2021年12月19日説教「救い主である神を喜びたたえる」

牧師 田村 博

2021.12.19

 説教 「救い主である神を喜びたたえる」

 聖書 サムエル記上2:1~10  ルカによる福音書2:39~56

 アドベント第4の主の日、クランツのろうそくに4つの火が灯りました。

 この喜びの日に与えられた聖書の箇所は、「マグニフィカト」と呼ばれる部分を含んでいます。47節から始まる「マリアの賛歌」の、ラテン語訳の最初の言葉が「マグニフィカト(=わが心、主を崇め)」です。

 ここには、マリアの心の奥底から湧き上がる喜びがあります。それは、一時的な喜びではなく、永遠につながる喜びに他なりません。そして、わたしたちもその同じ喜びにあずからせようと、主なる神様は本日の聖書箇所をくださいました。

 39節には、この喜びがあらわされた場所と状況について記されています。

 その前の部分(28節以下)に記されている通り、マリアは天使ガブリエルに語りかけられました。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(30~33節)

 戸惑うマリアに、天使はなおも語りました。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35~37節)

 マリアは、そのすべてを受け入れ答えました。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)

 天使は去って行きました。天使は、その前にザカリアにも現れているのですが、その際には「去って行った」と記されていません。「去って行った」のひと言に、“なすべきことをすべて成し遂げた”という、著者ルカの思いが込められているように思います。後に、野原で羊飼いたちに天使たちが現れた時にも「天に去った」とはっきりと記されています(2:15)。ここでも“なすべきことをすべて成し遂げた”、天使の言葉がすべて受け入れられたという喜びがあるように思います。

 天使の言葉を受けとめたマリアは行動します。それが、39節です。

 「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」

 この「ユダの町」がどこであるか、気になるところです。伝承によるとそれは「エイン・カレム」という町であろうと言われています。「エイン・カレム」の意味は「ぶどう園の泉」です。うっとりするような良い響きです。先月の聖書研究祈祷会の時に、ちょうどこの箇所を学び、その時もお話ししたのですが、銀座にあるキリスト教書店の本屋さんの上の小物販売フロアの名前が「エイン・カレム」です。もちろん、聖書のこの箇所から採ったものです。

 このユダの町で、その町に住むザカリアの妻・エリサベトに、マリアが出会ったまさにその時、このマグニフィカトは、マリアの口から溢れ出ました。

 その場面を、思い描いてみてください。二人の女性が、向かい合って、肩を抱き合い、手を取り合って、心を一つにして喜びを共にしている場面を思い描くことでしょう。しかし、聖書を落ち着いて読んでみると、この二人の女性の間には、まったく異なるものがあることに気づかされます。

①年齢

 まず年齢です。エリサベトは、1章7節に「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。また、そのエリサベトが子供を授かることを夫ザカリアが告げられた時に、ザカリアは「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)と答えています。エリサベトは高齢者でした。

 一方、マリアは、ヨセフと結婚の約束をしていた、いいなずけ同士の関係でした。当時のユダヤ人の習慣から考えると、16~18歳、すなわちティーンエイジャーです。

 通常では、心と心を通じ合わせることが、なかなか難しいと思えるようなギャップがあるのです。しかし、そのギャップが取り除かれるのが、このクリスマスの時なのです。

②町

 実は、二人のギャップは、年齢だけではありません。マリアが住んでいたのは26節にあるように「ナザレ」です。その意味は「花」です。旧約聖書には一度も出ていない地名で、ヨハネによる福音書では、「ナザレから何のよいものが出ようか」と言った主イエスの弟子となった人の言葉があるほど、ちいさな顧みられないような町でした。エイン・カレムとは大きなギャップがあります。

③身分

 二人の身分についてですが、エリサベトは「アロン家の娘」(1:5)と紹介されていますが、マリアについては一切紹介されていません。

④周囲にいた人々

 二人の周囲にいた人々についてもまったく異なります。エリサベトの周りには、その懐妊を喜び、子どもの誕生を喜ぶ親族が大勢登場します(1:25、58~)。一方マリアについては、いっさい登場しません。聖書には記されていませんが、マリアがナザレの家からエリサベトのところに向かうにあたって、両親や婚約者ヨセフに何も言わないで出発したとは少々考えられないことです。皆さんも自分の娘が何も言わずに3か月居なくなるなどということが考えられるでしょうか。マリアは、天使に告げられたことを、両親に話したに違いありません。聖霊によって身ごもった、と。そして、信じてもらえなかったにちがいありません。婚約者ヨセフにも話したにちがいありません。聖霊によって身ごもったのだ、と。マタイによる福音書には、その知らせを受けたヨセフが、悩み、信じられずに、「ひそかに離縁しようと」して夢で天使に止められたことが記されています。ヨセフにさえ、最初は信じてもらえなかったマリアだったのです。

