2020年10月18日 礼拝説教「生きた水が川となって」

ヨハネ7:25~39
エゼキエル書47:1~12

田村博

年間予定では、本日は「秋の特別伝道礼拝」を予定していました。しかし、残念ながら新型コロナウイルス感染予防の観点から、積極的に教会にお招きすることは自粛することになってしまいました。集会を持つことができなかったことはとても残念ですが、主ご自身が、わたしたち、そしてわたしたちと共にある人々に注いでくださる愛のまなざしは決して変わることがありません。それぞれに、心に思い浮かべ、またその救いのために祈り続けている方々がいらっしゃることでしょう。会堂にお招きすることはできませんが、神さまは別の方法を用いても、その御業を実現することのおできになるお方です。

そのために、主は、今朝も素晴らしい御言葉を用意してくださいました。

ヨハネによる福音書7章37、38節の主イエスの御言葉を、まず、もう一度、心に留めてみましょう。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

この御言葉は、誰のためにあるのでしょうか。

この聖書の箇所は、2000年前、エルサレムで盛大に祝われていた仮庵祭に参加するために集まっていた人々という漠然とした聴衆の存在を伝えているのではありません。

ヨハネによる福音書7章25節、26節をご覧ください。

「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」とあります。

人々は、迷いの中にありました。

主イエスは、本当にメシアなのだろうか。自分たちを救ってくださるお方なのだろうか。それに反対する人々がいる。その存在をムキになって否定する(殺そうとねらっている)人々さえいる。そんな中で、何が正しいのかわからなくなっていました。本日のメッセージは、主イエスが、その“迷いの中にある人々”を“迷い”からどのようにして救い出してくださるのかを明らかにしています。

28節をご覧ください。「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。」とあります。主イエスは、「大声で」お答えくださるお方なのです。たまたま近くにいたラッキーな人だけが聴くことができるのではありません。耳のよい人だけが聴くことができるのでもありません。

わたしたちもしばしば迷いの中にいる自分を発見することがあります。迷いの中にあるわたしたちにも、主イエスは大声ではっきりとお語りくださいます。

さて、主イエスは、わたしたちが迷いから脱出するために、まずどこに目を向けよとおっしゃっているのでしょうか。28、29節をご覧ください。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わし担ったのである」

人々は、メシアの到来について、ある種の「イメージ」をもっていました。それは、はるか昔、出エジプトの際に、シナイ山で彼らが律法を与えられたときの様子が影響していたかもしれません。雷鳴が響き渡り、雲が立ち込め、人々が恐れの余り地にひれ伏す中、ふと見上げると主イエスが立っておられた、というように人々の前にお姿を現したというならば、信じられるのに…という思いをもっていました。あるいは、生まれて間もなく言葉を話し始め、その知恵の深さは噂となり、たえず人々がやってくるという幼少期を過ごされ、現在に至っているというならば、喜んで特別な存在として、来るべきメシアとして受け入れたのに、というのです。

しかし、主イエスは違いました。ナザレで、大工さんであった父・ヨセフも母・マリアも普通の人だったのです。主イエスご自身も、父・ヨセフを助け、大工の仕事をなさっていたに違いありません。主イエスは、そのようなわたしたちの日常の真っ只中においでくださったのです。そこに主イエスをお遣わしになったお方、すなわち主なる神の真実があります。

すべてのことをおできになるにもかかわらず、完全な「人」として、主イエスは日々を過ごされました。それは、囚人が牢獄にとらわれて外に出ることができない拘束状態のように、無理をして「人」として過ごされたというのでもありません。主イエスはおっしゃいました。「わたしはその方(父なる神)を知っている。」 主イエスは、主なる神の御心を完全に「知って」おられ、その確信の中で「人」としての歩みを続けられたのです。

わたしたちも「迷い」の中で、しばしば超自然的な、超常的な「しるし」、劇的な展開を期待してしまいます。しかし、主なる神は日常の中にご自身の御業をすでにあらわしておられます。そして、日々、あらわし続けておられます。

ローマの信徒への手紙1章20節には、

「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」

と記されています。

また、マタイによる福音書25章40節には、

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とたとえを通して、わたしたちが日常の中にある一つ一つの出会いがかけがえのないものであることをお示しくださっています。

