牧師 田村 博
2022.8.7
聖霊降臨節第10主日礼拝(平和聖日)
説教 「神が組み立てられる体」
聖書 創世記45:4~8 コリントの信徒への手紙一 12:14~26
本日は、日本基督教団の行事日により「平和聖日」として礼拝をおささげしています。目を海外に向けてみると、「8月」と「平和」を結び付けて特別な日を定めている教会や団体を見つけるのは難しいというのが現実です。日本では、8月6日に広島に9日に長崎にそれぞれ原爆が投下され、多くの命が失われ、そして8月15日は第二次世界大戦における敗戦の日ですので、このようなことを心に留めて、今からちょうど60年前の1962年に、日本基督教団は8月の第1主日を「平和聖日」と定めたのでした。
世界のキリスト教全体で見た時、最も多くの人々が教会で平和を祈るのは、「1月1日」と言って差し支えないでしょう。これは、カトリック教会が「1月1日」を「世界平和の日」と定めているからです。この「世界平和の日」が最初に覚えられたのは1968年で、教皇パウロ6世の呼びかけによります。時はベトナム戦争が激化し、多くの人々が痛みを覚えている真っ只中でした。さらに、カトリック教会は、同年1月18日から25日までを「キリスト教一致祈祷週間」と定め、以後毎年、カトリック、プロテスタントの垣根を超えて祈りを合わせようとの呼びかけを、世界教会協議会(WCC)と共同で続けています。わたしも東京の田園調布教会で牧会していた11年間、カトリック教会を含む6つの教会で、輪番制で毎年行われていた「一致祈祷会」に参加していました。調布では行われていなかったのですが、世界で平和の危機が増大し、教会の使命がますます重要になっている昨今、もし茅ヶ崎で、そのような祈りの一致を与えられればすばらしいことだと思っております。
わたしたちが、同じキリスト教の集団であったとしても、それぞれの違いを乗り越えるのは、決して簡単なことではありません。だからといってあきらめることは神様の御心とは思えません。
本日与えられたコリントの信徒への手紙は、ギリシアの都市・コリントにある教会の人々に宛てて記されたものですが、この手紙を読むと、一つの教会の中でさえ、お互いの「違い」を受けとめ乗り越えてゆくのが難しいという課題があったのです。そして、この手紙の著者パウロは、“もう、あきらめてしまおう”ではなく、このような手紙を書き送り、ここにこそ、解決の糸口があるのだと示そうとしたのです。ここを意識することを通して、教会の中でも本当の一致がなされれてゆくのです。そして、その一致は、全世界の人々の一致につながっているのです。その第一歩がここにあるというのです。それは、わたしたち一人ひとりが置かれている環境においても、必要な一致であるに違いありません。
- 多くの部分
14節をご覧ください。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」
第一に「体は…多くの部分から成って」いるという現実に、わたしたちの目がしっかりと向けられることの大切さが語られています。
わたしたち一人ひとりも、人間ではありますが「生き物」として、この地球上で命を与えられ生きています。そして人間だけが、ポツンと生きているわけではありません。それぞれ、あまり得意ではない他の生き物がいるかもしれません。雨の後には、道路にミミズが多く姿を見せます。そのミミズは、生態系の中でとても大切な役割を果たしています。『種の起源』を著したダーウィンは、そのミミズとの出会いから多くを学んだ科学者です。イギリスの大地の石灰層の上に肥沃な土壌があるところから、その肥沃な土壌はミミズによるものであると考えます。彼は33歳の時に野外実験を始め、石灰を地面にまいて62歳になった時に土を掘り起こし、18cm下に白い層があることを確認しました。年間6ミリ、10年間で6センチ、30年間で18センチの肥沃な土がミミズによってもたらされたことを確認したのです。そこに植物が育ち、昆虫や様々な生き物がいのちのつながりを育むのです。わたしたちは多様性をもった生き物のつながりの一部として生かされています。それと同様に、人間同士のつながりもあります。14節をご覧ください。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」
まずわたしたちにここに目を向けるように語っています。
- 比べることによる自己否定の禁止
続く15節以下には、同じような言葉が繰り返されているようにみえますが、まずは「比べることによる自己否定の禁止」が示されています。多様性について述べた後、
15、16節には、『足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言った……耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言った」とあります。
つまり、自分を見たときに「自分には○○が足りない…だから役に立たない」と思ってしまうわたしたち一人ひとりに対して、立ち止まってやめるようにと促しているのです。
- 比べることによる他者否定の禁止
その後、似たような表現が続きます。21節をご覧ください。
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」
似たような表現ですが、内容は異なります。ここで言われているのは「比べることによる他者否定の禁止」です。わたしたちが「多様性」「違い」というところに目を向ける時、自分自身を否定してしまうということが起こりうるのですが、それのみならず、比べることによって他者をも否定するということが起こってくるのです。わたしたちは、そこで立ち止まって冷静に見てゆかなければなりません。本日の旧約聖書の箇所には、ヨセフという人物が出てきました。兄弟たちとの様々な葛藤の中から、ヨセフ自身の言葉に端を発している部分もあるのですが、兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいます。ヨセフの兄たちは、ヨセフと自分を比べることによって憎しみを抱き、ヨセフという存在を否定しようとしました。
