牧師 田村 博
2022.11.6
降誕前第7主日礼拝(召天者記念礼拝)
説教 「天に蓄えられている財産」
聖書 創世記 26:1~6 ペトロの手紙一 1:3~9
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
召天者記念礼拝にあたり、「召天者名簿」に記されている名前を読みあげていただきました。礼拝出席者のお一人お一人が、また、礼拝を覚えつつそれぞれの場所で祈りを合わせているお一人お一人が、この名簿にはお名前が無くとも、すでにこの地上での歩みを終えられた親族、親しい知人、友人を、それぞれ覚え、思い返して心をめぐらせていらっしゃることと思います。すべての造り主である主なる神様は、その思いをも含めて、すべてをご存じでいらっしゃいます。なぜなら、主なる神さまは、わたしたちの心の内側を知っておられるからです。わたしたちも『ああ、あの人は今、こんなことを考えているに違いない』と、他人の心の内側について考えることがあります。しかしそれは、心の内側を知っているのではなく、表情など、外側にあらわれた微妙な変化等を察知して推測しているだけです。
神様というお方は、わたしたちの心の内側をご存じなのです。なぜなら、わたしたちを創造され、生かしておられるお方を、わたしたちは「神様」とお呼びしているからです。指先、足のつま先に至る小さな細胞さえ知っておられ、その細胞が生きているために必要なものを太い血管や毛細血管を通して運んで全身に行き届かせ、その結果として、わたしたちの命は保たれているのです。
そのお方は3節にあるように「豊かな憐れみ」を、わたしたちに注いでくださいます。しかし、わたしたちはその「豊かな憐れみ」を疑いたくなるような出来事に遭遇することがあります。その中で、もっとも大きく見え、わたしたちを絶望させて立ち上がらせないようにさせるのではないか、あきらめるしかないのではないか、と思わせるのが「死」かもしれません。日々の報道を見ていても、「なぜこのようなことが起こるのだろうか?」と問いかけたくなるような出来事に満ちています。ウクライナ、ロシアでは、砲弾の下で、命を落としている人々が、今、この瞬間もいます。しかし、この聖書の箇所は、神様の「豊かな憐れみ」は、「死」という、そびえ立つその壁を前のように見えるものにしても、そこで、終わってしまうのではないと語っているのです。
3節は続きます。
「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…」と。「わたしたちを新たに生まれさせ」とは、人間にとって、どうしても必要な「もう一つの誕生」「もう一つの命」があることを指し示しています。
先ほど、名前を読まれた一人ひとりは、物理的な誕生=物理的命のほかに、「もう一つの命」があることを知らされるという経験をしています。それは「洗礼(=バプテスマ)」というかたちで、公に言い表されました。間違ってはいけないのは、何か儀式にあずかったことによって保証書のようなものをもらったというのとは少し違うことです。「洗礼(=バプテスマ)」とは、神様からご覧になって、まるでお母さんのお腹の中から赤ちゃんが、おぎゃあと生まれるのと同じような、新しい命の誕生なのです。その誕生によって、生き生きとした神様と人とのつながりが、まるでトンネルが開通するように開かれるのです。
もちろん人間は、不完全な存在です。神様とのつながりを忘れて、この世のさまざまな誘惑にうずもれそうになってしまうというようなことが、洗礼後もしばしば起こりえます。それゆえに、神様は、特別な方法をもって、神様とのつながりの大切さを、わたしたち一人ひとりに教えてくださいました。それがクリスマスです。世界中でイエスさまの誕生=クリスマスが祝われます。あまり意味もわからずに、ただ何となくケーキを買う、パーティをする、プレゼントを交換する(あるいはディズニーランドに行く)という方もいらっしゃることでしょう。悪いことではありません。なぜかホッと心があたたかくなるからです。それは、本人が気づいていなくても、イエスさまの誕生、イエスさまの存在が、わたしたちの心の中で、他のものではもたらすことのできない「希望」のともし火となって灯されるからなのです。
そのイエスさまは、わたしたちが、どんな誘惑にあっても、どんな妨害にあっても、本当の「希望」を決して見失ってしまわないように、この地上で、大切な御業をなさってくださました。
それが「復活」です。
