2020年2月2日 礼拝説教「われ信ず、信仰なき我を救いたまえ」

イザヤ書6:1~8
マルコによる福音書9:14~29

櫻井重宣

今、耳を傾けたマルコによる福音書9章14節~29節には、病気の息子のことで心を痛めている父親が、イエスさまが病気の人を癒しているといううわさを耳にし、なんとか治して欲しいと願い、病気の息子を連れてイエスさまのところにやってきたことが記されています。

わたしもそうですが、皆さんの中にもこの父親と同じような苦しみを持っている方がおられるかと思います。子どもの病のことで苦しむ親にとって、この父親の苦悩はひとごとではありません。

聖書に記されていることに少しずつ思いを深めていきます。

イエスさまはしばしば祈るために山に行っておられます。このときも、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて山に行って祈られたあと、山から下りて来られたとき、留守を守っていた弟子たちが、大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしていました。群衆はイエスさまが山から戻って来られたことが分かりますと、非常に驚いて駆け寄って来て挨拶しました。イエスさまは、「何を議論しているのか」、とお尋ねになりますと、群衆の中のある者が答えました。その人は、病気の子どもをイエスさまに治して頂きたい、その願いでイエスさまのところにやってきた人です。彼はこう答えました。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした、」と。父親の落胆振りが分かります。また、律法学者たちは、病気を治せない弟子たちを糾弾していたのです。

そうしますと、イエスさまは「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」とおっしゃいました。

「なんと信仰のない時代なのか」というのはどういうことなのでしょうか。この生まれつき病で苦しむ子どもの苦しみに、そして子どもの病気のことで苦しんでいる家族の苦しみに誠実に関わろうとしない時代、関わることのできない時代、そのことを嘆いておられる言葉と言ってよいかと思います。

ここ10日ほど前から新型コロナウイルスによる肺炎のことで世界中の人々が動揺しています。とくに中国の人々がどんなに不安な思いでいるかと思うと心が痛みます。この病の前になすすべを持たず、途方に暮れるわたしたちにもイエスさまは「なんと信仰のない時代」か、と嘆いておられるのではないでしょうか。

20節を見ますとこう記されます。《人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」》

その子どもがイエスさまのところに連れて来られたとたん、発作を起こしました。ひきつけを起こして、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。イエスさまからいつごろからかと尋ねられた父親は、幼いときからですと父親は答えたのですが、この息子が幼い頃から幾度となく発作を起こして転げ回る、そしてもう死んでしまうのではないかと恐怖を覚える、そのことを思い起こした父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願い出たのです。

ここで父親が「憐れんで」は、イエスさまが病気の人、苦しむ人、悲しむ人に関わるときの特徴的な言葉です。はらわたを揺り動かす、その人の痛み、苦しみ、悲しみに体の深いところで受けとめる、そのときの言葉です。ここでは、息子が幼いときから何度も引きつけをおこし、そのたびに心臓が締め付けられるような苦しみを味わってきたこの父親があまりにもつらく、イエスさま、おできになるなら、あなたのはらわたをゆり動かし、わたしどもを憐れんでください、と願い出たのです。しかも、癒されなければならないのは、息子だけでない、息子と共にわたしを憐れんでくださいと願い出たのです。

わたしがかつて在任していた教会で若い人々が土曜日に日曜日の礼拝のための清掃の奉仕をしていたとき、ひとりの青年がてんかんの発作のため、わたしの目の前で倒れました。すぐ救急車を呼ぶとともに教会員の御子息でしたので、お家に電話し、お母さんがかけつけましたが、彼のお母さんが長年負ってきた苦しみがどんなに大きいものであるかをはじめて知った思いでした。

この父親の「おできになるなら。わたしどもを憐れんでください」という叫びに対してイエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」とおっしゃいました。そうしますと、その子の父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだのです。文語訳では、「我信ず、信仰なき我を助けたまえ」です。

