牧師 田村 博
2021.11.7
説教 「モーセと預言者に耳を傾ける」
聖書 ルカによる福音書16:19~31 イザヤ書63:11~14
本日は、召天者記念礼拝です。それゆえ、説教に先立って、お手元の「召天者名簿」によって、先に召された兄姉のお名前を朗読していただきました。本日、共に礼拝をおささげしているお一人お一人が、ここにお名前がなくても、それぞれ先に召されたご家族、ご親族、また知人、ご友人のことを思い起こしていらっしゃるかと思います。全能の主なる神様は、お一人お一人のその思いをすべてご存知のお方です。そして、わたしたちが知っている以上に、先に召された方々のことをすべてご存知であり、また大切に思ってくださっていると信じます。
さきほど読んでいただいた新約聖書箇所には、主イエスによって語られたひとつのたとえ話が記されていました。主となる登場人物は、ある一人の金持ち、そしてその人の門のところに横たわっていたひとりの男です。その男の名前はラザロといいました。時がたち、二人とも召されて、場所は死後の世界に移されます。そこでは、立場が逆転していました。
このたとえ話は、決して、金持ちを否定したり、すべての人が経済的に平等でなければならないという平等主義を押しつけようとしているのではありません。また、単に、お金をたくさん持っていても、貧しい人に施しを惜しむならば地獄行きだと怖がらせようとしているのでもありません。
このところから4つの大切なことを心に留めたいと思います。
- 誰にも「死」は平等におとずれる
まず第一は、誰にも「死」は平等におとずれるということです。
コロナ禍で揺れた医学界ですが、この命の危機が落ち着いた後に来るのが「再生医療ブーム」であろうと、密かにささやかれています。IPS細胞の研究が進み、一つの細胞から目的とする器官の細胞を作り出すことができるようになりました。自分の細胞から造られたものであれば、自分の体に移植されたり、投与されたりしたときに理論上は拒絶反応が起きません。臓器移植による治療は、様々な器官で行なわれていますが、拒絶反応を起こさせないための免疫抑制剤を一生のみ続けることは必須でした。それが要らなくなるのです。実際に、骨髄移植などでは行なわれているのですが、簡単なものでも一回1000万円以上といった単位の費用がかかります。お金持ちであれば死ななくてすむ時代が来るのでしょうか? 心臓や胃などどの器官ひとつとって考えても、それは独立しているわけではありません。神経系統や様々な連携によって脳とつながっており、悪くなったところを取り替え続けても「死」は免れることができないのです。
聖書に出てくる金持ちもラザロにも「死」は平等にやってきました。このたとえ話は、まずそのことを伝えています。
- 「死」はすべての終わりではない
第二に、このたとえ話は、「死」はすべての終わりではないということを教えています。
もし、「死」のあとに別のものに生まれ変わるとしたらどうでしょうか。他の生き物に対する愛情、命を大切にしなければ、という意識を育てるのに役に立つことでしょう。虫を踏みそうになっても、もしかしたら、自分につながりのある大切な人かもしれないということになれば、無下に踏んだりできなくなるでしょう。道徳教育という点においてプラスはあります。
しかし、聖書には、こう記されています。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9:27)
神によって「命」を与えられているわたしたち一人ひとりです。その「命」の世界は、不思議なこと、まだわかっていないことに満ちています。一人ひとりの「命」は、「死」によって終わってしまうようなものではないというのです。一人ひとりの存在は、その人自身として、命を造ってくださったお方によって覚え続けられているのです。ラザロがこの地上で味わった痛み(犬にできものをなめられてどうすることもできず流した涙も)を、創造主なる神様によって、どれ一つ忘れることなく覚えられており、そこに痛みがあるならば癒してくださるというのです。それは、「霊」と「肉体」を別々に考え、「霊魂不滅」というのでもありません。神様との関係において、その存在は消えてなくなるということはないのです。
- 問われているのは何に耳を傾けて生きているのかということ
そこで問われているのは、何に耳を傾けて生きているのか、ということです。たとえ話の中の金持ちは、「死」が終わりではないということに気づかされ、何が大切だったのか、ということをひしひしと感じていました。自分が大切にしていた「富」は、ここに何一つ持ってくることができないということを知らされていました。人は誰もが何も持たずに生まれます。そして「死」を超えて何一つ持ってゆくことができません。そのことを気づかされる中で、自分が歩んできたのと同じ道を歩むことがないように、兄弟たちに伝えて欲しいと思い至ったのです。
27、28節。
「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」
「言い聞かせてください。」
つまり耳を傾けるべきことの大切さを教えてあげてください、と懇願したのです。
しかし、アブラハムは答えました。29節。
「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」
「モーセと預言者」は聖書全体を指しています。聖書を通して、もうすでに語り続けられているのだというのです。
30節。その金持ちは知っていました。兄弟たちがモーセと預言者を軽んじて、見向きもしないということを。それは自分もそうだったからです。もし、「死んだ者の中からだれかが…行ってやれば…」もっとはっきりと示してくれれば。わかりやすく示してくれれば。そうすれば信じることができるのに。
わたしたちもそう考えがちです。もっとわかりやすく教えてくれる人がいれば大切なことを理解できるのに…。しかし、すでに語り続けられているのです。わたしたちが、今、手にしている聖書を通して。
- 見えない「枠」の存在とその撤廃
最後に(四番目に)このたとえ話が教えているのは、見えない「枠」の存在とその撤廃です。
登場する金持ちは、決して極悪人のようには紹介されていません。むしろ、次の世での苦しみの中で、自分がどうしようもないとわかると、まだこの世で生活している他の人のことを心配しています。
ただし彼が心配していたのは、自分の5人の兄弟たちについてでした。家族という「枠」がここに存在しているのがわかります。もちろん家族という「枠」も大切です。しかし、わたしたちは一歩間違えれば自分自身が大切であるゆえに家族を大切にするというところにとどまってしまう危険性があります。自分にとって大切な関係を形づくる過程で、視野が狭くなり、大切なことを見逃してしまうことがあるのです。
気仙沼で牡蠣の養殖に携わっている畠山重篤さんという人がいます。彼は牡蠣の養殖にとって何が大事なのかを見つめる中で、視界のはるか向こうにある森がとても大事であることに気づきます。森から川に流れ込み、海に達する栄養分(それらは広葉樹林によってもたらされるのですが)なしには牡蠣の養殖はありえないということに気づき、「森は海の恋人」運動を呼びかけ、展開しています。目に見えるところにある家族、身内を超えたところにある交わりの中に、実は一人ひとりにとってなくてはならないものがあるのです。自分自身で造ってしまう「枠」が、本当は自分にとって必要なものを見えなくさせてしまうことがあります。イエス・キリストは、十字架にかかられたとき、最も小さい者、最も貧しい者であるかのような姿を人々の前にさらけ出しました。それは、わたしたちが、自分の目に見える範囲で満足してしまわないためです。わたしたちが「枠」の中で満足してしまわないように、イエス・キリストは、あえて最も小さい者、最も貧しい者にご自身の姿を重ね合わせて十字架にかかられ、命さえもささげてお示しくださったのです。このお方にわたしたちが目を注ぐときに、いつの間にか築いてしまう見えない「枠」が取り除かれてゆきます。そのために、イエス・キリストは、地上に来てくださいました。このたとえ話を通して、その恵みに目を向けてゆきましょう。