牧師 田村 博
2022.2.13
説教 「最高の道」
聖書 エレミヤ書29::11~12 コリントの信徒への手紙一13:1~13
新共同訳聖書の段落の区切りでは、本日の聖書箇所13章1節の前に12章31節の後半部分が共に記されています。それは次のような一文です。
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」(12:31)
英語では「the most excellent way」と訳されている「最高の道」です。すなわち、わたしたち一人ひとりが歩むべき「最高の道」が、ここに示されています。
このコリント書13章は、結婚式でもよく読まれる箇所です。しかし、結婚する二人、あるいは夫婦のためだけにある御言葉ではありません。むしろ、もっと広い、大きな目的があることが、その前の部分を読むとわかります。12章の1節をご覧ください。
「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。」
一人ひとりにはそれぞれ賜物が与えられています。さらに4節をご覧ください。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」
その「賜物」を与えてくださるのは「聖霊」であると言われています。
わたしたちの内に臨み、わたしたち以上に、わたしたち一人ひとりのことをご存知であるお方が「聖霊」です。そのお方が、一人ひとりに最もふさわしい必要な「賜物」をくださるというのです。それゆえに、隣人と比較して、「ああ、あのような賜物が欲しいなあ」とうらやましがることは、意味のないことです。では、「賜物」に与かった以降は、自分はこれでいいと現状維持することが推奨されているのでしょうか。12章31節をご覧ください。
「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」
隣人、他人と比較して「もっと大きな」ではなく、「神様の目からご覧になって、最もふさわしい賜物」を受けるように熱心に求めることが勧められています。神様がせっかくふさわしい「賜物」をくださっているにもかかわらず、半分だけを受け取り、これで十分ですと拒んでしまうことが起こりうるのです。しかし、神様が与えようとしてくださっている「賜物」を大胆に求めるべきことが勧められています。自分のためでなく、他人と比較してでもなく、純粋に、自分がありのままの自分として神さまの御心をあらわしてゆくために、最も大切な、最も心に留め続けるべきこと、それがこの「最高の道」としてわたしたちに勧められているのです。それゆえ、すべての人にとって大切な「最高の道」です。
最初の1節から3節。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
ここには、「愛がなければ」と3回繰り返されています。
そして4節から7節。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
ここには、「愛は」○○である、と続いていますが、その前に、1~3節があることは、とても大切なことです。最初の1節から3節は、「愛はどういうものだ」と説明をしているものではありません。自分という存在を横に置いておいて、客観的に「愛」について論じているのではないのです。自分という存在をしっかりとそこに据えています。その証拠に、1節、3節には「わたしは」と繰り返し記されています。自分が「愛を欠き、愛と無関係に」それぞれのことをしたとしても○○だ(無に等しい、何の益もない)と言っているのです。
1節の「異言」とは「不思議な言葉」(フランシスコ会訳)と訳されています。通常、人と人とが交わすコミュニケーションのための言葉と異なる言葉で、12章に賜物の一つとしてあげられています。手紙の著者パウロは、14章5節で「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはない」と記していますが、たとえそれがどんなに大切なものであったとしても、「愛」と無関係になされるならば「騒がしいどら、やかましいシンバル」だと言うのです。2節の「預言」も12章に賜物の一つとしてあげられています。14章4節では「預言する者は教会を造り上げます。」と記されています。神様の御言葉を預かりそれを伝えてゆくときに教会が建て上げられてゆくのですが、それすら「愛」と無関係になされるならば「無に等しい」というのです。また「信仰」について続けて記されています。主イエスはおっしゃいました。
「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ11:23)
わたしたちが求めるべき信仰の姿がここに描かれています。しかし、その信仰の姿さえも、愛と無関係であるならば「無に等しい」というのです。
そして3節です。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、」とありますが、この「誇ろうとして」は、聖書協会共同訳では、別のギリシャ語で記されている聖書(写本)の言葉を採用して「焼かれるために」と訳しています。迫害が厳しい状況下で、クリスチャンはしばしば縛られて火あぶりで殉教したことが伝えられています。それすら、「何の益もない」と記しているのです。自分の命をかけた行為さえも、もし「愛と無関係」になすならば、むなしいものに終わってしまうと大変厳しく記されています。
なぜ、こう断言できるのでしょうか。
4節から7節の「愛は忍耐強い…すべてに耐える」のリストの一つひとつの言葉を自分に当てはめ、自分を主語にしてわたしたちは読むことができるでしょうか。決して胸を張って完読することなどできないわたしたちです。しかし、主イエスは、このリストに上げられた一つひとつを守ることのできる、ご自身の生涯をもってあらわすことのできる唯一のお方でいらっしゃいました。十字架につけられても決してこのところから離れませんでした。十字架上でご自身の「愛」を貫かれました。
ヨハネによる福音書3章16節にはこうあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神様は、独り子を遣わしてくださり、その「愛」ゆえに、独り子なる主イエスが十字架の上に留まることを良しとされたのです。神様の「愛」が全うされるためだったのです。
