに連れて行かれたと記されているのです。アンナスは、大祭司の立場を利用して私腹を肥やしたことで有名だったそうで、神殿の異邦人の庭に立ち並んでいた両替や犠牲の動物を扱う者たちからかなりの利益を得ていたため、その場所は皮肉を込めて「アンナス市場」と呼ばれていたそうです。その流れを受け継ぐカイアファさえも、自分では気づかないうちに主イエスの十字架の出来事を指し示す役割を担うものとして用いられているのです。
すべてを巻き込んでゆく十字架への歩みがここにあります。まことの平和、まことの勝利を目指す一本の道です。この道は、わたしたちすべてに対して開かれているのです。
(田村 博)