いつも思いを深くさせられるのですが、最初、父親はこの子の病を治してくださいとイエスさまに願いでています。そしてイエスさまと語り合うなかで、わたしども、すなわち息子とわたしを憐れんでくださいと願い、最後的には信仰のないわたしを助けてくださいと願いでています。助けて頂かなければならないのはわたしだ、と言っているのです。そして、わたしは信仰がないと言うその父親がわたしは信じます、と告白しているのです。

イエスさまが最初に「なんと信仰のない時代か」嘆かれましたが、父親が「信仰のないわたし」と叫ぶとともに、われ信ず、と告白しています。わたしは関わることができないのですが、息子に御自分のすべてを注ぎ出して関わってくださるのはあなたさま、イエスさまです、と告白しているのです。

25節以下にこう記されています。

《イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。》

弟子たちは、どうしてわたしたちはあの霊を追い出せなかったのか、とテクニック、やり方を聞きます。イエスさま、テクニックでない、祈りだとお答えになるのです。聖書は印刷機がない時代、写して伝えられました。写本がいくつもあります。今日のこの個所の写本の中に、「祈りと断食」という写本もあります。一人の人が苦しむとイエスさまは夜を徹して祈る、食を断って祈る、そのことが大切だ、小手先ではだめだ、とおっしゃるのです。

先ほど耳を傾けたイザヤ書6章には、イザヤが預言者として召されたときのことが記されています。くわしくは学ぶことはできないのですが、一つだけ心に留めたいことは、イザヤが神殿で祈っていたとき、神さまにお会いしました。そのとき、イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」、と告白しています。イザヤが有能であったからではありません。汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者の一員だ、そのことを告白したイザヤは、聖なる方を伝える預言者としての働きへと召されるのです。その時代の苦悩を自らのこととして受けとめるとき、神さまがこの混沌とした時代にどう関わってくださるのかを知り、証しするものとなるのです。

 先週1月27日はナチス・ドイツがユダヤ人を撲滅するためにつくったアウシュビッツ強制収容所が解放されて75年の記念の日でした。アウシュビッツのあったポーランドで記念式典が行われました。75年目の記念式典があったということで思い起したのは、ドイツ文学者の小塩節先生が若い時に経験したことです。今から50年位前、小塩先生がドイツのミュンヘンに留学中、友人に夕礼拝に出席しようと誘われました。ドイツではなかなか夕礼拝をしている教会がなかったのですが、ようやく探し当てたのは、人影もない裏通りの普通の家で行われている礼拝でした。二つの部屋をぶちぬいた集会所はいっぱいの人が集まっていました。その牧師はガウンではなく普通の背広で説教していたというのです。説教では、アメリカの黒人差別の問題を語り、最後に「わたしたちは六百万人のユダヤ人をガス室に送りこんだ。また数多くの東ヨーロッパの人々を殺した」、とイザヤのように、わたし個人も民族もおそるべき罪を犯したと語りました。そして説教の後の祈りで、その先生は「神よ、わたしたちは罪にまみれています。あなたに対し、世界に対してわたしたちは罪を犯しました。神よ、われ信ず、信なき我を救いたまえ」と目から涙を流しながら祈ったというのです。その礼拝に出席していた多くの人も頭を垂れ、目を押さえたままの人が何人もいたというのです。

 その牧師は、学生時代にナチスへの抵抗運動のため逮捕され、アメリカの侵攻が一週間遅れたら、収容所で殺されていたと思われる人でした。けれども、礼拝でそのことは何一つふれず、加害者ドイツ人のひとりであることを会衆とともに神さまにおわびし、赦しを請うていたのです。

この時代に対し、この時代で苦しむ人に対して、わたしたちは無力です。けれども、あなたは御自分の命まで注ぎ出して苦しむ一人一人に関わってくださいます、そのことをわたしは信じます、と心から告白するものでありたいと願うものです。

「われ信ず、信仰なき我を救いたまえ」 

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