牧師 田村 博
2022.3.20
説教 「成し遂げられた」
聖書 詩編69:17~22 ヨハネによる福音書19:25~30
本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書19章25から30節の一番最後には「成し遂げられた」という主イエスの御言葉があります。十字架の上で主イエスはいくつかの言葉を発せられました。それはうめきのような、心の奥底から、魂の奥底からにじみ出るような言葉であり、それらは聖書に書きとどめられています。その主イエスの十字架上での一番最後の言葉が、この「成し遂げられた」です。このことには大きな意味があります。
わたしたちは、日々の生活の中で目標や課題を具体的に設定し、それを達成、すなわち成し遂げることに努力・尽力するものです。「○時のバスに乗ろう。そのために家を○時○分に出よう。」といったことをあまり意識せずに、あちこちで繰り返しています。
ヘンリ・ナウエンが受難節の黙想のために『イエスの示す道』(聖公会出版・2002年)というすばらしい本を著していますが、その中で、次のように記している箇所があります(62~63頁)。
「今の世の中でたやすく分かるのは、わたしたちはみな、何かを成し遂げたいという強い願いを持っていることです。社会構造の非常に劇的な変革を想い描いている人もいれば、せめて家を建てたい、本を書きたい、機械を発明したい、あるいはトロフィーを勝ちとりたいと思っている人もいます。ちょっと他人のためになることをするだけで、満足しているような人もいます。わたしたちはみな、世の中にどれだけ貢献しているかという点から自分自身のことを考えます。そして年をとってくると、幸せと感じるか悲しいと感じるかは、自分がこの世界や歴史などに、具体的にどのような役割を果たしてきたかという評価に大きく左右されます。」
ナウエンは、さらにこう続けます。
「わたしたちが自分の成し遂げた成果を意識しすぎるようになると、人生は一つの大きなスコアボードとなり、そこに誰かが価値を測って点数をつけるという間違った信念を少しずつ持つようになります。そしてそのことにはっきり気がつかない内に、自分の魂を多くの批評家に売り渡してしまいます。わたしたちがこの世に存在しているだけでなく、この世に属してしまうということになるのです。そうすると、わたしたちはこの世に支配されてしまいます。」
わたしたちは、自分が、無意識のうちに、いつの間にか、このような“支配”のもとに身を置いてしまっていることに気づかされることがあります。もしかしたら10年前、数十年前より、徐々にそのような“支配”が強くなっているのではないでしょうか。そのような社会の中で、わたしたちは今、生きていることを、このナウエンの言葉はあらためて気づかせてくれます。
この世に支配されているところに、本当の平安はありません。破滅への恐れと、失うことへの恐れが、寄せては返す波のようにその人を呑み込もうとすることでしょう。
わたしたちは、誰一人として、この地上で、この世に支配されることのなく、完全にすべての時を生き続けることはできません。しかし、主イエスは、神の御独り子でいらっしゃるゆえに、この世にいらっしゃりながら、決してこの世に支配されてはいらっしゃいませんでした。
その主イエスが十字架の上でおっしゃった最期の言葉が、「成し遂げられた」でした。
これは、「終わり」「万事休す」という意味とはまったく異なります。その証拠に28節に「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」と記されています。終わりでなくなってしまう、時間的な一つの点をあらわしているのではなく、成し遂げられたという現実が、主イエスによってここでしっかりと受けとめられているのです。主イエスは、ご自身の生涯をかけて父なる神に与えられたみ旨を完全にまっとうされました。
その主イエスが命をかけて、この世に示されたことがあります。「成し遂げ」てくださったことがあります。
それは何でしょうか?