 年齢、町、身分、周囲にいた人々。このギャップをルカによる福音書の著者ルカは、はっきりと描いています。そして、クリスマスの出来事、神の独り子、イエス・キリストの誕生こそ、このギャップを本当の意味で埋めることのできる出来事なのです。

 クリスマスは、わたしたちの間にある、さまざまなギャップを本当の意味で埋めさせてくれる「時」です。

痛ましい事件が、これでもかとばかり、大阪で、日本で、世界で起きている現実があります。人と人との心を引き裂いたり、広げたりする要素が満ちています。だからこそ、わたしたちは、今、この御言葉に耳を傾ける必要があるのです。

 41節から45節の中に、そのギャップを埋める大切なキーワードが隠れています。

(1)「聖霊」(41節)

 神の聖なる、清い霊が、すべてに先立ち、すべての関係の間を満たしてくださるのです。わたしたちがどうしても超えられないギャップを感じるとき、そのギャップを埋めるところに、まず、神様ご自身が臨んでくださいます。わたしたちが必要を覚えるより先に、神様ご自身が、そこに臨み、御業をなさってくださる、なそうとされている、それは最も大切なことです。

 エリサベトは聖霊に満たされました。聖霊が与える交わりの中に、二人が置かれました。その時、ギャップは埋められていったのです。

 以下の三つはマリアについて言及するかたちであらわされています。

(2)「あなたは女の中で祝福された方」(42節)

 エリサベトは、マリアが「祝福された」存在であることをまず声高らかに伝えます。

 この「祝福された」という言葉は、45節にある「幸い」とは別の言葉でありますが、つながってゆきます。元訳聖書(明治訳)では、そのつながりを意識して「幸福」の「福」という字を用いて「さいはひ」と読み仮名をつけて訳しています。45節、そして48節にある言葉は、ギリシャ語では「マカリオイ」という言葉から派生した言葉です。マタイによる福音書5章にある山上の垂訓(説教)と呼ばれるところに繰り返し出てくる「幸い」です。この「マカリオイ」(幸いである)は、ヨハネによる福音書20:29の

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

につながっています。聖書全体が、神様の「祝福」「幸い」でつながっているのです。

 神様のもたらす祝福、神様のもたらす幸いが、ありとあらゆるギャップを埋めてゆくのです。

(3)「わたしの主のお母さま」(43節)

 ここには、最大級の尊敬があります。重ねて確認しますが、エリサベトは、マリアの何倍も年をとっているのです。経験も豊富です。にもかかわらず、自分が礼拝する主なる神様、主なるお方の母上としての尊敬をもって、エリサベトはマリアを呼ぶのです。

 ルカによる福音書11章には、主の母上ということの幸いが再び記されている箇所があります。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」(11:27,28)

 マリアとエリサベトも親族同士でした。肉のつながりも大切です。しかし、その肉のつながりをはるかに超える大切なつながりがここにあります。「わたしの主のお母さま」という言葉も、この肉のつながりを超えた新しいつながりに基づく言葉です。それは、尊敬の思いを生み出し、その尊敬の思いのあるところに、様々なギャップが埋められてゆくのです。年齢、経験を超えた尊敬が生まれ、ギャップを埋めるのです。

(4)「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」(45節)

 この時、エリサベトの夫ザカリアは、口が利けないままでした。1章20節には、はっきりと、ザカリアが口を利けなくなったのは「信じなかったから」だと記されています。エリサベトは、信じることの大切さを身をもって経験している最中でした。ザカリアと対照的に、目の前に立っているマリアは信じました。信じることこそ、あらゆるギャップを埋めてゆくのです。

 わたしたちの信仰に目をとめてくださり、わたしたちを聖くしてくださるお方がいらっしゃいます。そのお方が、マリアとエリサベトの間にあるあらゆるギャップを取り除いたように、わたしたちの経験するありとあらゆるギャップを取り除いてくださるのです。

 主なる神様は、わたしたちを聖なる霊で満たしてくださり、そこのことによって祝福された者としてくださいます。肉によらず霊による交わりの中で、まことの尊敬を与えてくださいます。そして、信じる者と変えられたわたしたちは、心の底から主をほめたたえる賛歌「マグニフィカト」を告白することができるのです。

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