2018年3月4日 礼拝説教「総督ピラトのもとに苦しみを受け」

詩編62:1~13
マタイによる福音書27:11~26

櫻井重宣

今日はレントに入って3回目の日曜日です。ただ今お読み頂いたマタイによる福音書27章11節~26節に耳を傾け、イエスさまの十字架の苦しみに思いを深めたいと願っています。

最初に27章の冒頭、1節と2節を読みます。

 《夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。》

 「夜が明けると」とありますが、金曜日の朝を迎えたことです。イエスさまは金曜日の午前9時に架けられ、午後3時に息を引き取られるのですが、その金曜日の早朝、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスさまを殺そうと相談し、イエスさまを縛って引いて行き、総督ピラトに渡したのです。

イエスさまが逮捕されたのは、木曜日の夜でした。直ぐユダヤの最高決議機関の最高法院が開かれ、そこで死刑にすべしと判断され、当時ユダヤの国はローマの支配下にあり、死刑の執行ができませんので、ローマの総督ピラトに渡されたのです。

この「渡した」と訳されている言葉は、ギリシャ語のパラディドーミです。イエスさまの12弟子の一人イスカリオテのユダがお金と引き替えにイエスさまを祭司長たちや民の長老たちに引き渡す、そして最高法院での判断の下に、こんどは総督ピラトに引き渡されました。そして先ほどお読み頂いた26節に「そこで、ピラトはバラバを釈放し,イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」とあります。この「引き渡した」もパラディドーミです。イエスさまが次々と引き渡され、最後には十字架に架けられたのです。

ところで総督ピラトですが、先ほども御一緒に告白しましたが、使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあります。二千年の教会の歴史で告白されてきた使徒信条に人の名前がでているのは、イエスさまの母マリヤとピラトだけです。ユダヤ人の歴史家ヨセフスの記しているところによれば、ピラトは紀元26年から36年までユダヤの総督でした。ですからイエスさまが十字架に架けられたのは、この期間であったのです。

それでは、今日の箇所をもう一度少しずつ読んでいきます。先ず11節から14節です。

《さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それはあなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。》

イエスさまがピラトの前に立ったとき、ピラトから最初に尋問されたことは、ユダヤ人の王かどうかということでした。

マタイによる福音書には、イエスさまが総督ピラトに引き渡された理由は書いてありませんが、ルカ福音書には「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」からピラトに告発されたと記されていました。ピラトはこうした告発を受けて、イエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。宗教上の訴えですと、ローマは取り上げませんので、ユダヤの国を混乱させようとしているということで、総督ピラトに訴え出たので、ピラトは「お前はユダヤ人の王か」と尋ねたのです。

そうしますと、イエスさまは「それは、あなたが言っていることです」とおっしゃいました。ユダヤ人の王だということは、あなたがそう言っていることだ、とおっしゃるのです。初代教会が誕生したあと、キリスト者は、イエスは主なりと告白するようになりました。これは、ローマの皇帝カエサルが主ではなく、十字架に架けられ、よみがえられたイエスさまこそ主だ、という告白ですが、イエスさまはユダヤの、ローマの、日本の、アメリカの主だということではなく、イエスさまは生きていときも死ぬるときも主だ、ということです。

実は、ピラトの前でイエスさまが口を開かれたのはこの言葉だけです。総督ピラトが不思議に思ったほど、イエスさまは、何もお答えになりませんでした。第二イザヤは「しえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」と来たらんとするメシアの姿を預言していますが、イエスさまは沈黙したままでした。あるいは先ほど耳を傾けた詩編の詩人がうたうように、イエスさまは沈黙して、ただ神に向かい、神さまに心を注ぎだしておられたのです。

15節にこう記されています。

《ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。》祭りのとき、囚人の一人を釈放する習慣は、ユダヤを支配下においていたローマのユダヤ人の心を引きつけておくための政策の一つと言えます。

 16節《そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。》ここには、バラバが評判の囚人であったとありますが、マルコ福音書には「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちのひとり」とあり、ルカ福音書では「暴動と殺人のかどで投獄されていた」、ヨハネ福音書には「強盗の一人」とあります。いずれにしろ、暴動を起こし、人殺しをしたので投獄されていた人で、エルサレムでは評判の一人であったことがわかります。