イエスさまは、十字架の上で、確かに「死」なれました。そのとき、エルサレムにいた大勢の人々が証人でした。イエスさまは墓に葬られました。世界最強とも言われたローマ帝国の権威を身にまとった兵士たちが証人でした。確かに死んで葬られたのです。しかし、3日目に「復活」されたのです。イエスさまは、弟子たち、婦人たちにご自身をあらわされました。それは、誰にも予想できない出来事でした。予告されていてもまったく理解できない出来事でした。最も近くにいたイエスさまの弟子たちですら、「何が起きたのか」と問われてもすぐには説明のできない出来事でした。「復活」とは、今、聞くわたしたちの経験や理解をも超えている出来事です。理屈ではなく、事実として、弟子たちに、神様の方から(天から、上から)、一方的に、もたらされた出来事でした。それゆえ、地上の何ものも、この「復活」がもたらす「希望」を妨げることができないのです。
この「希望」は、わたしたちの感情レベルでの「希望」ではありません。
4節には、すばらしい、確かな約束が記されています。
「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
「天に蓄えられている財産」があるのです。それは、地上で功績を積むとそれに伴って蓄えられるのとは少し違います。求める先に、天にすでに備えられている財産です。わたしたち一人ひとりを、その財産を相続する、受け継ぐ者にしてくださるのです。
天に蓄えられている財産とは、どんな財産でしょうか。
3つのことがここにはっきりと記されています。
- 「朽ちず」
第1にそれは、「朽ちない」財産だと言われています。
宇宙の大原則に「エントロピー増大の法則」と呼ばれているものがあります。エントロピー(=乱雑さ)は、時間とともに必ず増大する。つまり秩序あるものは必ず無秩序に向かうのです。積み上げられたピラミッドも必ず壊れます。どんなに頑丈な建築物も、風雨にさらされれば老朽化し、いずれ崩れ落ちます。「かたちのあるものは必ず壊れてゆく」のです。朽ちることを防ぐためにはどうしたらよいでしょうか? 無秩序に向かうことを抑えるための「エネルギー」が補給され続ける必要があります。
イエスさまは地上で生活されたとき、「わたしにつながっていなさい。」と、ぶどうの幹と枝のたとえをもって弟子たちにお話しされました。来週は、聖書の中の宝シリーズ②『ぶどう』で、ちょうどその箇所を開きますが、「イエスさまを信じる」という、この一点でイエスさまとつながっている時、命を注ぎ込み、生きる者としてくださるという約束がここにあります。
地球において、石油がなくなりそうだというと争奪戦になるわたしたちです。小麦粉がなくなるというと、われ先に国単位で買い占めるといったことが起こります。それは、みな、「朽ちる」ものを追い求めるからです。しかし「朽ちない財産」があるのです。神様によって絶えず、上から補給され続ける財産です。その「朽ちない」財産にわたしたちは、永遠にあずかり続けてゆくのだというのです。
- 「汚れず」
第二にそれは、「汚れない」財産だと言われています。
イエスさまの時代、イスラエルの人々は、「汚れ」にとても敏感でした。神様は完全な、聖なるお方であるから、そのお方の前に出る時も「清く」なければならないと考えました。神殿で礼拝をささげる時にも、まずその身を清めました。さらには清めのための生贄がささげられました。しかし、イエスさまはある時、「清さ」を人一倍意識していた「律法学者、ファリサイ派の人々」にこうおっしゃいました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタイ23:27)
いつの間にか、人に見られる部分だけよく繕おうとして、人から見えない部分を隠そうとしてしまうようなわたしたちです。いつの間にか、心の隙間にそっと入り込んでくる「汚れ」です。見つからなければ、許されると、わたしたちはしばしば勘違いします。しかし、イエスさまは心の中にそっと入り込んでくる「汚れ」のことを問うているのです。
イエスさまは、そのためにご自身の「血」を流してくださいました。イエスさまがいらっしゃるまでの「時」において神殿でささげ続けられていた「いけにえ」は、このイエスさまの、まことの「犠牲」が、やがて成就されるということを伝え続けていたのでした。
イエスさまは、十字架の上で流してくださった血潮により、すべての罪を清めてくださったのです。
