2018年9月16日 礼拝説教「語り伝えるべき信仰」

詩編71:14~24
ローマの信徒への手紙5:1~11

櫻井重宣

明日は、わたしたちの教会の歴史で大切にしている教会修養会です。68年前、この地に会堂建築に着手した年、茅ヶ崎教会がこれからどういう教会を目指すのか、そのことをみんなで祈り、聖書に聴き、学び合おうということで教会の修養会を開催しました。その時以来、献堂式が行われた年には開催できませんでしたが、毎年この時期に開催し、今年は67回目の修養会です。ブロックを積んで目に見える教会を建築することと同時に「目に見えない教会」の形成のためにわたしたちの教会の先人たちは祈りを篤くしたのです。

ところで、今年のテーマ、主題は「語り伝えるべき信仰」です。わたしたちは次の世代に何を語り伝えるかということです。

実は、今年の修養会の準備をすすめる中で、修養会は限られた時間で行われ、しかも礼拝に出席しておられる方がすべて修養会に参加できるわけでないので、前日の主の日の礼拝、すなわち本日の礼拝で、主題を深めるために選んだ御言葉にみんなで耳を傾けよう、ということになりました。そこで本日は、修養会の主題聖句として掲げた詩編71:14~24とローマの信徒への手紙5:1~11に耳を傾けたいと思います。

さて、詩編71:18節の2行目から19節の1行目の「御腕の業を、力強い御業を 来たるべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています」という聖句は、わたしたちの教会が今年度の聖句として掲げた聖句です。毎週週報に記し、この聖句に励まされながら、この一年教会生活を続けています。そのため年度初めの5月6日の礼拝で、この詩編71に耳を傾けたわけですが、その時心に留めたことを思い起しつつ、今一度新たな思いで学んで参りたいと思います。

この詩編71は長い人生を歩んできた人の詩です。わたしたち一人一人もそうですが、自分が今日まで歩んできた道のりを振り返りますと、順調なことだけでなく、つらいこと、悲しいことに直面したことを思い起します。最近、心痛むことは大きな自然災害に直面した方が、まさか自分の人生でこうしたことに遭遇するとは、と涙している姿を目の当たりにすることです。

この詩人もそうです。先ほどは14節以下をお読み頂いたわけですが、少し前の4節には、逆らう者、悪事を働く者、不法を働く者から追い詰められた、とありました。そして9節以下には、老い日を迎えた詩人が、弱さのゆえに嘲けられている、そうした苦しみに直面しています。

 けれども詩人は、生まれる前から神さまはわたしを愛してくださったこと、自分も神さまに依りすがって歩んできたことを告白します。

 「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 母の胎にあるときから あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から わたしを取り上げてくだいました」と。そして7節では、今日まで、いろいろなことがあったが、「神さまはわたしの避けどころ、砦となって下さった」と告白するのです。

 実はこの詩編71で繰り返し詩人が用いている言葉があります。今年の主題聖句にしている19節にもありますが、「恵みの御業」という言葉です。詩編71で5回も「恵みの御業」と語っています。

2節で詩人は「恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救い下さい」と願っています。詩人の切々とした祈りです。15節では、「わたしの口は恵みの御業を 御救いを絶えることなく語り なお、決して語り尽くすことはできません。」さらに16節「しかし主よ、わたしの主よ わたしは力を奮い起こして進みいで ひたすら恵みの御業を唱えましょう。」そして19節「神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう」と神さまを賛美しています。最後の24節「わたしの舌は絶えることなく 恵みの御業を歌います」です。人生の最後まで、恵みの御業をうたいます、というのです。

 このように、詩人は、困難なことに直面したとき、「恵みの御業」によって助けてくださいと神さまに祈り、「恵みの御業」は母の胎にあるときから、いつも自分の歩みを支えてくださった、今も支えてくださっている、これからも支えてください、と願い、「恵みの御業」を絶えることなく賛美するというのです。

 実は、「恵みの御業」と訳されている言葉は、「あなたの義」、神さまの義です。口語訳聖書では「あなたの義」、文語訳では「なんぢの義」と訳されていました。

ですから、新共同訳聖書で「恵みの御業」と訳した背景には、この言葉の持つ意味合いをよりよく伝えたいという願いからです。

義という言葉は、神さまとわたしたちの関係で用いられる言葉です。神さまとわたしたち人間は約束関係に基づく、神さまとわたしたちが、我と汝、一対一で向き合うということが聖書の語ることです。約束関係というのは約束を結ぶ双方が約束を守ることが大切です。けれども、わたしたちは神さまにそむくことがあります。神さまとの約束を守れないことがあります。その神さまとの約束が破棄されないのは、神さまはどんなときにもその約束に誠実だからです。神さまの方から糸を切りません。神さまの恵みとしかいえません。最後的には約束を守れないわたしたちに独り子イエスさまを贈ってくださいました。ですから、新共同訳聖書では「あなたの義」を「恵みの御業」と訳しているのです。

