コヘレトの言葉3:11
エフェソの信徒への手紙3:1~13
櫻 井 重 宣
今朝はただ今御一緒に耳を傾けたエフェソの信徒への手紙3:1~13を通して、神さまの大きな御計画に思いを深めるとともに、神さまの前では小さな、小さな存在に過ぎないわたしたち一人ひとりにも神さまから大切な使命、課題が与えられていることに思いを深めたいと願っています。
冒頭の1節~3節をもう一度お読みします。
《こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは・・・・。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に
書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに示されました。》
エフェソの教会に宛てた手紙を書いたパウロは、キリスト者を迫害していた人でした。使徒言行録の9章にはこう記されていました。
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」
サウロというのはパウロのことです。パウロがこのダマスコに行く途中で、復活のイエスさまにお会いし、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と問われ、イエスさまという方は、だれかが苦しんでいるとご自分が苦しむ、そういう方であることを示され、パウロはイエスさまを信じ、洗礼を受け、伝道者になりました。伝道者になったパウロは、異邦人への伝道に使命を与えられました。
パウロは、1節で「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」と語っています。実際この手紙をパウロが書いたのは獄中です。パウロは、異邦人に伝道するなかで、獄に入れられたのですが、自分の伝道者としての歩みは異邦人伝道、そのことにすべてをかけた、自分は異邦人伝道を使命とした、というのです。しかも2節にありますように、異邦人伝道はいやいやながらではない、恵みとしかいいようのない働きであったというのです。
4節と5節をお読みします。
《あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や’霊’によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者に啓示されました。》
異邦人が神さまに招かれている、ということはキリスト以前には知らされていなかったというのです。もちろん旧約聖書のルツ記やヨナ書には異邦人への神さまの関わりが記されていましたが、パウロはキリスト以前には人の子らに知らされていなかった、もっというなら、どの人にも、異邦人にも神さまの愛が注がれている、異邦人も神さまの慈しみ包まれていることを教えてくださったのはイエスさまだ、というのです
ここでパウロが、今や’霊’によってというのは、聖霊降臨の出来事です。あの日、そこに居合わせた人たちはそれぞれ自分の言葉で使徒たちが語ることに耳を傾けたのです。
6節をお読みします。
《すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。》
ユダヤ人も異邦人もキリスト・イエスにおいて、約束されたものを一緒に受け継ぐ者となる、同じ体に属する者となる、すなわち同じ教会の一員となる、そして同じ約束にあずかる者になる、というのです。
使徒言行録を見ますと、パウロが伝道者となってまもない時は、異邦人が教会のメンバーとなることは大変な時代でしたが、パウロはユダヤ人も異邦人も、約束されたものを一緒に受け継ぎ、同じ教会に連なり、同じ約束にあずかる者になるというのです。
7節をお読みします。
《神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。》
福音に仕える者とされたのは、神さまの恵みだというのです。パウロの福音に対する謙虚な姿勢を心深く思わされます。
そして8節と9節ですが、こう記されています。
《この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。》
パウロは、自分のことを「最もつまらない者」と言います。口語訳聖書では「最も小さい者」と訳されていました。パウロは、異邦人伝道という恵みが、最もつまらない者、最も小さい者に与えられたというのです。パウロはコリント教会への手紙においても、三日目に復活したイエスさまは、最後には月足らずで生まれたようなわたしにも現れた、わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者だ、と語っています。最も小さい者、最もつまらない者が、キリストの計り知れない富、すなわち異邦人へ福音を告げ知らせ、神さまの御計画がどのように実現されるのか、それをすべての人々に説き明かすというのです。小さい者、つまらない者が起点となって神さまの大きな御計画を証しするというのです。
10節と11節にはこう記されています。
《こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知られるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。》
神さまの働きは、教会によって、天上や権威にも知られるようになったというのです。神さまの御計画は全世界に及んでいる、そのことが明らかになるというのです。
わたしたち、主の祈りにおいて、御国が来ますように、御心が天におけると同じように地にも行われますように、と祈ります。教会の祈りはそのために責任があるというのです。神さまの御手が全世界に及んでいる、そのことを教会の礼拝で祈り、証ししなければならないのです。
わたしの父は東北の小さな教会で生涯奉仕しましたが、晩年、小さな教会の牧師就任式や小さな教会で生涯伝道した牧師の葬儀のとき、いつも語っていたことがあります。アブラハムが神さまに談判しながら祈る姿でした。神さまがソドムとゴモラがあまりにも神さまの御心から離れた歩みをしているので滅ぼそうとお決めになったとき、アブラハムはもし50人正しい人がいたとしても滅ぼすのかと迫りますと、神さまは滅ぼさないとおっしゃる。しかし50人の正しい人を見いだせないので45人ならば、と言う、神さまは赦すとおっしゃる、しかし見いだせない、40人なら、30人なら、20人なら、10人ならと値切っていきます。神さまは10人いれば赦すとおっしゃる。しかし、10人の人を見いだせず、ソドムとゴモラは滅ぼされます。
父はこの個所をこう読んでいました。東北の教会はどこも小さく、20人で礼拝を守る教会、10人で守る教会、5人で守る教会、ほとんどがそういう教会だ、けれども10人で礼拝を守る教会は、その町のために祈る、10人が祈っていることでその町が滅ぼされない、小さな教会の会員に、牧師にこの町の救いが、国の救いがかかっている、10人の礼拝する者の重みがある、その10人になろうと語っていました。
パウロは最も小さい者、最もつまらない者である自分に世界のすべてがかかっている、神さまはそうしたかたちで小さい者を用いておられるというのです。
12節と13節をお読みします。
《わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。》
パウロは獄中にあり、苦難のただ中にいるのですが、この苦難はエフェソの教会の栄光だというのです。
4年前に104歳で亡くなった詩人まどみちおさんは、若い時洗礼を受けたキリスト者です。まどさんの詩に「ぼくがここに」という詩があります。
《ぼくがここに》
「ぼくがここにいるとき ほかのどんなものも
ぼくにかさなって ここにいることはできない
もしゾウがここにいるならば そのゾウだけ
マメがいるならば そのひとつぶのマメだけしか
ここにいることはできない
ああ このちきゅうのうえでは こんなにだいじに まもられているのだ
どんなものが どんなところに いるときも
その『いること』こそが なににもまして すばらしいこととして」
パウロが語ることはそのことです。最も小さい者である自分が、神さまはどの人をも愛しておられる、その神さまの御計画を証ししているというのです。
今日から7月ですが、6月はハンセン病のことを正しく知る月でした。ハンセン病の人は、本年5月で1333名となりました。平均年齢は86歳です。昨年5月は1468名おられましたが、昨年からの一年で130名減少しました。ハンセン病の療養所にある教会は、会員数6名ですが、最近10日間で2人亡くなったそうです。ハンセン病の療養所は、そして療養所にある教会はいずれ終焉を迎えようとしています。現在おられる1333人の患者さんのお一人ひとりの証しに耳を傾けることの大切さを思わされます。
最後にもう一度、コヘレトの言葉の3章11節をお読みします。
「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
この個所は口語訳ではこう訳されていました。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」