ネヘミヤ記1:4~11
ルカによる福音書18:9~14
櫻井重宣
わたしたちの茅ヶ崎教会は1927(昭和2)年10月30日に創立されました。そこで本日は創立以来92年の教会の歩みが守られてきたことを感謝して礼拝をささげています。
実は、こうした創立記念日の礼拝を迎えたとき、いつも心深く思わされることは、教会が創立に至って92年ですが、教会創立に至る以前からこの茅ヶ崎の地でキリスト者の働き、祈りがあったことです。
先ず、医者の高田耕安さんが1898(明治31)年に結核療養所の南湖院を開設したことです。121年前です。高田耕安医師は若い日に同志社教会で洗礼を受けた方です。ベッドの数が千を超え、全国各地から結核を患う方が茅ヶ崎にやってきました。わたしの国どころか東洋一のサナトリウムとなりました。国木田独歩、八木重吉、坪田譲治なども南湖院で治療を行けました。そして、南湖院に入院したキリスト者が入院されている方や病院で働く方々によき感化を与え、何人かの医者が洗礼を受けました。
また、長野の小諸の小山房全さんが1917(大正)6年に純粋館という製糸工場を創設しました。小山さんの妻、喜代野さんは内村鑑三先生の教えを受けた方です。女工哀史という言葉がありますが、純水館では300人の女工さん一人一人を大切にし、家族と同じ食事をしました。品質も日本一でした。
この南湖院や純水館では、平塚教会の牧師をお呼びして家庭集会や日曜学校を行うようになり、これが後に茅ヶ崎教会創設に至ります。
留岡幸助という牧師がいました。間違いを犯した少年・少女たちの立ち直り、再出発を願い、東京の巣鴨に家庭学校を作りましたが、この方は北海道にも家庭学校を作りましたが、1922(大正11)年、家庭学校の分校を茅ヶ崎に創設しました。責任者は小塩高恒牧師でした。小塩力牧師のご尊父で、ドイツ文学の小塩節先生の祖父です。
このように茅ヶ崎では早くからキリスト者が地の塩、世の光としていろいろな分野で活動していたのですが、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で深刻な事態となりました。茅ヶ崎は9割以上の家屋が全壊もしくは半壊してしまったのです。
そうした中で、南湖院は建物も入院患者もほとんど無事でしたが純水館は工場が倒壊し、工場長の妻、小山喜代野さんは建物の下敷きで亡くなってしまいました。前にも申し上げたことですが、小山喜代野さんはわたしたちの教会が創立するに際して、一粒の麦となって亡くなったことを強く思わされます。家庭学校も甚大な被害を受けました。建物は全壊し、再建のためヨブのような苦しみを小塩先生は強いられました。小塩先生は家庭学校のことをこうおっしゃっています。「形式の貧弱なること日本一であった。世界の感化施設の粗末なるところがどこにあるだろうか。実にその意味で日本一であった。経費一人当たり日本一軽少であった。職員の少ないことも日本一であった。逃亡数の貧弱にして一年に一人も出さざるも日本一と謂うべく、誠に日本一微少なるものであった」、と。この家庭学校で寝食を共にしながら小塩先生を助けたのが、戦後衆議院議員としてまた浜松で聖隷事業団を立ち上げた長谷川保さんの妻となった八重子さんでした。
けれども家庭学校は創設11年目の1933(昭和8)年に閉校せざるをえませんでした。小塩先生は大きな挫折を覚え、東京の下井草で新たな働きを始めたのです。小塩先生の家庭学校は茅ヶ崎教会とは直接の関わりはありませんが、茅ヶ崎の教会創設前に、関東大震災で町が壊滅的な被害を受け、純粋館の小山喜代野さんが亡くなったこと、小塩高恒牧師が再建のためご苦労をされたことをわたしたちは心に留めなければならないことを思わされます。
茅ヶ崎教会が創設されたのは、関東大震災から4年目でした。しかし、教会を創立したのですが、専任の牧師を迎えるまでは14年間を要しました。その間、平塚教会や横浜日之出町教会の牧師たちが兼務してくださいました。最初の専任の牧師として着任したのが、その後長い年月わたしたちの教会の牧師として尽力された木下芳次牧師でした。1941(昭和16)年4月です。アメリカやイギリスとの戦争が始まる8ヶ月前です。神学校を卒業して、この地にまことの教会をと願って働き始めて一年もたたないうちに木下牧師に召集令状がきて、木下先生は辞任して戦地に赴きました。困難な戦時中の教会を守ったのは高田彰牧師です。高田先生は戦争中、茅ヶ崎や周辺に疎開していた子どもたちのところに赴き、人形劇や紙芝居をもって励まし続けました。戦争が終わり、木下牧師が復員すると、高田牧師は辞任し、木下牧師は再び茅ヶ崎教会の牧師となりました。
けれども教会創立以来教会を守ってきた人々と木下牧師が目指したこととの間に生じた溝が次第に深まり、1951(昭和26)年、礼拝堂を所有していた方から礼拝堂の返還を求められ、茅ヶ崎教会は礼拝堂を失ってしまいました。そして母子寮の一室をお借りして礼拝を守っていたのですが、その年の秋、今礼拝しているこの場所、当時は松林でしたが献げられ、翌年1952(昭和27)年から松林の整地作業を始め、土曜日と日曜日の礼拝後、会員が総出でブロックを積んで会堂建築しました。雨露がしのげるようになって二年後の1954年イースターからこの礼拝堂で礼拝をささげるようになりました。ですからわたしたちの教会は、この礼拝堂で65年間礼拝をささげていることになります。
教会が創立された92年前、一人の会員がご自分のすべてを注ぎだして会堂を建築し、それを教会にささげて茅ヶ崎教会がスタートしたのですが、結果として牧師との行き違いからその方から会堂の返還が求められたので、この会堂を建設するときは、他の教会に献金を依頼せず、自分たちの力で会堂を建築しようとしてブロックを積んで自力で教会を建設したのです。そのため献堂式は教会内の借り入れもすべて終えた1964年11月1日でした。建築を決意して13年、建築に着手して12年目でした。