 それゆえ、詩人は自分の歩んできた人生でいろいろな試練に直面し、苦難を経験したのですが、「神さまがどんなときにも義であった」、神さまはどんなときにもわたしとの関係を断ち切ることがなかった、神さまは愛であり続けた、とくに試練のとき、苦難に直面したとき、わたしたちの味方であった、だから自分はこうした神さまの力強い御業を来たるべき世代に語り伝えたい、その願いから恵みの御業を語り伝えさせてください、と詩人は祈っているのです。

こうした詩人の祈り、信仰はパウロにも通じます。先ほどローマの信徒への手紙5章を読んで頂きました。パウロは人生の半ばでイエスさまに出会った人です。イエスさまに出会う前は、イエスさまを信じる人や教会を迫害していたのですが、イエスさまに出会い、イエスさまを信じてから、イエスさまのことを宣べ伝え、伝道し、いろいろな町に教会を形づくりました。パウロがイエスさまに出会って180度変化したことの一つに「苦難」の受けとめ方があります。パウロはユダヤ社会でエリート中のエリートでした。人との比較で自分の優位性を誇る人でした。そうしたパウロにとって、病気や苦しみを前向きに受けとめることはできませんでした。けれどもイエスさまとお会いしてイエスさまがどういう方か、独り子イエスさまをわたしたちのところに贈ってくださった神さまの大きな愛を知ることができたとき、パウロは大きな変化を遂げました。先ほど耳を傾けたローマの信徒への手紙5章1節と2節にこうあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

ここでパウロが語っていることは、イエスさまが十字架の死を遂げ、よみがえられた世界なので神さまとわたしたちの関係は根本的には平和だ、というのです。そして3節~5節でこう書き記します。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の霊がわたしたちの心に注がれているからです。」

そして、どうして「苦難」を前向きに受けとめることができるようになったかを6節以下で語ります。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのため死んでくださったこと      により、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 パウロの切々とした思いが伝わってきます。まだ罪人であったとき、キリストはわたしたちのために死んでくださった、そのことによって神さまはわたしたちに対する愛を示された。敵であったときでさえ、イエスさまの十字架の死によって神と和解させていただいたので、どんなことがこれから起こっても神さまの愛から自分を引き離すものはないのだ、というのです。ですから、苦難ということでいうなら、一番苦しみの深まったところで、イエスさまは十字架の苦しみを厭うことなくわたしの苦しみを共にしてくださった、だから苦難を前向きに受けとめることができるというのです。失望しないというのです。わたしが教えを受けた左近淑先生は、旧約学者として、信仰の継承ということを熱く語った先生でしたが、先生が信仰の継承ということでよく紹介したのは、劇作家、評論家として今も活躍しておられる山崎正和さんの「教育の終焉」という本で山崎さんが語っていることでした。 山崎さんは、アメリカでは国の独立の前から教育があった。イギリスから移民してきた人が教会を作り、そして寺子屋のようなかたちで教育が始まった。特別に偉い人がいたわけではないが、残酷な自然環境の中で、人間が文化の連続性を守るほとんど唯一の営みであった。教育というものは、これなしにどうにもならないものを次の世代に伝える、これが教育の原点である、と語るのです。左近先生は、この山崎さんの言葉を紹介しつつ、聖書の民もそうであった、とおっしゃっていました。

あらためて、今日の箇所詩編71の詩人もパウロもそうです。どんなにつらい時にも、悲しい時にも、病のときにも神さまは共にいてくださったというのです。 旧約のヨブもそうでした。次から次と苦しみ、試練に直面し、神さまからも敵を追い回すようなかたちでわたしに迫ってくる、あまりのつらさから神さまの御手が及ばない、陰府に隠してくださいと願い出ました。その陰府でヨブは神さまとわたしの間に立つ仲保者がわたしのために執り成していたことを知ったのです。ヨブはこのことに本当に心を動かされ、自分のお墓に記して語り伝えようとしました。

ヨブが墓碑に記してまで伝えようとしたこと、詩編71の詩人の祈り、パウロの思いをわたしたちも受け継ぎ、語り伝えていきたいと願うものです。

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