主イエスが、何を「成し遂げ」てくださったのかを知る時、わたしたちは、また、わたしたちが「成し遂げた」成果を意識しすぎるというところからも解放されるに違いありません。なぜなら、主イエスが、すでに「成し遂げ」てくださっているのですから、その安心の中で、歩むことができるようになるからです。
主イエスが、すでに「成し遂げ」てくだった一本の道があります。本日の聖書の箇所は、その確かな道筋をわたしたちに示してくれる箇所です。
1)血のつながりを越えた「イエスの言葉」によって生まれる「つながり」が成し遂げられた
第一に25~27節をご覧ください。そこには、血のつながりを越えた「イエスの言葉」によって生まれる「つながり」が成し遂げられたことが記されています。
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(25~27節)
「愛する弟子」とは、ヨハネによる福音書の著者ヨハネであると言われています。主イエスの言葉は、文章で見るとサラサラと記されていますが実際は違います。十字架にかかられ、苦しみの中で、発せられた御言葉です。瞼を閉じてその場面を思い浮かべてみると、わたしたちにも想像できることでしょう。そして、ここで繰り返されている言葉があります。「見て」「御覧なさい」「見なさい」です。主イエスは、いきなり「婦人よ」と語られたのではありません。マリアを、そして愛する弟子(ヨハネ)をご覧になったのです。主イエスの視線が、マリアにジッと注がれました。主イエスの周囲にいた人々には、主イエスの視線が何に注がれているのか分からなかったかもしれません。しかし主イエスの視線がマリアに注がれているのを何人かの人は気づいたに違いありません。マリアの近くにいたヨハネも、マリアに注がれる主イエスの視線に気づいたことでしょう。そして、その主イエスの視線が、今度は自分に注がれたことに、ヨハネは気づいたことでしょう。主イエスの視線が、ヨハネに移ったことを誰よりも感じたのは、母マリアだったでしょう。主イエスがマリアのことをじーっとご覧になり、しばらくするとヨハネのことをじーっとご覧になった。その時、主イエスは語られたのです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」と!
聖書は、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」と伝えています。血のつながりを越えた「イエスの言葉」によって生まれる「つながり」があることがここで示され、成し遂げられ、成就したのです。
わたしたちを取り囲む社会においても、実際に血のつながりのある親子がとても厳しい状況に置かれている、その関係が崩れそうになっている現実を目の当たりにしています。肉のつながり、血のつながりは強くてすべてのものを超えているかのように見えますが、時にはもろく、限界のあるものです。そのことをすべてご存知である主イエスは、それにまさる「イエスの言葉」によってもたらされるつながりがあることを示されたのです。そしてそれが、ここに成就したのです。
わたしたち一人ひとりも主イエスの言葉によって集められ、一つとさせられてゆくのです。キリストの教会として集められ、交わりが与えられていることには大きな意味があります。
2)神殿での犠牲を必要としない、唯一の犠牲(=主イエス)による罪の贖いが成し遂げられた
第二は、28~29節にあるように「神殿での犠牲を必要としない、唯一の犠牲(=主イエス)による罪の贖い」が成し遂げられました。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」(28~29節)
この「渇く」のひと言は、主イエスが十字架の上で苦しみの中でのどが渇かれてそれを訴えられたとサッと読み過ごしてしまいそうになりますが、そうではありません。ヨハネは「こうして、聖書の言葉が実現した」とはっきりと記しています。主イエスの「渇く」のひと言が、人々の「酸いぶどう酒」をめぐる行動を引き起こしたのです。その聖書の言葉とは、本日のもう一箇所の聖書箇所である詩編69編17~22節です。
「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください
憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
あなたの僕に御顔を隠すことなく
苦しむわたしに急いで答えてください。
わたしの魂に近づき、贖い
敵から解放してください。
わたしが受けている嘲りを
恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。
嘲りに心を打ち砕かれ
わたしは無力になりました。
望んでいた同情は得られず
慰めてくれる人も見いだせません。
人はわたしに苦いものを食べさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(17~22節)
この聖書の言葉が実現するというこの場面で、もう一つ大切な言葉があります。それは「ヒソプ」です。人々は海綿(海の生き物を乾燥させたスポンジのようなもの)を「ヒソプ」につけて主イエスの口元に差し出しました。「ヒソプ」が、現在わたしたちの知るどの植物であるかははっきりとわかりません。地中海沿岸東部に自生する低木で、小さな紫色の花をつけるヤナギの一種ではないだろうかといった推測がなされています。この「ヒソプ」は旧約聖書のとても大切なところに登場しています。出エジプト記12章22節以下をご覧ください。
「そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。」
イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出する際、後の「過越祭」につながる原点となるような出来事がこの出エジプト記12章に記されています。誰もが神様からの罰を逃れられない不完全な存在ではありますが、その罰が過ぎ越すために過越しの犠牲を屠りなさいと命じられます。その時、「一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。」(出エジプト12:22~23)と、主はモーセに命じられたのです。この出来事がイスラエルの民にとって非常に重要な出来事として心に刻まれてゆきました。その時に用いられたのがこの「ヒソプ」なのです。ヨハネによる福音書19章のこの出来事は、まさに過越祭の準備が始められていたその時でした。エルサレムの神殿ではたくさんの動物が屠られ犠牲がささげられていました。その真っ只中にあって、もう神殿での犠牲は必要ない。主イエスによる唯一の犠牲がささげられ、罪の贖いが成就したのだから! 成し遂げられたのだから! その成就が28節、29節に記されているのです。イスラエルの民だけのためではなく、その時、その場にいた人々だけのためでもなく、主イエスはわたしたち一人ひとりのために、神殿での犠牲ではない唯一の犠牲として、ご自身の命を十字架の上でおささげくださいました。それゆえ、わたしたちが自分の力で、自分の努力で、自分の罪を何とかしようとする必要はないのです。「成し遂げられた」という御言葉は、わたしたちにそのことをはっきりと示しています。わたしたちが努力をしなくてよいとは言っても、自由奔放な生き方をするように勧められているのではありません。わたしたちが、自分ではどうすることもできないようなところ、自分では手の届かないようなところに、主イエスが先回りして、手を伸ばして成し遂げてくださったのだということを知れば知るほど、わたしたちは自由勝手な行動から離れてゆくことになるでしょう。主イエスが成し遂げてくださったことは、わたしたち一人ひとりにとってかけがえのないことなのです。
この二つの「成し遂げられた」ことに加え、30節にはもう一つ、大切なことが記されています。
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
「頭を垂れて」という言葉を聞くと、ただガクッと下を向く様子を思い浮かべるかもしれません。しかし、この「頭を垂れる」という言葉は、原語は「よりかかる」という意味なのです。興味深いことに、この同じ言葉がマタイによる福音書8章20節にあります。
「そのとき、ある律法学者が近づいて、『先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言った。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」(マタイ8:19~20)
この「枕する」が「頭を垂れる」と同じ言葉なのです。地上において「枕する所もない」「よりかかるところもない」とおっしゃった主イエスですが、十字架の上こそ、唯一の「枕する所」なのであり、そのことが「成し遂げられた」のです。
その後にある「息を引き取られた」という言葉も大切な言葉です。正確には「霊を渡された」と訳される言葉です(フランシスコ会訳や聖書協会共同訳欄外では「霊をお渡しになった」と訳している)。ここで息が止まったではなく、その霊をゆだねられた、神様に差し出されたのです。主イエスの主体的な行為が、「成し遂げられた」という言葉と同時に伝えられているのです。十字架上で、完全な平安、完全なやすらぎがもたらされたのです。肉体的なやすらぎをも越えた、霊的なやすらぎです。「ジ・エンド」の「終わり」ではなく、主イエスが再びいらっしゃる復活の希望がここで成就したのです。主イエスは、弟子たちにすでに何度も「三日目に復活する」と語っていらっしゃいました。この場面で、どの弟子たちも「復活」のことには思い至りませんでした。しかし、主イエスは、十字架の死は終わりの絶望ではなく、三日目の復活の希望が成し遂げられたのだと伝えているのです。これは、わたしたち一人ひとりの希望、復活の命をいただくという希望につながっています。復活されたのは主イエスご自身ですが、主イエスがただ一人で復活されて終わりではありません。後に続く一人ひとりが「死は終わりではない」ことを知り、主イエスが復活されたように復活の命を生きることができるのだと、聖書はわたしたちに語りかけているのです。
このような「成し遂げられた」出来事が、わたしたちに示されています。わたしたち一人ひとりのために「成し遂げられた」ということは、次のようなたとえであらわすことができるでしょう。
見下ろすと深い谷底といったような岩だらけの山道を「ひとり」で歩くようなときを想像してみてください。自分を支えてくれる「鎖の手すり」があるならば、なんと心強いことでしょう。わたしたちは決してその「手すり」から手を離すことはないでしょう。その「鎖の手すり」は先にそこを通った人が備え付けたものです。ここから手を離さなければ決して落下することはない、ということを知っている人が、適切な位置に設置しているところに意味があります。
主イエスは、わたしたちの人生において、そのような「鎖の手すり」を設置してくださり、「この鎖から手を離さなければ大丈夫なのだよ」とおっしゃってくださっているのです。それが「成し遂げられた」という主イエスの御言葉の中に込められているのです。「鎖の手すり」の設置は「成し遂げられた」のだから、安心して歩んでゆきなさい、今度は主イエスが成し遂げてくださった恵みがどんなに大きなものかをあなたが体験する番なのですよと語ってくださっているのです。