そして、その献堂式の礼拝で木下牧師がテキストとして選んだのが、先ほど耳を傾けたネヘミヤ記1章4節~11節でした。
ネヘミヤという人はユダヤ人ですが、紀元前440年頃、ペルシャの国で王さまに仕えていました。そのネヘミヤのところにハナニというユダヤ人が何人かの人とやってきて、ネヘミヤにエルサレムの現状を伝えたというのです。バビロンとの戦争に敗北したのは紀元前587年です。多くの人がバビロンに捕虜として連れて行かれました。連れて行かれた人もエルサレムに残された人も大変でした。力を誇ったバビロンを打ち破ったのはペルシャでした。ようやくバビロンに捕囚になっていた人が解放されましたが、捕囚の期間は50年を超えたので代替わりをしていました。エルサレムに戻って20年位して、預言者のハガイやゼカリヤの励ましで神殿を再建しようとしたのですが、困難を極めました。
ネヘミヤにエルサレムの現状が報告されたのは敗戦から数えると140年、神殿の再建に着手して70年たったときです。ハナニはエルサレムの現状をこう報告しました。3節です。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」
そうしますとネヘミヤは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげたことが4節に記されています。
ネヘミヤの祈りはわたしたちの心を打ちます。おそらく一度もエルサレムに
行ったことがなかったネヘミヤです。でもエルサレムの現状を聞いたとき、幾日も嘆き、食を絶って祈ったことは、「わたしたちは罪を犯しました」という罪の告白でした。バビロンと戦争したこと、多くの人が捕虜としてバビロンに連れて行かれたこと、50年振りにエルサレムに戻ったことは戻ったのですが、町の再建が思うように進んでいないことに対し、「あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも父の家も罪を告白しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした」と、祈るのです。間違っていたのは彼らだとして、当時の人々の罪を指摘するのではなく、戦争を始めたこと、捕囚になったこと、エルサレムの再建が思うように進まないこと、こうしたことはわたしたちの罪、わたしの罪だと告白するのです。そして、神さま、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてくださいと頭を垂れるのです。
55年前、13年かけて会堂建築をして献堂式のとき、木下牧師はこの個所をテキストにして、説教されました。自分たちの教会は礼拝する場所を失い、苦労した、けれども自分たちは一致団結して会堂建築をして会堂が与えられた、感謝だというのではなく、わたしたちの教会は多くの失敗、過ち、罪を犯し、ちりぢりになり、涙を流し、屈辱のバビロン捕囚を味わいました。それはバビロンが悪いのでもなく、神が非情でありたもうのではなく、同胞が裏切ったからでもなく、ただおのれ自身が罪を犯し、神を忘れ、人を愛さなかったからであります。この事実を正直に認め、赦しをこわねばなりません、と語ったのです。
木下牧師は礼拝堂を失うという苦しみはわたしたちの罪からだ、さらにアジアの人々に対して自分たちの正しさを誇り戦争をしてしまったこと、そうした罪を深く懺悔するのです。
実は1945年、ドイツの敗北が近づいたことを知ったスイスの教会は、戦後、ヨーロッパの再建のために何が必要か、そのことを祈ろうとしたとき、ネヘミヤ記に耳を傾けることが申し合われました。自分たちスイスは永世中立の立場から戦争に巻き込まれなかったが、本当に正しかったのか、武器を輸出したのではなかったか、自分たちはネヘミヤに励まされて、わたしたちは罪を犯しましたと告白することなくしてヨーロッパの再建に与することはできないことをネヘミヤ記に耳を傾け、告白したのです。
教会の創立記念日は92年前の10月30日です。そして翌日の10月31日は宗教改革記念日です。502年前の10月31日、ヴィッテンベルグの城教会の扉に、教会が聖書の言葉によって改革されなければならないことを訴え、ルターが95箇条の提題を貼ったことが、当時の教会に抗議した、プロテストしたということを記念する日です。
95箇条の冒頭、第1条は「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよと言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうのである」です。
最初に耳を傾けたルカ福音書でも、ファリサイ派の人は、自分がどれだけ神さまの前に正しい生活をしているかを数え上げていますが、徴税人は胸を打ちながら「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っています。
わたしたちの罪は神の子イエス・キリストを十字架の死に追いやるほど深いものです。イエス・キリストはその罪を負って十字架に赴かれました。イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない、そのことによって教会が教会として立つのです。他との比較で、自らの優位性を誇るところには教会は存在しません。
茅ヶ崎教会の原点は他との比較で、自らの優位性を誇るのではなく、イエス・キリストの十字架の前で自らの罪を懺悔し、イエス・キリストの十字架の贖いによって赦しを与えられた群れであることです。
この十字架の贖いの恵みを誠実に証しする群れでありたいと願っています。