それゆえ、この4節から7節の御言葉の前で、わたしたちは「わたしなんか」と尻込みしてしまう必要がないのです。不十分な、愛の足りないわたしたちであるからこそ、神様は主イエスを遣わしてくださいました。そして、主イエスの生涯を通して、主イエスの十字架を通して、わたしたちの真っ只中で、ご自身の「愛」を実現・成就してくださったのです。
そして、その「愛」にふさわしいものに、わたしたちを一歩一歩近づける「道」があるのです。主イエスご自身が「道」となってくださり、備えてくださった「最高の道」です。
イザヤ書1章18節をご覧ください。
「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」
神様が主イエスの十字架を通してお示しくださった「愛」によって、たとえわたしたちの「罪」が「緋」「紅」のようであっても、「雪のように」「羊の毛のように」、真っ白くすることがおできになるのです。その約束がイザヤ書に記されているのです。ご自身の十字架の「愛」によって、わたしたちを清めようとされているのです。このことのおできになるのは、4~7節の「愛」を十字架上でまっとうされた主イエスをおいて他にありません。主イエスは、「これが愛だよ」と説明されるために、十字架にかかられたわけではないのです。
8節には、「愛は決して滅びない。」とあります。十字架の愛は、現在進行形なのです。今、この御言葉を聞くわたしたち一人ひとりを清め続けているのです。
一方、「預言」「異言」「知識」は、どんなに人々が感心するようなものであったとしても「廃れる」ものだというのです。
わたしたちの今、得ることのできる知識は、「一部分」です。しかし間もなく、「完全なものが来る」その「時」がまいります。その時には、今、どんなにすばらしいと思われる知識、理論、技術、知恵も、神様からご覧になればどんぐりの背比べにすぎず、「一部分」にすぎないのだというのです。
「幼子」は、決して何か劣っている例として11節以下に記されているわけではありません。「幼子」は、親子の関係の中で、社会の関係の中で、新しいものを日々吸収してゆきます。昨日まで話すことができなかった言葉を、乳児は、真似をする中で話すことができるようになります。経験していないという点において、「幼子」は、確かに不完全な存在です。しかし、そのままでは終わらないのです。成人した者が幼子のときのことをまったく忘れてしまうように、わたしたちも完全な者とされる時、変えられる時がくるというのです。
12節以下には「鏡」を用いて、その不完全さが伝えられています。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
わたしたちが今、使っている「鏡」を想定すると、このたとえはよくわからないかもしれません。聖書の時代には、「鏡」は金属を磨き上げて作られていました。1317年(14世紀)イタリアのベニスのガラス職人がガラスに銀、すず、アマルガムを塗るという技術を発見して飛躍的に進歩しました。さらに1835年(19世紀)、銀をガラスにメッキ処理するという技術が加わり、現在わたしたちが用いている鏡となったのです。
12節を聖書協会共同訳は
「私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。」
と訳しています。
神さまは、今も、はっきりと、わたしたちを知っていてくださいます。わたしたちにはぼんやりとしかわからないかもしれないけれど、神様ははっきりとわたしたち一人ひとりを知っていらっしゃるのです。やがてくる時、世の完成の時には、わたしたちも神様と同じレベルで、すべてをはっきりと知るようになるのだ! というのです。すばらしいことです。
最後に義父(妻の父)のことを少しお話ししたいと思います。義父のお連れ合い(妻の母)は、妻が大学生の時に召されました。乳癌が肺に転移して、病状は本当に厳しいものでした。クリスチャンであった義父は、熱心に祈ったことと思います。しかし、その祈りが聞き届けられないかのようにお連れ合いを天におくる経験をしました。その出来事を経ても信仰がブレることのない義父でした。その義父がある経験を話してくれました。自家用車を運転していて突然、明るい光、温かい光に包まれるようなことがあったというのです。思わず車を停めた義父は、その光の中で、次から次へと涙が溢れ出てくる、という経験をしました。それはもはや悲しみの涙ではなく、神様が自分を照らしてくださっている、神様が自分を包んでくださっているゆえの神様への感謝の涙でした。そしてその時からしばらく、まわりの景色がそれまでとまったく違うものに見えたというのです。花を見てもまるで花が自分に微笑みかけてくれているかのようだったそうです。この話しについてわたしは、父の心の中に起こった出来事としか受けとめていませんでした。しかし、今日の御言葉の「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とをあわせて見ることになる」と重ね合わせて受けとめた時に、わたしたちが見ている現実というのは、はっきりと見ているように思っているけれど、神様がご覧になるようにはっきりと見ているのではないのだ、逆に、花が微笑みかけてくるような姿こそ、花の本質であるかもしれない、そう思いました。
すべてがはっきりとする「時」が来ます。その「時」に向かって、神様はわたしたちを歩ませてくださっているのです。
わたしたちが自分ではどうすることもできない「罪」さえも、神様は雪のように白く清めてくださいます。そして、限りあるものではなく永遠に続くものをはっきりとお示しくださいます。今はぼんやりとしかわからなくとも、はっきりとわかる時が来るというのです。そのような「神様とわたし」の関係が、今、用意されているのです。今日の聖書の御言葉は、その事実をわたしたちに示しています。
13節。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
だから「愛を追い求めなさい。」(14章1節)と続きます。
この恵みの中で「愛を追い求める」というすばらしい「道」が、わたしたち一人ひとりすべての人に開かれているのです。地上のこの「最高の道」に対して、もしわたしたちが「一部分でいいです」と目を向けないならば、非常にもったいないことです。今、この瞬間から、その「最高の道」を歩き始めましょう。