比べることを通して、人間に何が生じるのか、聖書は多くの例をあげています。たとえば、創世記4章にはカインとアベルという兄弟の出来事が記されています。二人は神様に対してささげものをしました。しかし、神様はアベルのささげものは受け入れるのですが、カインのささげものは受け入れません。その時、カインは、アベルと自分を比べて、アベルに対する憎しみで心を満たし、とうとうアベルを亡き者としてしまいます。比べることから他者を否定するに至った例ですが、いろいろなところでこのことは起きてきます。そして、わたしたちすべての人が持っている性質がここにあらわされていると言ってもよいでしょう。わたしたちは“一つの場面”だけで物事を判断してしまう危険に囲まれています。カインとアベルにしても、神様がカインのささげものを受け入れなかったということには何らかの理由があったに違いありません。神様は、カインがそのことに気づくことを願って、あえて受け入れなかったのです。意地悪で、えこひいきして、そうなさったのではありません。アベルのささげものは受け入れたが、カインのささげものは受け入れなかったという瞬間だけを切り取って、比べて、他者を否定してゆくことが起きうるのです。
サザン通りを海岸に向かって歩いてゆくと、国道と交差した地下通路があるのですが、そこに今年、ツバメが巣を作りました。手を伸ばしたら届きそうなところで、巣の様子がよくわかる位置でした。小さなヒナが日に日に成長してゆくさまを見ることができたのですが、よく見ると、ヒナの体の大きさは同じではありませんでした。親が餌を運んでくると、ヒナたちは口を開けて声をあげて餌をねだりますが、どう見ても大きなヒナの方が勢い良く体を乗り出して、いつも餌を独り占めしているように見えました。しかし3羽のヒナはちゃんと巣立ったのです。どうしてちゃんと巣立ったと言えるかというと、ある日、巣が空になったのですが、その次の日に3羽が巣で並んで休んでいたのです。一場面だけを切り取ってそれで判断することは大きな失敗につながります。ツバメの両親は、すべてのヒナを成長させるための工夫をちゃんとしていたのです。
わたしたちも、物事の一部分、一面だけを見て、比べて、自己否定をしたり、他者否定をしたり、というところに陥ってしまう危険と常に隣り合わせに生きていると言ってもよいでしょう。
- 弱く見える部分
さらに、22節以下にはとても大切なことが述べられています。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
「弱く見える部分」という言葉が出てきます。この「弱く見える部分」という言葉は、そのあと3つの異なる言葉を用いて言い換えられています。それは、
「恰好が悪いと思われる部分」
「見苦しい部分」
「見劣りのする部分」
の三つです。これでもかと言わんばかりに「弱く見える部分」が強調されています。
多くの部分があって比べてしまうわたしたち一人ひとりです。比べたあげくに、「自分はふさわしくないんだ」と判断しがちなわたしたちです。また比べた結果として他者を否定してしまうようなわたしたちです。しかし、そのわたしたち一人ひとりが失敗で終わるのではなく、そこを乗り越えてゆくために必要なのは、わたしたちが、「弱く見える部分」に向かいあうことです。
パウロがこの手紙を書き、この箇所を記した時、最も「弱く見える」お方として主イエス・キリストを心に留めていたに違いありません。十字架に向かって引きずられるようにして歩まれた主イエスです。何一つ抵抗せず、唾をかけられ、ののしられた主イエスです。衣服もはぎとられ、十字架にかけられ、ぶざまな姿をさらされ、十字架にとどまられた主イエスです。「弱さ」の極致にご自身をおかれたお方、それが主イエス・キリストに他なりません。「恰好が悪い」「見苦しい」「見劣りのする」まさに、そのところに、主イエスは、十字架を通してとどまって下さったお方です。
そのイエス・キリストを、神様は、葬られた墓から復活させてくださいました。神様は、十字架の死を、最高の栄光、復活の栄光に変えてくださいました。
わたしたちのために「最も弱いもの」となってくださったお方を、わたしたちがしっかりと見る時、新しい体が組み立てられてゆくのです。新しい平和が形づくられてゆくのです。
25、26節をご覧ください。
「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
このようなつながりがここに生まれてくるのです。
教会とは、わたしたち一人ひとりが、この事実にしっかりと目を向け、そこに組み立てられてゆく、まさにそのものです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(27節)とある通りです。多様性(多くの部分)があります。そこに目を向け、比べることによって自己否定するのではなく、比べることによって他者を否定するのでもなく、イエス・キリストの「弱さ」の中に、神様がなしてくださった御業に目を向けるとき、そこに「体」が形づくられてゆきます。
わたしたちは、年齢を重ねると確かに筋力は弱くなり、以前のように走ったり、飛び跳ねたりすることが難しくなります。しかし、そこで、自己否定のループに巻き込まれるのではなく、「あの人の方が元気そうだ」といった他者に対しての思い、感情に流されてゆくのでもなく、「弱く」見える部分を、神様ご自身が覆ってくださって、栄光をあらわしてくださるという事実をしっかりと受けとめたいと思います。