先入観、イメージを取り払い、主が今、置いてくださっている現実の中に、何があるのか、わたしたちがもし「迷い」の中にあるなら、まず、今一度立ち帰ってみたいと思います。

立ち帰ったとたん、迷いがすべてなくなるとは聖書は語っていません。「とらえようとした」しかし「手をかける者はいなかった」31節にも、信じる者、信じない者が交錯する様が記されています。迷いは続いています。

そして、33、34節です。

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

深い溝、深い断絶がここにあります。

これは主イエスご自身の十字架の「死」を指しています。

誰一人、「捜しても、見つけることがない。」「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」のです。先に、大勢の弟子たちが離れて行ったときに残った十二弟子さえ、例外ではありませんでした。主イエスの孤独。そして、そこにある溝は、深い断絶は、誰にも埋めることができないのです。わたしたちが、“最高のわたし”をもってしても埋めることのできない溝であり断絶です。

皆さんの中に、某放送局の朝ドラ「エール」をご覧になっていらっしゃる方がおられると思います。ご覧になっていない方には申し訳ないのですが、少し、そのお話をさせていただきます。先週は、作曲家である主人公が戦地・ビルマに赴く場面が放送されました。自分の作曲した曲で前線の兵隊たちを励まそうとするのです。しかし、彼が目の当たりにしたのは、戦争の現実です。直前まで、笑っていた若者が目の前で撃たれて死んでゆく。自分が作曲した歌によって兵役志願の決意をしたという若者たちの死を前に、彼は絶望します。自分は何をしてきたのか! と。 朝ドラは主題歌が毎回流れるのですが、その明るい曲も流されることはありませんでした。朝ドラ史上初めてと言われるほど、シリアスな深い絶望が描かれています。

出演者、協力者が字幕で毎回流されますが、そこに何度か「キリスト教考証・西原簾太」という名前が出ているのに気づかれましたでしょうか。彼は聖公会の教職です。主人公の妻のお母さんはクリスチャンという設定なのですが、彼によるとそれは史実で、豊橋の聖公会の教会の教会員だったそうです。特高による監視、拷問も事実に忠実に再現しています。空襲によってことごとく焼け落ちた自宅にたたずんで主人公の妻のお母さんが讃美歌「うるわしの白ゆり」を全曲歌う場面がありました。元々の台本では、その場面は、「戦争の、こんちくしょう!こんちくしょう!」と唸りながら地面を叩くシーンだったそうです。しかし俳優の薬師丸ひろ子さん(キリスト教主義の大学卒)が、この讃美歌を歌いたいと申し出たそうです。絶望深い淵にて、なお、そこに残るとすれば復活の希望、キリストの復活以外にない、というメッセージがその讃美歌にありました。

わたしたちが「迷い」から本当に脱出するためには、この主イエスの深い絶望を知る必要があるのです。主人公が絶望の中で「知らなかった」と涙ながらに叫ぶシーンがありました。わたしたちも「知らない」うちに人に深い傷を与えていることがあるのです。食卓にのぼる一つの食材も、そこにあるのが当たりまえと思うかもしれません。しかし、世界レベルで考えると、そのために目の前から食べ物を持ち去られて命を落としている人がいるという現実があるかもしれません。わたしたちはなかなかそのすべてを知ることはできません。知らされた時「知らなかった」と、主の御前に涙するしかないかもしれません。自分でその責任をとても負いきれないと絶望するかもしれません。

その絶望の真っ只中に、主イエスは、決して立ち去ることなく、見捨てることなく、とどまって声を掛け続けてくださるのです。

①自らの価値基準によって「しるし」を求めるところから離れ、②深い淵の存在を知り、そこにとどまってくださる主イエスがおられることを知ることを経たものに対して、37、38節の御言葉は届けられているのです。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

自分で満たすことができず、絶望と緊張のあまり咽喉が乾ききって声もでない、自分のしたことに責任を負うことができずにただたたずむしかない一人ひとりに対して、「だれでも」と語りかけられています。主イエスのもとに来て「飲む」ならば、その救いを信じて、心の内に受け入れるならば、その人が渇き、絶望から解放されるのみならず、その人の内から生きた水が川となって、すなわち、人に命を与える、本当に必要な水が川のように流れだし、また必要な人の渇きを満たすようになるというのです。それはエゼキエル書47章8、9節の御言葉の成就です。

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