 17節と18節《ピラトは、人々が集まって来たときに言った「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは」、ねたみのためだと分かっていたからである。》

 イエスという名は「主は救い」という意味の名です。「バラバ」というのは「父の子」です。ですから、ここでピラトがユダヤ人に問うているのが、あなたがたが釈放してほしいのは、父の子と言われるイエスか、それともメシア、救い主といわれるイエスか、どちらなのかということです。

19節はマタイだけが記していることです。

《一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」》

 ピラトはイエスさまが引き渡されたのはねたみのためだと分かり、妻からもこう言われたので処刑には反対だったのですが、そうした自分の考えが通らなかったことが20節以下に記されます。

《しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか。」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。》

 祭司長たちや長老たちはイエスではなくバラバをと扇動していたので、「十字架につけろ」という要求の声が強まったのです。

 24節《ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」》

 ピラトは自分の責任ではないと言って群衆の前で手を洗いました。わたしはピラトが手を洗って、わたしには責任がないと言ったことでいつも思い起こす詩があります。

松田明三郎先生の「踏み絵」という詩です。

「ある牧師館の客間でわたしは 床にかざってある踏み絵を見た。

  木目のはっきりとあらわれた けやきの長方形の板のなかにはめられた

  基督の像には、青い銅のさびがついている。

  多くの人々に踏まれたので あるところはもう摩滅しているようだ。

  徳川幕府による切支丹迫害の頃、人々は毎年一回役所に呼び出され

  役人たちの面前で 基督の像を足で踏ませられることになっていた。

  その時、潜伏キリシタンたちは いかが致したことであろうか。

  止むを得ないおきてであるから これを足で踏むことは踏んだが

  彼らは自宅に帰ってから、先ずその足を洗い、一同その水を飲み廻し、

  ざんげの祈りを 主のみまえに 捧げたとのことである。

  こういった伝説を聞かされながら、踏み絵に見入っていた時わたしは

  深い感動をよび起こされて まぶたの熱くなるのを 覚えたのである。

ピラトは手を洗って自分には責任がないと言うのですが、隠れキリシタンの人々は基督の像を踏んでしまった足を洗った水を共に飲むことで、踏み絵を踏んでしまった苦しみを、弱さを共にしているのです。

25節と26節 《民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。》

ユダヤ人が血の責任を負うとここで言ったことが、その後の歴史でユダヤ人迫害が正当化されるようになったのです。

ところで、今日の聖書の箇所から、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白されるようになったのですが、この告白で心に留めたいことは、イエスさまの十字架の苦しみは、わたしたち一人ひとりが生きているこの現実のただ中での出来事だということです。そのため、イエスを主なりと告白するわたしたちもこの苦悩に満ちた時代のただ中で生き、死んで行くことが求められているのです。

ボンヘッファーは、逮捕される数年前、1939年6月アメリカにいました。アメリカの友人たちがボンヘッファーにアメリカにとどまるように、ドイツに戻ったら命が危ないと言ったのですが、ボンヘッファーはドイツに戻りました。そのとき、ボンヘッファーはアメリカの友人にこう書き送りました。

「私がアメリカへ来たのは間違いでありました。私は、私たちの国の歴史の困難な時期をドイツのキリスト者として生きなければなりません。もし私がこの時代の試練を同胞と分かち合うのでなければ、私は戦後のドイツにおけるキリスト教生活の再建にあずかる権利をもたなくなるでしょう。

戦場から休暇で帰って来た兵士が、自分を待っていたすべてのものをふり棄てて、また戦場へ帰って行く時のようなものです。そこに私たちの生命があるからであり、もしもそこへ私たちが帰らなければ、私たちは自分の生命を棄て去り、そして否定することになるからです。」

わたしは、このときのボンヘッファーの決断にいつも深い思いをさせられますが、こうしたボンヘッファーを励ましたのが、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けたイエスさまであったのです。

今日の時代、いろいろな課題があり、問題がうごめいていますが、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けたイエスさまに励まされ、遅々とした歩みかもしれませんが、この時代の痛みを負いつつ歩んで参りたいと願っています。

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