それゆえ、わたしたちが天で受け継ぐ財産は、いっさいの汚れから清められた財産なのです。
- 「しぼまない」
第三にそれは、「しぼまない」財産だと言われています。
わたしたちはしばしば、自分をより大きく見せようとやっきになります。まるで風船をふくらますようにして、自分を立派な存在であると誇ろうとします。自分の方が、よく知っている、あの人たちよりは…と。気がつくと、中の空気はいっぱいいっぱいで、少しでも穴が開こうものなら、たちまちシューっと空気が抜けて、ヘナヘナと立ち上がれなくなってしまうのです。
聖書のコリントの信徒への手紙一 3章16節には、このような御言葉があります。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
わたしたちは聖霊の満たされるための「器」なのです。そして神様が内側を満たしてくださるのです。だから、むなしく大きく見せる必要など、まったく必要ないのです。
神様がわたしたちにあずからせようと備えていてくださる財産は、神様ご自身の聖霊に満たされている、決して「しぼまない」ものです。何とすばらしいことでしょうか。
この「朽ちず、汚れず、しぼまない」財産を受けとるのは、世の終わりの時、完成の時だと聖書は語っています。5節にある「終わりの時」は、そのことをあらわしています。
その「終わりの時」への途上であるこの地上にあっては、いろいろな「試練」があります(6節)。
なるべく「試練」にあわない人生を送りたいと誰もが思うことでしょう。そして、「試練」に遭遇している人を見ると、運が悪い人だねと考えたり、自分でなくてよかった、とちょっぴりホッとしたりします。しかし、それは本当の「試練」との向かい合い方ではありません。「試練」は、わたしたちの「神様」に向かい合う「信仰」が本物であることを証明するためにあるというのです。
創世記26章には、アブラハムの時にも、その子・イサクの時にも「飢饉」があったことが伝えられています。 「ああいやだ、いやだ」親子そろって! 生き方を間違えているのでは? 悪いこと続きで「お祓い」でも?
そう考えそうになる経験かもしれません。しかし、その時こそ、神の祝福の声を聴くという経験をしました。
3年ほど前、『奇妙な死刑囚』という翻訳本が日本でも出版されました。その本には、アンソニー・レイ・ヒントンという人が実際に経験したことが記されています。
彼は、黒人差別が残るアメリカ南部アラバマ州に生まれ育ち、1985年、29歳のときに逮捕、起訴されました。身に覚えがなかったのですが、貧しいゆえに、まともな弁護士も雇えませんでした。アリバイもあり、犯人ではないという証拠があるにも関わらず、検事によって隠蔽され、個人的な恨みから偽証され、身に覚えのない強盗殺人の罪で死刑宣告を受けたのです。以後約30年間、彼は死刑囚監房で過ごすことになります。最初の数年は憎しみと絶望のあまり誰とも口をきかなかったそうです。しかし、その彼が変えられてゆきました。そして、その彼の変化が他の死刑囚や職員の心までも変えていきました。1999年、人権派のブライアン・スティーブンソンという人がが弁護人になりました。その後も紆余曲折を経て、2015年4月、とうとう釈放されたのです。
絶望して自暴自棄になり、自分に対して不当な措置をとった人間たちを恨み、深く憎悪しても不思議ではないというのに、冷静に自分を取り巻く状況を認識し、恨むより赦すという道を選んだのでした。彼はイエスを信じる信仰によって試練の向こうの希望を信じ(Ⅰペテ1:3-5)、不正を前に超自然的な「喜び」を経験したのです。
レイは、偽証した人たちを赦すこと、また、彼の「喜び」はいかなる不正によっても奪われないことを裁判で証言しました。そして「私は、死後、天国に行きます。あなたたちはどこに行きますか」と問うたそうです。釈放後に彼は語りました。「私の喜びは刑務所の中でさえ誰にも奪われませんでした」と。
今なおアラバマ州に住み、刑務所改革を訴える講演を精力的におこなっています。コロナ禍にあって、孤独に感じている人たちに積極的に呼びかけています。「わたしは30年間独房で孤独でした。でもその中でも希望があります。孤独を克服するヒントを教えましょう!」と。
その喜びは、彼の信仰が精錬された本物だと証明しています。
「朽ちず、汚れず、しぼまない」財産があります。決してなくならない希望がここにあります。彼もその財産を、そして希望を受けとった一人なのです。わたしたちも受け継ぐ者となりたいと思います。
牧師